Quarrel

 こんな世界は滅びてしまえばいい。

 ひとりの部屋でぼくはつぶやく。

 日が暮れる。

 ユキは帰ってこない。ぼくのきちがいじみた所業のあと、少しけんかして、気がつけば家を飛び出していた。だがもういい。ぼくは本棚の書物を全部引っ掻き出して踏みつける。もう小説なんか二度とごめんだ。くたばれ、くたばれ。ああ、せいせいした。ゴミクズの中にハイネ詩集の表紙を見つける。何がハイネだ。バカじゃないのか。カフカの城もあるな。未完の物語を売ろうとするなボケ。焚書になってしまえ。

 こんなことをしてしまうなんて、確かにある意味でぼくも狂っているのかもしれない。だが、ぼくはこうして狂っていることを自覚している。だからぼくは狂ってない。なんだ、やっぱり狂ってなかったじゃないか。ははは、あは、あはははははは。

 ……虚無だ。虚無の夕焼けだ。

 こんなはずではなかったのに、どうしてぼくは無力なんだ。

 いちばん大切なものを自分から傷つけてしまった。

 もう後には戻れない。

 もうユキを追いかけたくない。もうユキのことを守ってやれない。

 もう何もしたくない。

 ナルシシズムの成れの果て。

 ぼくがこんなに未熟な性格なのは、ぼくを生んだ作者おやのせいだ。それが誰かは知らないが、きっと物語の意図でこうなっているにちがいない。そういうキャラだったのだ。だがもういい。日常はすでに崩壊した。ユキがいなくなったいま、この物語を後押しするものはなにもない。お話はここで終わりだ。じきにこの世界はしぼみきり、再び無に帰るだろう。そして次の瞬間、何事もなかったかのようにまた新しい世界が始まるだろう。それまでのあいだ、ぼくは目を閉じていよう。最初からこの方法に頼ればよかったのだ。なぜ今まで忘れていたのか。悪夢から脱け出す方法。ぼくは固く目をつむり、強く念じる。さよなら、世界。さよなら、ユキ……。


(それでいいのか)


「……っ!」

 目を開けた。手首のミサンガがきりきりと痛む。これははたして糸なのか、それとも物語の意図なのか。よく見れば一回だけ中でねじれて、メビウスの帯のように結ばれているそれは、まるでこの世界のありさまを体現しているかのようで。


(それでいいのか)


 ぼくは薄暗い部屋に横たわる下着や本の数々を見た――想いがどこかから発せられているようだ。手探り次第に山を掻き分け、とうとうぼくはそのありかを見つける。

「アキのだ……」

 本の形すらしていない、右肩を紐で縛っただけの生原稿。随分前に渡されて、キャラはいいと思うけど、澁澤龍彦からモチーフを採りすぎだと感想を伝えたことがある。そうか、ぼくのミサンガは、この紐と共鳴しているんだ……。だが、アキのいないはずのこの世界に、なぜ彼女が書いたファンタジー小説が存在しているのだろう? そしてぼくはなぜ、その内容をつぶさに記憶しているのだろう?


 ――あなたは分裂した二つの時空の狭間に囚われていると思い込んでいる。けれどそれらは、もともとは同じ一つのものだったんです。時空の歪みは、あなた自身の心の歪みが生み出したものなんですよ……


 ぼくは震える手でページをめくっていく。わからないことは多かった。ただひとつわかるのは、この小説が強く誇り高く輝いて見えるということ、それだけだ。

 アキの書いた主人公は生きていた。

 ユーコ・ブランク――女であることにコンプレックスを抱いた若き英雄の末裔は、魔王のいない世界で貧しい親や国王に騙され、口減らしのために出征させられる。彼女は真実に絶望し、一度は剣で自らの首を貫こうとするのだが、そのとき自分にこう問いかけるのだ。


(それでいいのか)


 ……紙の上に雪が積もり、その上に蝶がとまると原稿になる。

 言葉の中でも、人は生きられる。

 愛の祝福を受けた人びとなら。

 ああ。

 なぜ、ぼくは自分が捨てたはずの小説の世界に舞い戻ってきてしまったのか。

 その本当の理由がやっとわかった。

 ぼくはこの世界を、本当は捨ててなどいなかったのだ。

 ぼくは心のどこかで、この世界を、本当はとても価値のあるものだと信じていた。

 むしろ、ぼくが本当に捨てたかったのは……。


 ――何より許せないのは、自分の物語に責任を持てないことよ。


 そうだよ。

 何をやっているんだぼくは。

 こんなところで。

 探さなきゃ。

 ユキを。

 ぼくの妹を。




 誰もいない踏切とどこかの寺の鐘楼がひっそりと会話している逢魔が刻。ぼくは自転車を引っ張り出して大急ぎで街中を探し回った。ユキはなかなか捕まらない。どこにいたって見つけることができると言ったのはどこのどいつだよぼくだろうが。くそ、兄失格だ。なんて謝るか考えるのは見つけてからでも遅くない。頼むからその姿をもう一度ぼくに見せてくれ。

「ああ! おめーはあのときの!」

 ひろやかな田んぼのそばで大声が上がり、自転車を停めて見ると、立っているのは信号機姉妹の自称弟、狂気のアカリだった。いちばん会いたくないやつだ。

「おい、この前はよくもやってくれたなァ……。おっと忘れたとは言わさねえ、ここで会ったが百年目……いつ借りを返そうかと思ってたところなんだぜ……ケケケ」

 なぜこんな動物が野放しになっているのか知らないが、ちょうどいい。聞けることだけは聞いておこう。

「悪いけど今おまえに構ってる暇はないんだ。それよりユキを見なかったか」

「あァん? このおれさまを二の次に回すたァいい度胸だ。ボッコボコにしてやる。行くならおれさまを倒してから行きな!」

 目の前に立ち塞がられる。眼光と口ぶりだけは一人前だが、話にならん。

「少しは学習したらどうなんだ。もう一度訊く。ユキの居場所を知らないか」

「ああ、知ってるよ」

「本当か!」

「おめーなんかにゃ教えてやんねーけどな」

「頼む、教えてくれ。一刻を争うんだ」

「誰に向かって口きいてんだおめーは。それがモノを頼む態度かァ? 教えてほしかったら首を百八十度回して頼みな」

「どうか、お願いします」

 自転車からいったん降りて後ろを向き、股の間から顔を出して頼んだ。するとアカリは一瞬真顔になったのち、静かに言う。

「……おめー、ナメてんのか?」

「この通り!」

 そのまましばらく無言の睨み合いが続いたが、やがてぼくの気持ちが伝わったのか、アカリが不敵な笑みを洩らしてみせる。

「フン……その顔じゃどうやらマジみてえだな。ったく、最初からそう言えってんだタコが。おれさまの力が必要なんだろ? 連れて行けよ」

「違う。必要なのは情報だ」そろそろ血が逆流してくる。

「チッ……しゃあねえ。今回きりだぜ、譲ってやるのは。……ここを通って、あっちへ行った。山の方だ。なんだか知らねえが、さっさと済ませろよ。ビービー泣いていたからな」

「確かなんだな?」

「おれさまの目には狂いなんかねえんだぜ」

 疑わしいが、信じてみよう。

「おい、待ちな」

 礼を言って自転車にまたがり直し、こぎ始めようとするやいなや、背後でアカリがぼくを呼び止め、夕日を押し潰そうとする空とともに、忠告するかのように言った。

「覚悟しておけよ」

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