Echo

 入口が低い引き戸になっている時点でだいたいわかっていたけれど、話の通り、そこはなんだかあやしげな、狭い茶室だった。というのは、畳の蒸したようなにおいが一段と漂っていて、鳳凰かなにかを描いた金いろの屏風が張られてあり、そのすぐ手前の角に、炉がしつらえられてあったのだ。三味線の音色でもきこえてきそうな空間なのだが、実際にはただ静寂のみが支配しており、張り詰められた弦のように緊張しているのは、むしろこの部屋自体である。

 だがぼくが驚いたのはそのことではなかった。


 ざああ……ざあああ……


 と、うねりうちよせる清冽な水流が、なんと部屋を、床を、完全にのだ。

 奇妙なことに、その波はこちら側には流れ込んではこないで、ただ茶室の中だけを浸しているような、唯我独尊の水だった。

『――よくぞ来た。さあ、堅苦しくせず、楽にしなさい』

 声の主の姿は見えない。

 あるのはただ、重力さえも無視したような、限りなく透明に近い水。

「え……?」

 ぼくは当然踏み込むこともできないわけで、目を疑うしかない光景の前に唖然とさせられていたのだが、しばらく見ていると徐々に透明な波がひいていき、そこから袈裟を着た、いかにも修行僧な身なりの男が、姿を現してくるのがわかった。いや、姿、というべきだろうか。あとに残っている水といえば、その大男の手前にある、炉の水瓶だけだった。

 魔法のような、手品のような、摩訶不思議な怪奇現象。

「……失礼。あまりにも遅いものだから、水想観に心を砕いていたのだった。お見苦しいところを申し訳ない」

 この寂然とした幽栖で首を長くして待っていたのは、当たり前のように僧だった。

「い、今のは……?」

観無量寿経かんむりょうじゅきょう十六観の一、水想観すいそうかん。水の清澄映徹たるを瞑想することにより、彼我の対立を脱し、浄土瑠璃地へ達する法といえばよいか。妖術奇術のたぐいではない」

「ま、マジすか……? え……それってぼくにもできます?」

「今の君では難しいだろう」

「で、ですよね……」

 クソ間抜けな感想を言ったあと、ぼくはおずおずと茶室へ入り、そのまま中央で目を瞑ったまま鎮座している、精悍な面構えの大男に正座して向き合った。いきなりあんな超常的な法力を見せられたこともからわかるように、明らかに尋常ではない鍛錬を積んでいる、まるで別世界の「先生」だ。

 ――彼の名は爾在ジザイ。ただの袈裟を着たおっさんではない。

 高僧であり、科学者。MAYUの開発にかかわったエンジニア。大学で医学の博士号をとっていたともいうから、まちがいなく頭はできる。そしてこの屋敷の持ち主だ、総資産がどれくらいあるのか、ぼくには想像も及ばない。

 また年齢を感じさせないしなやかな体躯がはっとするほど美しく、袈裟の袖先をさっとすくい上げる所作など見るにつけても洗練された息遣いを感じるのだが、なにより不思議なことに、この人は一切目を開けていないにもかかわらず、あたかも視えているかのようにふるまうことができるのだった。

「――科学と仏の法は、相容れぬと思うか」

 つ、と茶菓子を目の前に出されながら、まさに疑問に思っていたことを訊かれている。

「さあ、わかりません……。でもこれはわかります、世の中には二種類の僧がいて、金のことしか考えていないタイプの僧と、何を考えているのかわからないタイプの僧がいる……」

「ふむ、若いな……だが結構。ならば私の考えを話そう。確かに科学的探究心の根底には等しく欲がある。これは煩悩を否定する仏の教えには逆らうものだろう。しかるに自然の法も法なれば、行き着く先はすべてくう。己が欲に溺れぬためにこそ、戒めの法が必要なのだ。もっとも私が専心しているのは、技術としての観法だがな――」

 そう言いながらも、彼は流れるような手つきでそこにある漆塗りの容れ物から一匙の茶葉を取り出しており、それを螺鈿らでん細工の大きな椀に移し替えて、尺から湯を注いでいる。

