Liberty

 もうぼくはこの小説を好きにするからな。次は焼きそばについてでも語ろう。手早く作れて、しかも絶対不味くはならない、手抜き料理の定番だ。焼きそばの味自体は、ぼくはそんなに好きなわけではない。だがあの馥郁たるソースの香りは、みなの心に染みついているのではないか。休日、それも妹の友達が来た昼とあらば、焼きそばを振る舞わない手はない。それはたぶん、ぼくが子どものころも、友達の家で焼きそばを食べさせてもらったからだと思う。香りというのはふしぎなもので、さまざまな記憶と親密に結びついている。だからぼくは、まだ小さなこの二人にも、同じ記憶を持ってもらいたい、大人になり、そのことを思い出して、また誰かのために焼きそばを作ることができるようにと。ぼくはそう思うのだ。いい言葉だあ……。


「なかなかやるじゃん」

「まあね」

「おいしいです……!」

 気づけばリビングで昼食の席を囲んでしまっている自分がいた……。

 二人に罪はないけれど、念のためぼくはこの状況に対する距離感を保っていることにする。ユキは友達の前だからなのかいつもより大人ぶっていて、ミドリちゃんはまだ少し照れ気味。ありふれたライトノベルによく見られる、和やかな食卓の風景だ。しかしぼくの目にはそれがどうしようもなくつくりごとめいた劇の一幕に映ってしまう。

「でさぁー、そのときに、バーって目の前がひらけて、うわわって思ったら、おなか痛くなっちゃって、そしたら急にからあげくんがガタガタしだしてワロタのよ」

「ええーっ」

 二人はなんの話をしてるんだろう。楽しそうだ。まあ、楽しいに越したことはないが……。

 ここが空想の世界だということはぼくだけが知っている。いつかはこの世を離れるつもりのぼくなのだ。あまり深入りすべきでないとは思う。さもなければ底なし沼に一直線だ。この危機感を忘れてはならない。ドラマツルギーに惑わされて、自分の目的を見失ってはいけない。

 しかしそこでふと疑問に思った。

 ぼくの目的とはなんだろうか?

 この小説の世界から外に出ることだろうか?

 それもある。

 これも仮定の話だが、この時空の真の作者であるMAYUは、精神の構成単位である話素という多次元物質を通して物語を紡ぎ出すという話だった。したがってこの世界でぼくが語るあらゆる言葉は――過去の体験の延長線上で考えれば――もれなく小説にされる可能性がある。今後のぼくの行動は、すべてこのことを念頭に置いたものでなければならない。

 ただこれが問題なのだが、現時点のぼくではその結果を確認できるすべがなかった。結果を見るには必ず〈繭〉から出るという手順を踏まねばならない。つまりここが〈繭〉の中=夢の中=小説の中だとすれば、ぼくはまだ「自分の作品」を本当の意味では受け取っていないことになる。ここから言えることは、、ということだ。

 だが、それだけなのか?

 違う……。

 ぼくが知りたいのはそんな形式的なことじゃない……。

「あ、そうだ。アニキぃ、あとでユキに漫画貸してよ」

「ん、いいよ」

 ぼくが口を開くと、ミドリちゃんはそのつど畏まったみたいにぱちぱちとまばたきをする。おそらく無意識の所作だろう。育ちがいいのは見ればわかるが、まるで借りてきた猫みたいだ。こういうの見ると、肥りすぎて動けなくなるまでマタタビを与え続けてみたくなるのは自分だけだろうか……。

 対するユキはまるで繊細なほうではないので、ミドリちゃんを話に引き入れようとする。

「アニキはねぇ、いっぱい本持ってるんだよ。それで、将来はリッパな作家さんになるんだって。まだ書いたことはないんだけど、ショーセツカになるために生まれてきたんだって」

「やめろ……言うな……」

「えー、だっていつも言ってるじゃん、ブンガクとはかくかくしかじか、エンタメとはかくかくしかじか……ユキそういうのよくわかんないから、ふむ~ってなる」

「アーアーアーアー」

 こんな会話を聞かされるミドリちゃんもたまったもんではないだろう。まあユキの気持ちはわからんでもない、友達にお兄ちゃんのことを自慢したいんだろう、だが方向性が決定的にまちがっている……。ほら見ろ、どんな顔をすればいいのかわからないという顔になった。

