Kick back

 世界の関節は外れてしまった。だから自分が直さなければならない。ああ、自分はその運命の下に生まれついてしまったのだ。

 と、ハムレットは言った。

 生きるべきか死ぬべきか。その悩みが彼を苦しめる。己の罪悪感や義務感が父の亡霊を呼び、自身の背負った運命に押し潰されるようにして、彼は破滅の道を進んだ。

 ぼく、見本ケイは言った、わが家の洗面所はヴィクトリアフォールになってしまった。ああ、ぼくにはヴィクトリアフォールを修理する力などない。よって、この仕事はクラシアンに委託するものとする。

 頭がおかしくなったなどと思わないでいただきたい。これは事実だ。洗面所のドアを開けたら、あの有名なアフリカの滝が見えた。いや、出現したというべきだろうか。蛇口は消失した。かわりに地球の傷口が――ぱっくりと開いた渓谷に、怒濤の勢いで辷り落ちていく白い水の束が――気がつけば目の前にあった。ぼくはそのてっぺんに立ち、写真でしか見たことのない、水飛沫が七色の虹をつくるこの壮麗な世界遺産の光景を直に見下ろしていたのである。

「あっつ! やべえ!」

 ぼくは思わず感想を洩らした。念のために補足しておくと、南半球にあるアフリカは真夏だったのだ。けれども時差を鑑みるなら、アフリカは夜でなければならない……。いや、そんなことはどうでもいいのだ! ぼくはユキに水道を見てほしいと言われて見に来た。その結果、ヴィクトリアフォールと化した洗面所を目の当たりにしているに過ぎない――

 だがさらなる混乱がぼくを襲った。なんと、谷の裂け目の向こう側で、アウストラロピテクスが握手会を開いているではないか! 念のために補足しておくと、アウストラロピテクスはアフリカ最古の人類である。けれども時代を鑑みるなら、アウストラロピテクスはとうに絶滅したはず……。いや、そんなことはどうでもいいのだ! ユキが変だと気づくのもうなずける。これでは手もろくに洗えないではないか。間違いなくこれは犯罪である。人の家をヴィクトリアフォール化することは許されない。頭をかきむしってマジでふざけんなよとぼくは叫んだ。そうこうしているうちにもドドドドド、とすさまじい音とともに水がこっちに迫ってきている。百歩譲ってわが家の洗面所がヴィクトリアフォールになり、そこでアウストラロピテクスが握手会を開いているのはまだいいとしても、このままでは自宅が水没してしまう。

 ぼくはその場で同じようにこっちを見て驚いているアウストラロピテクスにちょっと気まずい感じで軽く挨拶してから速攻でドアを閉めた。いやあ、参った。

 この世界は狂っている。

 ぼくがそう自覚するのに時間はかからなかった。

 この事件に関する考察を念のために書き残しておく。夢診断において、洗面所が何を意味するのかをぼくは知らない。ただひとつ言えることは、ぼくがある意味における明晰夢の状態にあるということだろう。夢を自覚するということは、夢を敵に回すことと同じかもしれない。その意味で運命と夢はよく似ている。この事件はここが現実を超えた何かだということをぼくによく知らしめた。あるいは現実というものは、つねに予測の範囲を超えたものであるのかもしれない。「現実」の「全体」を捉えようと試みたその瞬間から、「全体」は「現実」ではなくなってしまった。

 罰が当たったのかもしれない。

 これは根拠のないただの直感だが、ぼくの中にある後ろめたさの意識がひとつの可能性に思い当たらせる――ぼくは昨日、小説を海に捨てた。ぼくはこの世界を外側から否定した。物語に対する自分の責任を放棄した――これは、ぼくに対する「物語」の逆襲だ。小説が海に沈んだことによって、今この世界は溺死しようとしているのだ。そうすることでぼくに責苦と戒めを与えようとしているにちがいない。ああ、こんなことなら下手な見栄を張るんじゃなかった。過去に戻ってやり直したい。

 しかしその「過去」というのもはたして現実だったのだろうか? ……ぼくが「元の世界」と思っていた「アキのいる時空」は、少なくともこの世界の側から見ると「小説」の中だったのだ。この二つの時空は、どちらも片側の世界を小説として定義するという、メビウスの帯のような構造をしている。いまぼくはそれらを相対的に見られる立場にあるが、メビウスの帯に裏表の概念はない……。