 何が行われているかは一目瞭然だった。ここが茶室であるからには厳粛な茶室の原理がはたらいていて、誰もがそれに従わざるを得ない、ということであるらしい。ぼくは神妙な面持ちで畏まりつつ、目の前で実演される点茶の様子を見守ることとなった。


 釈迦釈迦釈迦釈迦釈迦釈迦釈迦釈迦シャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカ……。

 スッ。


「…………」なんだこれ。

 ギャグではないか? と一瞬疑いかけてしまったけれども、有無をも言わさぬ速さによって、此度はいみじくも茶室の原理が勝利を収め、ぼくは顔面に湯気を浴びている――茶室の中では、先生の言う通りになさってください、さもなければ死にますよ――かりんの忠告が効いていた。そう、ここは絶対に笑ってはいけない茶室なのだ……。

 わけもなく、これを飲んだら自分も共犯者になってしまうような気がしたが、もはや状況は抜き差しならず、場の空気に圧迫されるようにして、ぼくは茶碗をくるくるくるりんと回し、一口なめたが、人生の苦汁の味がした。

「……茶は、嫌いだったか」と僧が重たい沈黙を破る。

「いえいえいえいえ大変結構なお点前でございました」

「……………………………………………………………………………………………そうか」

 今の溜めいる?

「茶には心を鎮める効用がある……少し気持ちがほぐれたろう」

「ああ、確かに……」

 なるほど……。そうかこの人は、ぼくが動揺していると悟った上で、必要のために点茶をふるまってくれたんだな……。思いがけず無骨な男の心遣いを感じ、ぼくはついつい野暮な質問をしたくなったが、そこはぐっとこらえて、泡立てる抹茶と一緒に飲み下してみる。するとさほど渋くは感じない――大人の味だ――それを見て爾在さんはほんの少しだけ厳めしい相好を崩す。その顔は、むしろそちらのほうが本来のそれと思わせるような、おだやかな表情だった。

 ――カコン。

 時が身体に沁みてゆく。

 緊張と余裕。その微妙な均衡のなかに陶酔のゆらめきがあり、これが茶室の空間と時間を取り仕切るのかもしれない。……爾在さんがこの作法を大切にしていることはすごくわかった。

 けれどもぼくとしては、そろそろ本題に入ってほしい。そう思いかけていたときだった。

「これまでの被験者サブジェクトとも、私は同じように接してきている――腹を割って話そうではないか。私は君に興味がある。来し方を顧みれば、こうして直に相対するのもいつ以来になるだろうか」

「おかしなことを言う人ですね。ぼくたちはまだ昨日出会ったばかりじゃないですか」

「そうとも言うまい。これでも君の半生はよくよく理解しているつもりだ、こうして一瞬の儚さを共に感じている以上はな。袖振り合うも多生の縁だ。君は茶道の理念を知っているね?」

 これまでの被験者サブジェクト、というさっきの一言が妙に気がかりではあったが、おそらく個人のプライバシーにかかわる情報だから、教えてはくれないだろう。

「ああ……ええと……一期一会、でしたっけ」

「そう――」と僧は語る。「かつて名高い武将とされた者どもも、茶室ではみな刀を降ろし、ただ一人の男として互いに向き合ったという。ゆえに肩書きや俗世のことなど、ここに至っては些事に過ぎぬと考えるにくはない。……さて、長引かせてすまなかったな。本題へ移ろう。ここに稿がある。実験の結果得られたものだ」

 満を持して、床の間の隅に置かれた抽斗から、爾在さんが一篇の分厚い紙束を取り出した。

 見た瞬間、ぼくにはそれがなんだかわかる。

 ……小説だ。

 そう、小説。

 ざっと見たところ、百ページは軽く超えているだろうか。ぼくが生まれてから書いてきたすべての文章よりも、多いかもしれない。一夜にしてこれだけの分量となると、すごい速さだ。

「これが、ぼくの……」

 思わず息を呑む。

 興奮が抑えきれない……。

「まだ完全な状態ではない」念押しするように言い留めながら、爾在さんは畳の上の紙束を、トランプのように広げてみせる。「MAYUは君の脳のあらゆる状態――すなわち知能、情動、記憶、意識、感性、悟性、理性、構想力――その他のモジュールを可能な限り追跡トレースしてこのような文章を書き出したが、当然それだけでは不足がある。人の脳に限界があるように、MAYUのパフォーマンスにも限界があるということだ」

