Meaning

 その後アカリは時間経過でミドリに戻った。どうやらミドリはアカリとしての記憶や自覚をほとんど持っておらず、本人曰く夢遊病の発作らしい。おそらくアカリという人格はミドリの中に蓄積された鬱憤を晴らすために生まれたのだろう。ミドリの純真さはアカリという用心棒によって守られている。再び我に返ったミドリちゃんは、どこかすっきりした顔をしていた。

 ぼくたちは閑雅な路地で少しだけうちとけて話しつつ、信号機姉妹(命名)の帰りを見送る。十七時を過ぎれば落日も残りわずかとなって、辺りはすでに薄暗い。船をうかべたような月が出て、冬の砂時計もかたむいている空。吐く息は白く、凍えるような寒さだった。

「あのっ……、またお邪魔してもいいですか……?」

「いいよー、こんなバカバカアニキのいるとこでよければ」

「バカバカアニキ言うな」

「だってバカバカアニキはバカバカアニキなんだもん。ちゃんとしててって言ったのに、ユキが見ててないと全然ダメなんだから。やんなっちゃう」

 ユキはまだぷりぷりしていて、ぷいっとそっぽを向いてしまう。しかしそれを見てミドリちゃんは緩慢に微笑んだ。

「いいなぁ……ユキちゃん。お兄さんと一緒でたのしそう……」

「え~、どこがぁ? 全然かっこよくないし、こんなバカンボー、家にいても困るだけだし。ほら、迷惑かけたんだから謝りなさい」

「悪かったな」

 二人に向けて非を認めると、ミドリちゃんがぼくの顔を見上げながら遠慮がちに言った。

「でも、たのしかった……です」

「だそうだが?」

「むぅー……なんかムカツク……」

 ユキから疎ましげにじろりと睨まれる。だが言動とは裏腹に、その雰囲気には奇妙な愉悦に近いものが伴われていた。ユキの心情を想像するに、友達の前でぼくに対してあえて突き放すような態度を取りつつ、そんな関係を再帰的に享受しているといったところであろう。それはぼくも同じであった。こうして目の前で活発に動いている姿を見ていると、これがぼくの妹だ、と実感しないわけにはいかない。今日という一日は、崩壊した日常のさなかにありながらも、いろいろな気づきを自分に与える一日でもあった。

 しかし何かに気づいたぶんだけ、ぼくは何かを忘れていくのかもしれない。

「気をつけてねー」

「うん、ありがとう」

「それじゃ、また……」

 ぼくたちが別れたのは、開いているのを見たことのない質屋の前の曲がり角だったが、背中を見送るために上げた手が、ふとぼく自身の目にとまっていた。

 いつからか、ぼくがつけているミサンガは、ときおり手首をしめつけることがある。まるで思いを発するかのように。身体に流れる血がどくどくと脈打ち、ミサンガがそれを自覚させる。ミサンガはぼくに考えさせた。自分はいったい何者か。何のためにここにいるのか。

 なんの意図いとからか、唐突にユキがその手を握ってくる。ひんやりとした確かな感触。スイッチが切れたみたいにうつむいているユキの姿は、明るい電灯の下でもどこかさびしげだった。

「どうした?」

「べつにぃ」

 ミドリちゃんの姿はもう見えない。石垣の向こうで雪が木からこそぎ落ちる音がする。宵の景色はぼくら二人を呑み込もうとするかのように広がっていた。しかし今のところ変わったものは見られない。電線の目玉や月に見つめられているような気がするほかは。

「買い物して帰ろっか」とぼくは言った。

「うん……」

 ユキはなんだか元気がなく、その場から動こうともしなければ、手を離そうともしなかった。何か言いたげな様子にも見える。そのまま少し待っていると、しばらくして口を開いた。

「ねえ、ケー兄……」

「うん?」

 躊躇するかのように氷の上で足踏みをしてから、ユキはぽつりとこう言った。

「ケー兄は、どこにも行かないよね……?」

 さっきまでとはまるで違う、すがるような目つきにぼくは胸を衝かれる。

「なんで、そんなこと訊くの?」

 やきもちを焼かれているかとも思ったけれど、そんな言い方でもなかった。ユキはぎゅっと握った手に力をこめて、次のように打ち明ける。

「あのね、ユキね、トイレ行ってたんだけど、そのときにヘンなまぼろしを見たの」

「……幕府?」

 と冗談めかして言ってみたが、ユキの口調は真剣だった。

「ううん、お花畑、かな。すっごく広いところでね、ユキが知ってるお花がぜんぶ咲いてた。それでとーちゃんとかーちゃんが帰ってきてて、お迎えに行ったらプレゼントをくれるの」

