GHOST SNOW DROPPED

Judgment

 海に沈められた死体が再び浮かんでくるほどの時を経て、ぼくはまどろみの淵から引き上げられていくぼくを自覚した。

「……ん? ここは……」

「あ! ケー兄まだ起きたらだめ!」

 出し抜けにだめと言われてしまったが、こればかりはどうしようもない。仄暗い海の底から水面を見上げたみたいに瞼の裏がきらきらとしていて、薄目をひらくと、見慣れた部屋の光景がそこにあった。カーテンの隙間から射し込む朝日がうっすらと透明な筋を引いて、机の上の白い紙と、目の前の少女の髪とを照らしている……。

 ぼくは目をこすって自分の身体に乗り上げている少女の顔貌をまじまじと見つめた。次第にぼやけた焦点が定まってくるところだが、自分の置かれている立場や状況を瞬時に把握できるほどぼくは寝起きのよいほうではない。とはいえ、これだけはすぐにわかる。すなわち朝からいきなりベッドの上で女の子と添い寝を遂げているということ。のみならず毛布やシャツまで剥ぎ取られていて、ぼくの胸板がすっかり彼女に占領されてしまっているということ――

 反射的にあっと声を洩らして跳ね起きそうになったけれども、そのときなにか尖ったものが至近距離にて待ち構えていることに気づき、すんでのところで首を引っ込める。よく見ると、その正体はえんぴつであった。えんぴつ。そう、下手したらこれが眼球に刺さるところだったのだ。……しかし、なぜえんぴつなんかが目先にあるのか? 理解が追いつかない。

「もぉ~だからまだ動いちゃだめって言ったのにぃ。ケー兄のバカンボー……」

 ぼくはここでようやく識別した。文字通り目と鼻の先のところでえんぴつを口にくわえて、なにやら鹿爪らしい表情でもごもごとしゃべる少女の顔を。

「アキ……?」

 すると彼女はくわっと目を見開くやいなや、怒髪天の勢いでえんぴつを手に持ち替え、

「ひどー! 妹の名前間違えるとかひどー! ユキ、そんな人しらないんだけどっ!」

 と言ってぼくの首元にぶすりと一突き。するふりをしてきた。ややあってぼくは思い出す。そうだ、アキはきっとここにはいない……。この白い髪、このつぶらな瞳は……。

「ユキ……? ユキなのか……?」

「そーだよ。ユキだよ。ユキはアキには降らないよ。おはようケー兄。なんかうなされてたみたいだけど、大丈夫だった?」

 マウントポジションをとり、やさぐれた態度で真正面から見下ろしてくるぼくの妹。

「何やってんだよ」

「え~、冬休みの宿題」

「はぁ?」

 ぼくは自分の胸の上で広げられてある一枚のプリントに気がついた。

 おもむろに取り上げてみる。

「ちょぉ~! ユキの返してよっ!」

「いいか、ぼくの胸板の上で冬休みの宿題をするんじゃない」

 ユキが口を三角にして怒り出すがスルーして、寝転んだまま何気なく真上にかざしてみた。ゆとり世代を脱した小学生のための「さんすう」と書かれたプリント。

『問一……たけしくんはあたらしいさんすうのもんだいがつくれなくなり、0このキャンディと0このガムをかって、0にんのともだちにくばりました。たけしくんははっきょうし、直線AB上を秒速9メートルで移動する点Pになりました。以下たけしくんの遺志を継ぎ、さとしの母であるラジオネーム二酸化アラサー女子@チョコパイ大好きさんが出すおたよりに答えなさい。さとしは誰の子なのでしょうか?』

 プリントをユキの手許に突き返して言った。

「寝る」

「なんでー!? ごはんは~?」

「なんでもくそもあるか。ここは夢の中なんだから、もう一眠りするんだよ。おやすみ……」

 考えるまでもないことだ。

 ぼくに妹などいない。

 よってここは夢の中。

 証明終了。

 だが目を閉じて気持ちよく二度寝に入ろうとしたのも束の間、ユキがぺちぺちと頬を叩いて邪魔してくる。

「だめだめ、寝ぼけてる場合じゃないよ! もう十時だよ! ユキは超おなかがすいたんだけど。ごはんつくってケー兄~。ねえごはん食べようよ~。ごはんごはんごはんごほんごほん」