「トイレ行ってこよーっと」

 このトイレ魔神め。

 それはいいんだけど、二人になったとたん、ミドリちゃんが黙り込むのはちょっと気まずい。やっぱりまだ小学生だし、小学生にとってみれば、高校生の男って大人だもんなあ。ぼくも友達の家のドSなお姉ちゃんと会話するときは緊張した。ここは親しみやすさを演出しないと。

「ミドリちゃんって、学校でもおとなしい方?」

「えっ!」すごいびっくりされる。「そ、そう、ですか」

 こういうときどうするのが手っ取り早いかというと、席を外した人間の噂話をすることだ。さっきやられたぶんの仕返しも兼ねて、盛大にぶちまけてやることにする。

「実はユキってな、いつも家にいるときはあんなんじゃないんだぜ。ぼくのことなんて呼んでると思う? ケー兄だよ、ケー兄。まだ背がこんなぐらいだったときから、全然呼び方が変わってねーの。あ、これ本人には内緒な」

 すると少しは功を奏したか、ミドリちゃんが笑ってくれる。

「ふふ、ユキちゃんおもしろーい……おもしろいです」

「あ、もう無理に敬語とか使わなくてもいいからね」

「うぅ~っ……すひません……」

 駄目か……。ためしにちょっと笑いかけてみると、過剰に動揺されて目を逸らされてしまった。年上の男に対する免疫がないのが丸わかりだ。ふだん人から下に見られてばかりなぼくとしては、こういう経験は実に久々である。言っておくがぼくはロリコンではない。

「あ、あのっ、お兄さん……!」

 ピクッ。

 今、自分のなかで邪な感情が動いてしまった……。

「お兄さんは、なんさいですか?」

 ああ~。かわええ。そうだよな、ぼくはいま、「友達のお兄さん」として見られてるんだ。ぼくはいま、「友達のお兄さん」として見られてるんだ。役得役得。黒髪ショート最高~。

「……十六だよ」

 ミドリちゃんは「ほええ」と言ってまた黙る。ん? この娘、ハーフなのかな。眼が本当に碧いろだ。ああ、ハーフといえば、そういえば同い年ぐらいでも誰かいたなあ……敬語のくせにやたら失礼なやつが……誰だっけ……もう忘れた。

「ミドリちゃんは、十二だよね。十一?」

「うん……はい。あの……えへへ。あっ……」

 なんだこの愛くるしい生き物。

「好きな人とかいるの?」

「え、え、え」

 やべえ、なに訊いてんだぼくは。スケベか。

「と、と、年上のひとが、すきです、かも」

「ふーん……」なるほどね。

 名探偵見本ケイは、かあっと顔を燃え上がらせてうつむいてしまったミドリちゃんを見て、誰のことを言っているのか一瞬でわかってしまったが、読者のためにあえて素知らぬふりをする。ここはラノベ的世界なのだから、ラノベ的文脈からいって、それはぼくのことに違いあるまい。イオンで会ったときに一目惚れをして、もう一度ぼくに会いたいがためにわざわざ遊びに来たという推理である。

 もっとも、確証があるわけではないから、今ここで冒険してみようなどとは思わない。またこういうのはどっちなのかわからないときがいちばん楽しいものでもある。もしクロなら、ミドリちゃんの心理はいまこうなっているはずだ。

(わああああ言っちゃった言っちゃった! どうしよう……気づかれたかな? あれ、気づいてなさそう……。なんで? うーん……もうちょっとがんばったほうがいいのかな? そうだよね、うん……。あれ、一回言っちゃったせいかな、なんだか吹っ切れた気がする……)

