Pessimism

 パチリ。

 目覚めるとそこは、小さな花畑の中だった。いや、ベッドが花壇になっていた、と表現するべきだろうか。部屋の中に充満する花の香りにぼくはむせ返りそうになる。いくつもの青い花弁が身体の下敷きになっていた。ぼくはゆっくりと身を起こし、背中に貼りついていた花弁を払い落としながらカーテンを開ける。十二月二十三日。今日も世間は冬休みで、それはいつもと何一つ変わりのない自宅の光景だった。十時過ぎの太陽が雪の照り返しを美しく見せる。眼下の道に灰色の部分はなかった、まるで骨格を露にしたかのように、屋根や周囲の木々の上に白い雪がぴっしりとまといつき、ときおりそれの削ぎ落ちる音が、鈴を鳴らしたようにひびいている。

 なぜ部屋の中でベッドだけが花畑になっていたかはわからない。しかし、もはやこのようなことは大して驚くに値しなかった。床に落ちた花弁の一枚を拾い上げながらぼくは思う、また夢が悪さをしているのだと。言うまでもなくここは夢の続きだ。思えば夢の中で目覚めるという行為を、ぼくは何度してきたかもうわからない。きっとそれを繰り返しているうちに、どこが現実で、どこが夢なのかわからなくなってしまったのだろう。

 しかし同時にこうも思う。夢と現実が対を成すのだとすれば、夢の中で見る夢というのは、コインの裏のまた裏で、一番表に近いのではないかと。その意味で、ぼくが今朝見た身の毛もよだつような夢はどこか暗示的な部分が多かった。

 昨晩受けたかりんの言葉を思い出す。

 この夢から覚めるたったひとつの方法、それは――


 パチン、パチン。と、まるで夢を摘み取るかのような音が部屋のむこうからきこえていた。リビングへ行くと、椅子に座ったユキが一心不乱に足の爪を切っている。

「……あ、ケー兄。おはよ」

「おはよう」

 と言って、とりあえず向かいの椅子に座る。ユキは一瞬顔を上げたが、またすぐに目を戻し、黙って足の爪を切りはじめた。ぼくはぼんやりとその様子を見つめている。くの字に曲げられたほっそりとした脚。爪という肉体の一部が身体から分離して、肉体ではなくなる瞬間。そこには奇妙なエロティシズムの感覚があった。ユキは今日、大人の女が着れば色気の出るような縞模様のチュニックを着ているが、かえってそれが子どもらしさを強調させて見せている。

 やがてそれにも見飽きてテレビをつけると、雪崩事故で十五名死傷というテロップとともに、横転したバスと、どこか見覚えのある海岸沿いの風景が映し出されているところだった。朝から縁起の悪いニュースだなあと思い、すぐにチャンネルを変える。朝の体操番組。タイツに身を包んだ若い女性が、ぶら下がり健康器の前でロープを手にして言う。

『自殺体操第一~~~!! 首を縄にかけて楽になる運動~~! イチ、ニ、サン、死ッ!』

 テレビを切る。

「ごはん食べた?」

「んーん」

 ユキは爪切りに自分の爪を食べさせることに余念がなく、それ以外の一切に関心を示さない動物であるかのようだった。パチン、パチン、と断続的に響く音がふたりの沈黙を埋めていく。べつにその作業を邪魔しようとは思わない。身なりを清潔に整えておくのは大事なことだ。妙に会話が少ないのも、むしろ兄妹の距離感としてはこのくらいが自然なのかもしれない。しかし、ぼくの気のせいだろうか、うつむいたその顔が、何かに思い詰めているように見えるのは。

「あんま気にすんなよ」

 声をかけると、ユキは爪切りの手を止めてぼくを見た。

「……へ?」

「気にしてるんだろ、昨日言われたこと」

 ユキはぎくりと顔を引きつらせ、ごまかすように軽く笑う。

「あ……う、うん、ごめん……。ユキ、逃げちゃった……」

「なんでユキが謝るんだよ。悪いのはぼくのほうだ。いや……悪いのはあいつだ。全部あいつのせいなんだ。だから気にするな。あいつはそういう奴なんだ」

 気づけば自分に言い聞かせるように言っていた。もちろん、それだけでユキの気が休まるとは思えなかったが。

 あなたは見本さんの本当の妹ではありません、か。

 他の言い方もあっただろうに。

「ねえ……ケー兄」

「なんだい?」

「もし……ユキが悪い子だったら、どうする?」

「悪い子って?」

 ユキは捨てられた子猫のような声で言った。

「もし、ユキがケー兄のほんとの妹じゃなかったら……、ほんとはここにいちゃいけないものだったら……、どうする……?」

「それは……」

 ぼくは答えに詰まった。どうするもこうするもない。そんなのぼくが知りたいくらいだ。けど、それは今のぼくにとって非常に重要な問題だった。

 昨日の話が真実ならば、今までMAYUの仕業だと思い込んでいたものは、すべてユキが原因だったことになる。彼女の正体は《夢喰い》とよばれるこの世のものではない存在であり、ぼくの本当の妹ではない。そして、彼女こそがこの夢の世界にぼくを閉じ込めている元凶であり、その呪縛によってぼくの心を食い物にしようとしている。

 もちろんぼくは、あの少女の言葉をただ鵜呑みにしているわけではない。話の中に嘘が紛れ込んでいる可能性も考えてはいる。しかし、ユキが今あえてこのような質問をしてきたことで、ぼくの心の天秤は悪い方へと傾いてしまった。もしかしたら、ユキはぼくになにかを隠しているのかもしれない。今のは自白とも自己嫌悪とも取れる発言だった。

 だがその言葉は同時に、ぼくがこれからしなければならない選択に対する罪悪感をも与える。ぼくはユキのつぶらな瞳を覗き込みながら自分自身に向かって問う。仮にユキの正体がまさに今考えたような《夢喰い》であったとして、おまえは本当に、それを殺すことができるのか? 自分に仇をなす存在だという理由で?