「だーもう。腹減ったなら勝手にパンでもシリアルでも食ってりゃあいいだろ……」

 するとユキは咳を止め、しゅんとしてつぶやいた。

「でも、一人はやだよ……」

 その言葉にぼくは思わず反省を余儀なくされる。こいつが寂しがり屋で甘えんぼうなことは知っているし、ぼくとしてもユキが一人で食事をとる姿はあまり想像したくなかった。それは至極単純な感情だ。他のことは後で取り返しがつくけれども、いま目の前にいるこの子には嫌な思いをしてほしくない……ぼくは重たい頭を起こして言った。

「……昼ごはんと一緒になるけどいいか?」

「ふぇぇぇぇいいぃぃ~ぃけどぉぉぉっ……」

 起き上がった拍子にユキはこてんと後ろに倒れ、ベッドの上で奇怪な呻き声を発していた。シャワーを浴びたばかりなのかしっとりと髪が濡れていて、息を吸うたびにシャンプーの香りが漂ってくる。それにしてもなんてかぼそい身体なんだ。栄養が足りていないのか。

「待てない?」

「ううん、ていうかね、そのぅ、お昼からはミドリちゃんたちが家にくるから……」

「ん? 友達か?」

 ユキはベッドのかたわらに立ち、なんだか煮え切らない感じでサイドテールの毛先をいじいじしつつ、ぼくに向けて意味深な目くばせを送ってきた。

「忘れちゃった? ほら、前にケー兄が家に呼べばって言った……」

「ああ……」

 思い出した。イオンのエレベーターの中で会った、黒髪のかわいらしい子のことだ。あのときのユキといったら傑作だった。おんぶされているのを目撃されて、ひどく取り乱していたのがなんだか妙になつかしい。そういえば今日のユキは服装にもずいぶん気合が入っていて、ギャルっぽいミニスカートなんか穿いている。そんな背伸びしなくていいのにとは思うが、まあ年頃なのだろうから口出しはしない。

「それじゃあ、多めに用意しておけばいいか? その友達のぶんも入れて」

「ほんとっ?」ぱっと表情が輝く。「じゃ、きいてみる!」

 そのまま電話口へ特攻。

「……あ、そーだ」

 かと思いきや、ひょっこり戻ってくる。

「ええっと……ケー兄は、おねがいだからちゃんとしててね?」

 部屋のしきいから首だけ出して。

「何を?」

「だーかーらー……服とかっ、かっこよくしててねっ」

「おー」

 まあ言いたいことはわかるけど、もっとボキャブラリー増やしたほうがいいと思う。

 ユキはるんるんと上機嫌で自分の部屋へ戻っていった。壁を挟んで、声だけが響いてくる。

「あと、なんかさっき手洗うときヘンだったから、あとで水道見といてー」

「へーへー」

 そういうのは、本来父親がやるべきなんだけどな。

 この家にはいないから。

 仕方のないことだ。

 他人事のように考えているのには理由がある。

 この夢の続くかぎり、親が帰ってくることはない。

 それが日常。

 なのだ。

 頭が冴えてくると同時に、ようやく事態が呑み込めてきた。

 ……どういうわけか、ぼくは自分が書いた小説の中に舞い戻ってきてしまったらしい。自分が書いた小説、というのはつまり過去のぼくがあの〈繭〉という装置の中で紡ぎ出した物語のことだ。もっと具体的に言えば、ぼくの中の時間で昨日の午後、幼馴染のアキに見せるつもりだったところを海に葬ってしまったあのライトノベルにほかならない。だがぼくの意識はいま、現にこの物語世界の中にある……「ぼくの妹は息をしている(仮)」の中に。

 どういうことだろうか?