 見本ケイはハーレムの王をめざす男なので、こうやって純真な少女の初恋をうばっておき、次第にガンガンアプローチしてくるようになる様子を見て楽しむというわけだ。いやあ、河合偏差値75の頭脳の使い道がこんなところにあったとは。これがそのへんの脳無し系童貞主人公とぼくの格の差だな。ぼくは見た目が超DQNなのに中身は萌え豚という、両者を止揚アウフヘーベンした完全上位互換存在であることを売りにしている。強いて悩みどころを挙げるとするなら、股間のEDMエレクトロダンスミュージックが常に休止ブレイクしているってことかナ――

「ユ、ユキちゃん、大丈夫かな……?」

 ミドリちゃんがそわそわと取り繕うように口を開いた。

「ふむ、確かに遅いな……」

 トイレに立ったきり一向に戻ってこない。せっかく作った焼きそばも半分冷めかけている。

 ……はっ、まてよ。

 まさかとは思うが、何かあったんじゃないだろうな?

 洗面所がヴィクトリアフォールになった以上、トイレがグレートバリアリーフになっていないとも限らない。そう、わが家の環境はいま、時空の歪みと隣り合わせになっているのだ。

「ごめん、ちょっと様子見てくる」

 ミドリちゃんを一人で置いておくのも心配だったが、今はユキのことが気がかりだった。

 ……ん?

 この流れ、なんだかアレな感じがするな?

 持って生まれた嗅覚がこう言っている。くんくん……におう……においまするぞ……ラブコメのにおいが……。絶対これドアを開けたらユキがおぱんつ様を下ろしていて「こ、こ、この変態バカアニキ~!」ってなるやつですよね?

 よし、特攻だ。

 ドアの前で呼吸を整えて。

 いざ!

「ユキ! 大丈夫か!? ってうおおおおおおなんじゃこりゃあああああ!!??」

 ドアを開けた先では殿が座っていた。そこはトイレというより、幕府であった。大河ドラマとかでよくあるでかいお館なのだが、ずらりと整列した大名どもが会議を開いていて、鎧を着込んだ殿が上座に控えている……しかも今まさに出陣の指揮がとられるという場面であった。そこへぼくが乱入してしまったので、全員の注意がこちらに向く形になる。

「ぬ……曲者ぉ!! 出会え出会え!!!」と殿。

「まずい!」

 どこからともなく忍者が参上した。男四人と、くノ一の格好した男一人が向かってくる。

「ラブサーチ! ハッピーメール! ピーシーマックス!」

「アイエエエ!?」

 無理無理無理無理。入ったらいけない世界だった、やばいやばい、帰るわ。

「ご登録ありがとうござ――」

 バタン。

 いやあ、危なかった、もう少しで架空大政奉還されるところだった。こんなことで時間を水に流したくはない。いや待て、落ち着け。気を確かに持て。トイレで政治が決まるわけがない。全部ただの妄想だ。しかし大変なことになってしまった。百歩譲って、幕府を覗いてしまったことは仕方がないとしても、ユキの姿が見つからないのは大問題だ。これがほんとの雪隠せっちんか、などと思っている場合でもない。いったいなぜこんなことになってしまったのだろうか?

 ……そうか、わかったぞ、原因はやはりにある。きっとを意識するとこうなってしまうんだ。意識なるものの厄介な性質として、「つねにそれに先行する無意識」というものがこの下にある。つまり特定の形式カテゴリを頭に入れると、……。ぼくがラブコメ的展開を予測したせいで、これを包みこむさらに上位の混沌が姿を現してしまったのではないか。こういうのは本来反則技なのかもしれない。空想の世界だからといって、何もかも思い通りになるわけではないのだ。その意味でさっきのぼくの推測はある程度正しかったと言える。この世界はそこを「現実」と見なすかぎりで安全だが、疑いを差し挟むとたちまち底が破れてしまう。ここはそんなぎりぎりの水準で維持されている時空なのだ。もしかすると、ぼくがこうやって真面目に理解しようとすることが、余計に事態を悪くするのかもしれない。一旦戻ろう。頭をリセットするために。