 ……いつからだ? いつからぼくは、と錯覚していた? はじめから合わせ鏡のレールの上を歩かされていたのではないのか……。そうだ、この歪んだ時空のは別に存在している……ここが小説の世界だとすれば、ぼくをその中に閉じ込めている存在がいるはずなんだ! そもそもの原因を辿っていけば、おのずと答えは明らかになる。こんな芸当を可能にするのは、ただひとつしか考えられない。

 MAYU。

 使という意味がようやくわかった。MAYUは人を作者にするのではない……。人をにする装置だ! ああ、騙された……。ぼくは小説を書いたのではない……のだ! 夢を見ているのではない……のだ! それは今、この瞬間にもまさに書き出されようとしている……これはそういう物語なんだ! ! 

 少々焦り気味に先ほどつけたメモと照らし合わせて考えると、恐るべき展開が予想された。もしかしたらぼくはもう、のではないかと。ここから出る方法も、出た先で誰が待ってくれているのかもわからない。ぼくの中にあるのはただこの世界に対する漠然とした違和感と恐怖だけだった。かろうじて正気を保っていられるのは自分がつけたメモのおかげだ。このメモは今のところぼくの意識を夢と現実の中間に固定してくれる唯一のものだった。だがぼくはもうこのメモをつけた人間とも別人のような気がしている。それは自分という存在がこの歪んだ物語の中に吸収されかけているかのようだった。このままぼくは悪夢に自分を殺されてしまうのだろうか? 嫌だ! 出してくれ!

 あの屋敷を目指すしかない。確かにぼくは「自分の作品」が誕生すれば何かが変わると思っていた……。だがこんな皮肉な結末があってたまるか。ぼくは逃げるように玄関先へ向かった。しかし同時に扉が開き、ぼくの行く手を塞ぐかのように、二人の人物が登場する。


「さ、あがってあがって。ま、こんなボロ家だけれどね」

「……お、お邪魔しますっ……!」

 ユキとその友達のミドリちゃんなのだが、今のぼくにはその姿形がどうしようもなく不気味に思われた。この二人も「ぼくの妹は息をしている(仮)」という名の物語のために用意された人材でしかないのだとしたら、まるで狂気の沙汰ではないか……。

「あれ、ケー……アニキぃ、どーしたのそんな慌てた様子で。どっか行くの?」

「いや、ちょっとね……」

 ユキはそんなぼくを肘で指し、ミドリちゃんに向かってつっけんとんな紹介をした。

「これ、うちのアニキね」

 紹介されたミドリちゃんは緊張感を露にしつつ、ぼくに向かってたどたどしく頭を下げる。

「あ、あの、はじめまして……じゃなかった、えっと、一度お会いした……しましたよね。み、ミドリです! よろしくおねがいします」

 ユキがちらちら目線でサインを送ってきている。ああ、本当に余計なことさえ考えなければ、それは今までとなんら変わるところのない日常の一場面に過ぎなかった。ユキの頭の中はぼくの懸念とは関係なく、自分のことでいっぱいなのだ。

「い、いらっしゃい、妹がお世話になってます。どうぞ、遠慮なく。あ、手洗いはキッチンを使ってね、悪いけど」

 つい愛想笑いを浮かべて応対してしまう自分に気味が悪くなる。この場にいるかぎりぼくは「ユキのお兄ちゃん」として振る舞わざるを得なかった。しかしこんなところにいつまでもいていいのだろうか? いや、ぼくの思考が明晰なうちに、早く出口を見つけ出さねば……。

「ねーねー、ごはんは?」

「うっ……」

 そんなことはすっかり頭から抜け落ちていた。

「おいーっ!!」

 だめだ……いま目の前で腹を空かせた女の子たちのことを無視するわけにはいかない……。これはぼくを作品の一部に仕立て上げようとするMAYUの圧力だ……。わかっているのに、ずるずると引きずり込まれていく……。