 順を追って整理せねばならない。

 さっきユキとの話にミドリちゃんという女の子の名前が出た。あの子とイオンで会ったのは、人間の脳を使って夢を小説にする装置――〈繭〉の中での出来事(1)だ。したがって、少なくともこれは現実世界の出来事ではない。なぜこう言い切れるかというと、あのあとぼくは〈繭〉から出て、屋敷の中で(1)が小説になっている姿を確認していた(2)からだ。

 この記憶があるおかげで、ぼくは今ここ(3)が現実の世界ではないとわかる。ここは(1)の続きだ。ぼくは正しい目覚め方をしなかった。ユキの勢いに引きずられて忘れそうになってしまうが、これはぼくの(2)ではない。ここは小説が創り出した夢の世界だ……さもなければだ。

 と、現状でわかることをメモしてみたが、これだけではやはり判然としない。ぼくはなぜ、再びこの世界に召喚させられてしまったのだろうか。ここはまだ〈繭〉の中なのか? いや、ぼくは(2)以降、あの装置には入っていない。ここが〈繭〉の中だとすれば、ぼくは一度もあそこから出ていないことになる……。

 妥当な線で推理してみよう。ぼくは(2)の時点で〈繭〉から出ている。そこで完成した(1)の小説を受け取り、これを海に撒いたのだ。よってこの世界は(2)のぼくが眠りながら見ている普通の夢の中であり、厳密には(1)と同じではない。ただ偶然設定が重なっているように思われるだけで、全て単なるまやかしなのだ。なんだ、それなら深刻に考える必要もない。夢なら夢でいつかは覚めるし、しばらくはこの居心地のよい世界を満喫してればいいだけだ。

 しかし、本当にそうだろうか?

 ユキにとっても、ここは夢の中なのだろうか?

 ぼくにはこの家で生まれ育った記憶があるし、幼い日にユキと二人でソーダ味の飴玉を舐めて空腹をごまかしていたことも身体が覚えているし、二階のカーテンを開ければ結露した窓硝子を通して牡丹雪のしんしんと降り積もるさまが目に入り、隣家のピアノ教室からはラフマニコフの情熱的で優美な旋律が聞こえてくる。ぼくはこんなに明晰だ。この五感のしびれるような世界の豊かさは、はたして本当に虚構の産物なのだろうか?

 あるいはむしろ(2)こそが夢だったのかもしれない。偶然の一致というのも無理があるし、なによりぼくはたったいま目が覚めたところなのだから、こう考えたほうがかえって自然である。要するにぼくはついさっきまで「〈繭〉から出て、小説を受け取る夢」を見ていただけなのだ。そうなるとこの世界は(1)から直接つながる時空ということになるだろう。そうだ、思い出してきた、ぼくはあのあとイオンから家に帰り、持ち帰った小説を読み直していたところで寝落ちしてしまったのだった。

 そういえば、あのときの小説ってどんな内容だったっけ。

 机の上を探ってみる。ぼくの勘が正しければ、そこに置いてあるはずだった。「ぼくの妹は息をしている」の中でぼくが書いたことになっている、稿が。

「……あれ?」

 狐につままれたような気分になってしまった。

 なんだ、これは。

 ユキを呼ぶ。

「なぁに、ケー兄? そろそろ迎えに行かなきゃなんだけど」

 くそのんきにバニラアイスバーをしゃぶりながらやってきた。

「ちょっとそこに座れ」

 途端に顔をくもらせて、瞳に哀切をたたえだす。

「ええ? なんでぇ? ユキなにも悪いことしてないよ……?」

「いいから」

「ケー兄、なんか顔こわいんだけど……」

 不安そうに身構えつつちょこんと床に座り込むユキに向かって言った。

「単刀直入に訊くけれど、ぼくの小説に触ったか?」

 むごむごとアイスバーを頬張りながらだまって首を横に振るユキ。

 おもむろに取り上げてみる。

「あぁぁーーっ ユキのアイスーー!!!」

「返してほしかったら正直に言いなさい。怒らないから」

 両手を伸ばしてぴょんぴょんと飛びはねる健闘ぶりを見せるユキだが、サイリウムのようにアイスバーを高く振りかざすぼくの背には届かない。そのままアイスバーを使って指し示した先にあるものは、以前とは似ても似つかぬ姿に変わり果ててしまった、とても原稿とは言うことのできない代物だった。ほとんどのページが抜け落ちていて、残ったものも折れ曲がっているか破けているかして、いずれも水に浸けたあと乾かしたかのような状態になっていたのだ。