「ミドリちゃ……ん……?」

 リビングに引き返してきたぼくだが、またしても目を疑うような光景に直面してしまった。

 家がやばい。

 ちょっと目を離した隙に、リビングで回転寿司が営業されている。

「ええ……困るよ……人の家を……ええ…………」

 感想としてはそう言わざるを得ない。なんで、うちのリビングを寿司のレーンが貫通してるんだよ……。なんで、無限に寿司が壁の中から流れてきてるんだよ……そしてなんで、その席に全裸のクラシアンの連中が座ってるんだよ……。な、何を言っているのかわからねーと思うが、ぼくも何が起こっているのかわからなかった……頭がどうにかなりそうだった……。トンネル効果だとか熱膨張だとか、そんなチャチなもんじゃあ断じてねえ、もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ……。


 クラシアンその1「あ、どうもお世話になってます」

 見本ケイ「お世話になってますじゃあないんだよ……。直せよ……」

 クラシアンその2「自分、鱧いいすか」

 クラシアンその3「あ、いっス」

 見本ケイ「おおい、みんなー! 誰か! 誰か来てくれ! ユキ! ミドリちゃん!」

 寿司の神「人間が寿司を握る時代は終わった……これからは寿司が人間の権力を握るのだ……」

 見本ケイ「なんだ今の声は!?」

 クラシアンその2「げえっ、これは鱧じゃない! ネジだ! くそ、一杯食わされた!」

 博識なネジ「確かにそのネジはネジの見た目をしているが、全体としては寿司の構造をなしているように思われた」

 見本ケイ「そうか……おまえらはクラシアンじゃないな? 何者だ! 正体を現せ!」

 クラシアンその1「フフフ……それには及びませんよ……」

 クラシアンその2「ネジ……以外といけるな……ごふッ!(吐血)」

 クラシアンその3 「先輩ーーーーー!!」


 クラシアンその2を殺害したのは、台所から突然現れた小さな人影だった。

「チッ……、クラズシアンの分際で調子に乗りやがって……」

 ぼくは妙に聞き覚えのあるその声で我に返る。なんと、クラシアン2の全裸の身体を包丁でめった刺しにしているのは、ミドリちゃんではないか! 次の瞬間、惨殺されたクラシアン2がマグロの赤身に変貌した。それを貪り食うミドリちゃん。その姿を見て一同怯える。

「ぺっ……次はどいつだァ? おれさまの縄張りを荒らした以上、ただで済むとは思うなよ?これは見せしめだ。てめーらもこうなりたくなかったら、とっとと野生に帰りやがれ!」

「ア、アカリ様……! 申し訳ございませんっ!」

 いきおい荷物をまとめて撤収するクラシアンズ。その際、彼らは家の最低限の機能を修復していった。嵐が過ぎ去ったかのような間があり、ぼくは唖然としつつ包丁を握るスシ・キラーことミドリちゃんの胡乱な立ち姿に向かって訊ねる。

「ミ、ミドリちゃん……? どうして……」

「あァん?」

 彼女はたった今ぼくの存在に気づいたと言わんばかりに振り向いた。その猛禽のようなまなざしを前にしたとき、ぼくは瞬時に思い知る。それはミドリちゃんではなかった。姿形は同じなのだが、顔つきがまるで別人なのだ。男のような立ち方をして、ポキリと首の骨を鳴らす目の前の少女からは、かつてのような深謀遠慮の態度など微塵も感じられない。むしろそこにあるのは明確な殺意の塊であった。

「ははあん、さてはおめーだな……? ミドリをかわいがってくれたのはよォ。ったく、あいつも世話が焼けるぜ。……おい、なんだァ? そのケツの穴みたいな面はよォ。こっちは楽な商売じゃねェんだ、おれさまがかわいがってやろうってんだから、ちっとは愉しませてくれよ」

 ぺろり、と包丁を一舐めする仕草に思わず背筋が凍りつく。見た目が幼女だからなおさらだ。

「な、何を言っている? おまえは誰だ? ミドリちゃんをどこへやった?」

「なァーにがミドリ『ちゃん』だ、タコが。おめーなんかにミドリはやれねえ。人を値踏みするようなドクズにはな。へっ、なんだ、とんだ甘ちゃんじゃねえか。ちょろいふりしてりゃあいい気になりやがって。そういう奴を殺してやるのが、このおれさまの役目ってわけだな」