「ご、ごめん、今作るよ」

「はぁ~……。じゃ、いったん部屋で待ってるけど、早くしてね。おなかペコペコなんだから」

 今のところ正常な台所に立たされてぼくは頭を悩まされている。ごめんねミドリちゃん~、と言っている声が遠ざかりながら聞こえた。勝手なやつ。別にいいけど、なんというか哀れだ。ユキはこの世界の異常さに関してほとんど無頓着な様子だった。それもそうだろう。違和感はそれに気づいたときはじめて違和感になる。もともと夢の世界の住人であった彼女の目には、真実が見えていないのかもしれない。そもそもこの世界の側から見れば、異常なのはぼく自身のほうだろう。小説というのは本来、そこが現実だと仮定されねばならないのだから。

 思えばぼくも最初の段階ではここが現実だと信じて疑わなかった。それはなぜかというと、ぼくがこの世界で「〈繭〉から出て小説を受け取る」という記憶を持たせられていたからだ。このことによって、ぼくは相対的に「夢から覚めて現実に帰ってきた」と考えるようになっていた。だがそれがMAYUの狙いだったのかもしれない。いま手許にある過去の小説の名残は、だった可能性がある。

 今では散逸してしまったが、あの小説の要点だけなら思い出せる。ウイルスのように人々を死に追いやる「呪いの小説」。その正体は、自分の生きる世界が仮想現実だと気づいてしまった人間を排除するための免疫機能だったのだ。これは架空の話ではなく、現にぼくが入手していたあの小説自体のことだったのかもしれない。だがぼくは気づいてしまった。いま世界が狂い始めている原因は、このあたりにあるんじゃないのか。そうだ、いま一度原点に立ち返り、次はここを「小説」だと仮定せねばならない。そうすることで、目に見えなかった真実が浮き彫りになってくるだろう。ぼくはいずれMAYUとの決着をつけねばならない……。

 ……が、その前に、とにかく飯だけ作ってしまおう。

 すぐできるもの。

 焼きそばだな。

 焼きそばだよ。

 冷蔵庫の中身を確認していると、しばらくして、ミドリちゃんがひとりでやってくる。

「どうしたの?」とぼくはにこやかな笑顔で言った。

「あの、手を……!」

「ああ、そうか」

 目の前が見えていなかった。キッチンを使えと言ったのはぼくだ。しかしなんだろう、このちぐはぐ感は。こういう細々とした問題に気を取られていくにつれて、徐々に意識が蝕ばまれていくように感じる。……今こうしているぼくの心も何者かに読まれているのだろうか?

 まあそんなことはいい。こうなったらもう、がんばって手を伸ばして蛇口をひねっているミドリちゃんのかわいさについてぼくはこのページを全部使って語りたい。おい、MAYU! いいか、ミドリたんはなあ、背丈がユキより低いから、すごくがんばらないと、水に手が届かないのだ。しかも蛇口の操作が最初わからなくて、お湯を大量に出した。状況を改善するよりは結果に甘んじるタイプらしく、迫真の演技力で、「……っ!」と口元を真一文字に引き結び、最初からお湯を大量に出したかったんですということにして手を洗い出すものだから、こちらとしてもエールを送るのはやぶさかでない。だが、あまりにも水音と湯気がやばく、ミドリたんの心の中でも、さすがにこれは変だし、水道代の無駄遣いだと思われるという気持ちが起こって来たのだろう、耳の先から真っ赤に染まり、だまっていてもわかるぐらいに、申し訳なさそうなオーラを放ち出す。なにか訊ねればよいものを、終始無言を貫いているのは、ミドリたんのプライドなのか、あるいはぼくの目がこわいかのどちらかだろう。その間およそ二十秒。なんとか石鹸をそそぎ落としたミドリたんは、どうどうと流れる洪水を止めようとして、しかしそこで痛恨のミスを犯す。わが家の蛇口は、ちゃんと真ん中に合わせないと止まらない設計なのだ。ミドリたんはそれをひねりすぎ、いったんお湯を止めたあと、水を大量に出した。そのあわてぶりといったらそれはもうかわいそうだった。うわああああと心の中で叫んでいたことは想像に難くない。ぼくはすべてを慈愛の心で赦し、それを見なかったことにした。以上!

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