「ううぅ、知らないって言ってるのにー!」

「本当か? いたずらでも過失でもないんだな?」

「えーん! ケー兄がいけずするー!」

 さすがにかわいそうになってきたので返してやることにしたいが、どうにも釈然としない。ユキが手をつけたのでないならば、いったい誰が原稿をこんなズタボロにしたのだろう。ぼくはなんだかむしゃくしゃしたので、ユキを正座させたままアイスバーをその口に突っ込んだ。

「んーんーんー!?」

 不意に、夢の中なんだしちょっとぐらい妹を調教しても許されるのではないかというファンタスティックな閃きが訪れた。いやいや、いくら夢の中だからといっても妹いじめはさすがによくなかろう。ところでボードレール曰く、悪趣味のうちで最も魅力があるものは人に嫌がられることをするという貴族的快楽である。

「よしよし、手を使わずに食べるんだ、いいな」

 涙目になったユキが足元からぼくのことを見上げてくる。まるで雨の日の子猫のようだった。それが唾液でいやらしい形に姿を変えたアイスバーによって口腔内をかき回されている。

「なんれぇ……ケーひぃ……こぇやら……なんかはずかひぃよぉ……」

 髪の毛をひっつかんで強引にアイスバーをねじ込む。

「何が恥ずかしいんだ? ただの棒アイスじゃないか。おらっ、もっと口を開けろ!」

「じゅる……じゅぷ……」

 世の中には話の本筋を忘れて妹の口内に入れたり抜いたりして楽しんだ挙句、べとべとした白い液体を唇やほっぺに付着させて楽しむ最低な輩がいるらしいぜ。そんなやつを目にしたらきっとぼくの良心が黙っていないだろうな。もしかしたら一発ぶちかましてやるかもしれない。

「……そろそろ行かないとまずいんじゃないか」

「う、うん……」

 いつの間にかしおらしくなってくの字に膝を折り、腑抜けた表情をうかべていたユキだが、ぼくが声をかけると急にそわそわして立ち上がった。とはいえ、視線も足もあっちへ行ったりこっちへ行ったり、心ここにあらずといった感じだ。一方で「あたり」と書かれた木の棒を手にして茫漠たる虚無感に包まれていたぼくは、部屋の中にほんのりと磯の香りが漂っていることに気がついた。何かの錯覚だろうか。いや、これはどうやら、そこにある小説のページ全体に染みついたものであるようだ。このにおいはぼくに昨日見た夢の内容を思い出させる。そう、今のぼくにとっては、昨日の出来事こそが夢だったのであり、それも徐々に消え入りつつある記憶だった。はたしてどちらが現実なのか、時を経るごとに確信が薄らいでくる。そしてこの奇妙な感覚は、一枚のページを手に取るとともにますます潮のように高まってくるのだった。

『なにより許せないのは、自分の物語に責任を持てないことよ』

 ぼくは知ることになる。――アキという名の少女が、ということを。

 もし、そこでユキがじれったそうに話しかけてこなかったら、ぼくは再び心の中であの落雷の状況を再現していたかもしれなかった。だが、「ケー兄」とぼくのことを呼ぶ妹の声には、人を否応なく現在に引き戻すだけの充分な力がある。ぼくは疑って悪かったと口を開きかけていたところだったが、ユキは凝然とぼくの服の袖を引っ張って、次のように言うのだった。

「あのね……もう一本だけ、食べてもいい?」

 それがぼくに許された最後の平安だった。

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