 そう言って自分の胸をドンと叩く、見るからに危険な少女は、ミドリちゃんとは対照的に、ぎらぎらと赤い光を瞳にたぎらせているわけだが、その姿はこころなし何かに似ていた。

「ま、まさか……」

「フン……そう、おれさまはアカリ。ミドリの双子の弟さ。つっても身体は一つだから、普段はこっちに出られねえんだがな。さぁーて暴れるとするかぁ……ケケケ」

 そうか……ミドリとアカリは表裏一体。ジキルとハイドさながらに入れ替わり立ち替わる、そういう人格の持ち主だったのだ! ならばアカリはミドリに抑圧された欲望を解放しようとするはずで……。



 ギン、と凶暴な眼差しで睨みつけられた瞬間、ぼくの身体が硬直した。

「なっ……!?」

 まるで金縛りにあったかのように、身動きが取れなくなっている。手足がとてつもなく重く、自分の意志に対してぴくりとも反応しない。視線は目の前の少女に釘付けだった。彼女はそんなぼくの姿を真っ赤な双眸で眺めながらゆっくりと近寄ってくる。一本の包丁を手にして。

「ふひゃひゃひゃ。いいざまだなァ? 五体満足でなけりゃもっといいけどなァ? さーて、楽しい料理のお時間だ。まずはそうだな……鼻でも削ぐか?」

 つ、と包丁の切っ先を額に当てられながら言われる。背伸びしてようやく届くぐらいの距離なのだが、そんなことは問題ではなかった。こいつは狂っている……そう直感すると同時に、たちまち薄い皮膚が破けてだらだらと血が流れ出す。鉄の味が口の中にひろがり、言い知れぬ不快感がぞわりと全身を駆けめぐった。

「や、め、ろ……」

 かろうじて絞り出した声も蚊の鳴くような細さになる。いったいどんな教育を受けたらこんな人格が出来上がるんだ。確かにミドリちゃんに対するぼくの態度はいささか調子に乗っていたかもしれないが、まさかこんなけものを呼び覚ましてしまうとは。アカリは快楽に染まった表情で弄ぶように包丁をためつすがめつして笑っていた。いつぶすりとやられてもおかしくない。こんなのがユキの友達なのか。冗談じゃない。ダルマにされる前になんとか隙を見て逃げ出したいが、身体の自由を奪われて手も足も出なかった。まるで神通力か何かのようだ。

「おらおら、さっきまでの威勢はどうした? ククク……残念だったな。今のおめーは石ころ同然。このおれさまが『進め』と口にしない限り、動くことなど――」

「お?」

 硬直が解けた。

「はっ!? て、てめーなんで動いていやがる! いったい何をした!」

「ふははははははは! 馬鹿め!」

 すかさず物騒な刃物を奪い返す。この瞬間、形勢が一気に逆転したことは言うまでもない。愚かなアカリは泡を食った表情になって後退を余儀なくされ、足元に落ちている寿司を踏んであっけなく転倒した。いちおう注記しておくが、野生のクラシアンズによって寿司のレーンが片付けられた後も生成された寿司自体が消え去っていたわけではなく、リビングの床は寿司で溢れかえっている。そのままぼくは包丁を捨てて悪党のごとく襲いかかった。今度はこちらが身体の自由を奪う番だ。

「とっ、止まれ! 止まれっ! んにゃろうめ!」

「んん~? 効かんなあ?」

 同じ手に二度引っかかるようなぼくではない。見たところアカリの変な超能力は、どうやらその瞳に宿されているようだった。ならば目を合わせなければいいだけの話だ。身体さえ自由になれば体力でぼくが負けるはずがない。これ以上暴れられては困るので、床に組み敷いてからついでに視界を奪ってみた。うおお、犯罪的な格好だ。