 急に小難しい単語がずらずら並びはじめたけれど、何を言わんとしているかはわかる。

 MAYUは全能で完璧な自動執筆装置ゴーストライターではない。

 それはぼくのような被験者サブジェクトを中に入れて、その脳を使うという面倒な手順を踏まなければならないことからも明らかだった。

「でも、これはグーテンベルクの活版印刷技術に次ぐ、革命的な発明ですよ。この技術が実用化された暁には、きっと小説という概念が変わるでしょうね。そして人力に頼るような遅れた作家はみんな淘汰されていなくなります。確か、話素という物質を使うんでしたっけ?」

 爾在さんは目を瞑ったままうなずいた。

 彼曰く、人の心は話素という四次元的な物質から成るらしい。そもそも肉体と精神という、二つの相容れない存在がどのように聯関れんかんして動くかという哲学史上の大きな問題があって……細かい説明は省くけれども(知るか)、爾在さんの研究はこれに関連しているのだとか。

 つまり彼はこう見えて、界隈ではちょっと名の知れた、新しい唯物論の提唱者なのだ。

「心あるところに話素あり、話素あるところに心あり」

 さらりと深遠なことを言っていた気がする。

「あの……、話素というのは、要するになんなんでしょうか? 霊魂アニマのようなものですか? それとも、微視的な素粒子のようなものですか?」

「どちらの性質も備えている、いわば生命の光だ」彼は科学者として、また僧として答えた。「むしろそれは巨視的な運動の相において捉えるべきだろう。たとえば我々は光が粒子と波の二つの様態を持つことを知っている。だがそこには、観測者のという外せない項がある。このの項を含めた時間的関数の解こそが話素だ。それは時に期待であり、欲でもある」

 やばい、意味がわからん。寝よ。禅問答が終わるまで。

 ……でも、「生命の光」か。

 それだけは、なんとなく、イメージができる。

 つまりその光が紙の上に投射されて小説になった、と。

 あれ……なんか美しくない?

 萌え萌えライトノベルだけど。

 いやしかし、とにかくぼくにとって重大なのは、多少のずるをしたとはいえ、こうしてはじめて目の前に「ぼくの作品」と言えるものが誕生した、という一点に尽きる!

 これだけはいくら強調してもし足りないくらいだが、あくまでMAYUは、ぼくの可能性ポテンシャルを引き出してくれたに過ぎない。だからこれを書いたのは間違いなくぼくだといっていいのだ!うおおおおおおおおお。やったぜ。

「……あの、これ、頂戴しても?」

「無論、公開するなり、賞に出すなり、好きなようにするがよろしい」

「ありがとうございますありがとうございます本当に本当に……」

 帰ってから、じっくり読もう。

 気に入らないところがあれば、直せばいい。

 それくらいのことなら、たぶんぼくにもできるから。

 あまり実感はないけれど、それはとても素敵なことにちがいなかった。

「だが一つだけ、守らなければならぬことがある」

「ああ、わかっていますよ。秘密はちゃんと守りますから」

「わかっているならよい」

 意外にも彼は長いパイプを取り出して、仙人よろしくその場で一服しはじめた。

 ちなみに事の発端となった〈繭〉のある地下制御室だが、この茶室を通っていける。屏風の裏の畳が開くようになっていて、隠し階段につながっているのだ。もっとも、もうあれを目にする機会はないのだが。

「しかるに、見本ケイ――永遠の測量士の名を持つ男よ」

 爾在さんがぼくに向き直り、鷹揚な声で訊ねかける。

「物語とは何だと思う」

 終わらない問い。

 ぼくがそう答えると、爾在さんは煙を吐き出したあと、短く「成る程」と口にした。

 香木をまとった薄い煙が、もくもくと室内に垂れ込める。

「……老人の戯言と思って聞いていただきたい。MAYUの開発途中、私はふと思った。本来、物語に自然な完成というものはありえないのではないか、あるとすれば、それは人の手で強引に姿をねじ曲げられた結果ではないのか、とな。……そして人の意識というのも、まこと奇妙なことに、推敲途中の草稿のような形でしか現れえなかったのだ」