「へえ……」

 そのまぼろしはおそらくユキが時空の狭間にいたときに見ていたものにちがいない。ユキはユキで不思議な体験をしたのだろう。その話には興味がある。ユキの眼にこの世界がどんなふうに映っているのか。聞いたかぎりでは女の子らしい、かわいい夢のようにも思うが。

「でも、その中にケー兄はいなかった……」

 ぼくはその場に凍りついた。それが何かを暗示させるものであることは直感でわかる。両親と花畑。そしてぼくの不在。明らかに今ここにある「現実」とは裏の事象だ。ここにないものがあるかわりに、ここにあるものがない。ただの絵空事だと言い切れないものがその話の中にはあった。きっとユキ自身も不安を感じているのだろう、さっきまでは軽口を叩いていたのに、今では泣き出しそうな顔になって、痛いほど手を握ってくる。

「そんなのやだって思ったから、おもっきしぎゅって目をつむったの。そしたらケー兄がいてくれて安心したけど、でも……やだった。だから、どこにも行かないでね……? 行くときは、ちゃんとユキも連れてって……ね……?」

 そうか……ぼくがユキを探していたのと同様に、ユキもぼくを探していたのだ。だからまた会えた。しかしこんな感情のレベルで自分を納得させてはならない。そこにはぼくが目を背け続けていた問題が横たわっている。いずれは立ち向かわなければならない未来が。

 ユキは自分が小説の登場人物だということを知らない。かわいそうなユキは、ぼくのことをだと思っている。それは間違いだろうか。ぼくにはわからない。ただこの世界から外に出る方法があるとして、ユキを一緒に連れていくというのは原理的に不可能だった。

 ここは物語世界の中だ。ぼくがこの時空に逗留しているのは、MAYUというコンピュータプログラムによって役割を付されているからに過ぎない。ぼくらの心の中にこの世界で生まれ育った記憶があるのは、MAYUによって記憶がされているからだ。ぼくのは、あの装置の中にある。ぼくのは、こことは別のどこかにある……。

 今まではそうやって〈繭〉から出ることばかり考えてきたぼくだが、肝心なことを見失っていないか。ぼくがこの夢から覚めるとき、それは同時に今ここにいる。その後ユキがどうなるのかを、ぼくは考えていなかった。ユキはもう気づきかけているのだ。ぼくがユキのお兄ちゃんではなくなるかもしれないことに。そしてユキがぼくの妹ではなくなるかもしれないことに。女の子というのは男と違って居場所を失うことを何よりも恐れ、そして直感の働きやすい生き物だから。

 なんと答えるのがいちばんよいかは知っている。

 うんと言えばいいのだ。

 たとえその場しのぎでも。

 だけどそれは今ここにある、尊いものを犠牲にするかもしれない。

 ユキの気持ちは本物だ。

 ぼくはそう信じたい。

 だからこそ、安直な気休めは許されなかった。

「なあ、ユキ」ぼくは問う。「赤ちゃんのときのこと、覚えてるかな」

「う、うん、ちょっとだけ……」

 ぼくは手をつないだまま月を見上げ、絵本を語り聞かせるように話していた。不確かな記憶の糸をどうにか手繰り寄せながら。

「ユキはぼくと同じでね、生まれるのがちょっと遅かったんだ。だから引っ込み思案なんじゃないかって、母さんとよく言ってたんだよ。それでぼくは、おなかの外から呼んだんだ。ユキ、ユキ、早くおいで、大丈夫、こわくないよって」

 安心させてやりたかった。

 今も昔も変わらない。

 たとえそれが幻想だとしても。

 黙っていた方がいいのだ。

 もし言葉が、一つの小石の沈黙を忘れている位なら。

 黙っていた方がいいのだ。

 もし言葉が、言葉を超えたものに自らを捧げぬ位なら。

「その声……覚えてるかも」

「本当に?」

 ユキは少し笑ってうなずいた。そしてしんみりと口にする。

「ケー兄だったんだね……」

 そうだ。

 ずっと考えていた。

 ここが小説の中だとして、その主題サブジェクトは何なのか。

 これはぼくが何をする話なのか――

 ぼくらが一緒にいられる時間は長くないのかもしれない。これから二度と会えなくなるのかもしれない。一緒にいたというこの記憶もなくなるのかもしれない。

 それでも今この時だけは、この子の兄でいたかった。

 善人みたいなキャラじゃないけど。

「元気に生まれてきてくれて、本当によかった」

 それだけでいい。

 それだけは確かだ。

 ぼくの妹は息をしている。

 この物語は、そう名付けられた世界なのだ。

 捨てるにはあまりに惜しいこの世界。

 ぼくらを隔てるものは、何もなかった……。

「――それはどうでしょうか?」

 手をつないだぼくたちの前に、曲がり角から現れたのは。

 物語の始まりと終わりを告げる、金髪碧眼の少女だった。

「教えましょう、この夢から覚める方法を」

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