「は、はなせっ、やめろっ、何のつもりだ! おれに触るな!」

「じたばたするからだろ? ったく、悪ガキには身体で覚えさせなきゃならないみたいだな。ん? ブラはどうした? まだつけない派なのかな?」

 力の差をいいことに考えうる限りで最も恥ずかしい格好をさせている。不本意なところではあるが、成り行き上仕方ない……。よく見れば生娘特有のきめ細やかな肌だった。

「ざっけんな! おれは男だっ! おめーなんかに負けるもんか、成敗してやる! おいこら、どこ触ってんだ……ふあああああっ!?」

「わかってないな……。男っていうのは、そういうこと言われると興奮してくるんだよ……。さあ、尻を出せ。女という自覚をその身に叩き込んでやる……おや、なんだこのいちごの柄のぱんつは?」

 このときぼくは自由だった。艱難辛苦から解き放たれて、宙を羽ばたける気さえした。自由とは忘れることである。自由とはまた、他人の自由を奪うことである。ああ、暴力はたのしい。暴力は自由だ。小学生に自由はない。マルキ・ド・サドも言っている。この世でまことの幸福を得るには、絶対に善を行わないという心構えが必要であり、あらゆる悪徳に耽溺するばかりか、たった一つの美徳をも絶対に許してはならない。

「ちぐしょう……ぢくじょう……覚えてろよ……今度会ったときは絶対に……」

 ぼくの行った拷問は最終的にアカリをして右のように言わしめるにまで至った。気づいたときには瞳の光がすうっと消え失せている。それにしても小学生の汗ばんだ尻の肉というのは、こう肌に吸いつく感じがたまらないな。さてと……。

 このときばかりは目の前の非力な少女を味見することに余念がなかったぼくではあるが、そう考える一方で実は自分を止めてくれる存在が現れることを欲していた、ということにしておこう。結果から言えば、次のように采配が傾くことによって、ぼくの行為はものの見事に頓挫した。ジャー……と、遠くのほうから音がきこえたかと思いきや、間髪入れずにリビングのドアが開かれて、そこからユキが顔を出す。

「……へ? ちょぉ、ふたりとも、な、なにしてんの……?」

「あ、ユキ……こ、これは……」

「きゅぅ~……」

 ぼくは説明に窮した。今の状況としては、ぎゅっと縮こまったまま気絶してしまったロリを下敷きにしているぼくがいて、その場面をちょうど妹に目撃されたという、一触即発の構図になるのだが、これにはまったくのところ深い事情があるのである。全部話そうと思ったら時空の歪みから始まって、この世界の法則に関するぼくが立てた仮説が立証されつつあることを理解してもらわねばならないが、そんなことはとても一言では説明できない。ので、ぼくはできるだけ簡潔にまとめて言った。

「ユキの召喚儀式です……」

 ぼくが見込んだ聡明な読者にだけはわかっていただけるだろう。さて思い出していただきたい。ユキが時空の狭間に消えたと思われた時間にぼくは何を考えていたか。そして何がきっかけでこんな展開が生まれていたのか。それを想起させるのには、ただ次のような反応の描写をもってすれば充分だろう。

 ユキはこのぼくの発言に対し、眉根を痙攣させながら、はじめは半笑いの表情を見せた。が、それは爪先から頭にかけて次第に我慢のボルテージを高めていたことの兆候に過ぎない。やがてその怒りが頂点に達する時が来る。そして次の瞬間、ユキはやかんのように上気した顔でぼくに向かってこう叫んだのだった。


「こ、こ、こんのぉぉぉ変態バカアニキいいいぃぃぃぃ!!!!」


 ここで得られた重要な知見は今後記憶から抹消されることも予想されるので、自分の物語に対抗する手立てとして備忘録に書き加えておく。ぼくの直感が正しければ、この世界におけるあらゆる心の活動は「カルマ」であり、「話素」という数値化可能な因子としてMAYUの内部に蓄積されている。それらが一定の条件下で物理的化学的に衝突することによってエネルギーが発生する。これがいわゆる「物語」の正体だ。そして、自然により近いほうが小説にとっては美しく、ぼくがこの場面を書くとすれば、この章はここで終わるだろう。

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