「それはさっき言ってた、、というやつですか? でも、ちょっとよくわかんなくて」

 爾在さんは首をのんびりと、障子のほうへ向けている。こうして煙越しに見ると、べつに老人という歳でもないし、かえっていよいよ若々しく、三十代にも二十代にも見えてくる不思議。

「……ちょうど今、かりんが鐘楼をついておる。食事の報せであろうな。聞こえるか」

「え……?」なぜそんなことを訊くのだろう、と思いながらも耳を澄ましてみる。「……あ、そういえばなんか、さっきから鳴っていますね」

 すると、彼はまたぼくに向き直って問うのだった。

「何回鳴ったか、数えてみなさい」と。

「え? 無理ですよ、だって今気づいたばっかりなのに、回数とか数えられるわけない――」

 と、最初は思った。

 でも後になって、ふしぎなことに気がつく。

 ……思い出せる。

 聞いた憶えもないはずの鐘の音までが、のだ……。


 ゴーンゴーン。ゴーンゴーン。ゴーンゴーン。ゴーン。


「……七回?」

 当たりだった。

 信じられない。

 少なくともはじめのうちは、鐘の音など聞こえなかった。それが、意識を集中させたとたん――あたかも過去が編集されて、世界が書き換えられたかのように――ぼくはその鐘の音を、はじめから聞いていたことになっていた。

 いったいどういうことだろう。

 もしかして……もしかしてぼくの中に眠っていた【真の能力《イマジネーション》】が『覚醒ジャスティファイ』してしまったのかな!?

「……………………………………………………………………………………………そうではない」

 あっはい。

 まるで心を読んだかのように、僧のおっさんが突っ込んできた。

「こういう特異な性質が、意識にはあるということだ。脳の中では無秩序な情報が入り乱れ、絶えず更新され続けている。――その天衣無縫なることさながら百鬼夜行のごとし。私はこの多元的草稿モデルに絶対の真理を見出したつもりだった。だが、所詮は亀に追いつけないアキレウスでしかなかったのだろうな……」

 いや普通に感心してしまったんだが、この人はいったい何に対して悔悟しているんだろう?

 ま、いいか。

 ぼくは翼を得たイカロスの気分だ。

「……ときに、あのかりんについてだがね」驚いたことに、爾在さんがほんの少し所帯じみた、人間らしい表情を見せている。「……あれは君のことをたいそう気に入っているようだった」

 ぼくはしばらくぽかんとしたあと、はっとして言い返す。

「あいつがぼくを? ……はは、何かの間違いでしょう。口を開けば讒言ざんげんばかりで、好意の欠片もありませんでしたよ。もっとも、いささかの好意も感じ取られなかったと言えば嘘になりますが……、それこそぼくの好意的解釈です。そもそも人が嫌いだそうじゃないですか」

 爾在さんは険しい顔をしている。明らかに面食らっている様子だった。

「なんと、左様か……。ううむ、それは無礼をかたじけない。……見ての通り、あれはまだまだ躾がなっておらんでな、いつも厳しく言っているのだが、いやはや、どうしたものか……」

「意外ですね、誰よりも指導鞭撻に知悉していそうなあなたが……」

 こう見えて、実は女の子に弱いとか……?

 二人の関係が、ちょっと気になる。

「あれがああなってしまったのには、私にも責任がある。誰に似たのか口下手なものだから、いつしか浮世を倦み、外出も拒むようになってしまった。あれにはあれで難しいところもあるのだろうが……。いかん、どうもつまらぬ小言が過ぎてしまうな。あれは私の養子なのだ」

 へえ。

 これで合点がいった。

 爾在さんがなぜ、こうやってあの娘かりんの話をしているとき、僧でもなければ科学者でもない、またちょっと別の面影を見せるのか。人間とは実にふしぎなもので、言動とは裏腹に、その堅い表情の奥に垣間見えるのは、深い情けのような、いわれようないあたたかな感じだった。

 ……かりんねえ。

 まあ、いろいろ世話してもらったのも事実だし、一言ぐらいお礼言っておこうかな。

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