 そんなことは考えたくもないことだ。しかし、このふたりきりの世界から外に出る方法があるとして、他の手段というものが考えられなかった。『ぼくの妹は息をしている(仮)』を終わらせる方法は、ぼくの妹の息の根を止めること。その論理はあまりにも強固で、この世の絶対的な法則のように思えた。ぼくが問われているのは、本物の生活を取り戻すために、偽の生活を破壊することができるかということだ。

 ユキは気遣わしげな表情でぼくの答えを待っている。そのイメージがぼくの中で紅く染まり、砕け散った。次の瞬間、そこには訳のわからない叫びを発しながらユキに襲いかかるぼくの姿がある。ぼくは昨日預かり受けた短刀でユキの小さな身体をずたずたに引き裂く――

 はっとした頃には、もうユキはため息をついて席を立ち、自分の爪を捨てているところだった。ぼくは一瞬とはいえおそろしい想像をしてしまったことを深く悔いる。そのようなことは実現されてはならない。少なくともこの日常の中においては。

 そう思う一方、ぼくの中には次のような観念もあった。ここが小説の中だとすれば――きわめて極端に言えば――小説の登場人物でしかないユキは、読者や作者にとってはじめから死んでいる存在だという残酷な見方もできる。その上でユキを殺すことには何の意味があるのか。それは、書くということの象徴であるとぼくは思う。書くことは生命を閉じ込める欲望の行為であり、本質的なところで殺すことと似通っている部分がある。そして小説が表在化しているこの世界では、表象するものとされるものが逆転していて、殺すという行為が書くことの代替なのだ。つまり、ぼくが実行しようとしていることは、実はこの小説を書くということなのかもしれない。ぼくがなにを言っているかわかるだろうか? ちなみにぼくにはさっぱりわからない。

「……ごはんにしよう」

 雑念を振り払うように、ぼくは台所に立つ。今のぼくたちに必要なものはなによりも栄養と気晴らしだった。料理はその両方を提供してくれる。ところが、昨日買い物へ行くのを忘れて帰ったために、冷蔵庫の中に牛乳ともずく以外の食材が入っていないことに気づいた。これではぼくの好物であるベーコンエッグを作ることができない。参った。

 そのとき、ユキがテーブルの上に無造作に放り出されているものを指して言った。

「これがいい」

 ぼくはユキが指したものを見る。それは見るからに怪しい直方体の箱だった。「フルーツグレゴールザムザ」と、そのパッケージには記されている。メイド・イン・チェコ。ふむふむ。名前からしてシリアルタイプの食品であることはわかるけれども。

「初めて見るな。本当にこれがいいのか?」

「うん」

 そう言い終わらないうちにユキが陶器の皿とスプーンを持ってくる。ぼくは覚束ない気持ちでパッケージを開けてみた。化学薬品のにおいがするが気にしないことにして皿の上に中身を注ぐ。ざらざらざらざら。そんな音を立てて出てきたものを見てぼくは絶句する。

「え……これって……」

「牛乳をかけて食べるんだよー」

 ユキが牛乳を入れたことで皿の中は白く染まり、そのことによって、黒い斑状の粒が浮かび上がる。それはシリアルやカットフルーツの中で明らかに異彩を放っていた。そう、袋の中には、虫が入っていたのである。見たこともないような無数の虫が。

 吐き気を覚えた。

「ケー兄……どうしたの? 食べないの?」

 気づけば二人分の皿が用意されていて、向かいの席にユキが着席している。彼女は皿の中に異物が混入していることに対してまるで無頓着な様子だった。

「いや、食べるったって……虫だぜ……?」

「虫……?」

 ユキは皿の中に目を落とし、怪訝な顔で言った。

「虫は食べちゃいけないの?」

 このとき、ぼくとユキとの間ではっきりと境界が分かれた気がする。ぼくはここが狂気の世界であることを思い出し、納得した。完全に夢に染まっているユキには、この世界の異常さを認識することができない。狂った世界では狂っているほうがむしろ正常なのだ。それに対してぼくはまだこの世界の住民権を持たず、そのためにあらゆるものが異質に見える。

 ぼくがこの世界で生きていくことは、ぼくがぼくでなくならないかぎり無理だ。

「ぼくはいい……遠慮しておく……」

「そう。じゃあ、いただきまぁす」

 ユキがスプーンいっぱいに盛った虫シリアルを口へ運ぶ――そのとき、ぼくの中でなにかが一斉にはじけた。

「やめろ!」

 びくり、とユキが動きを止める。ぼくは止まらなかった。目につくすべてが不快だった。こんなもの、なくなってしまえばいい――そんな激情に駆られて皿をひっくり返していた。こぼれた牛乳がユキの顔や衣服に付着する。バリン。皿が砕け散った音。

「け、ケー兄……? なに、するの……?」

 怯えた顔、震える声。ああ、そんなものをぼくは見たかったのではない。そんなものをぼくは聞きたかったのではない。ぼくは無性にかなしくなってくる。それになんだかむしゃくしゃした。くそ、くそ、夢なんだろ? 夢ならぼくの思い通りになれよ!

「ケー兄……なんで怒ってるの……? ユキが悪いことしたから……?」

 生きていれば必ず、自分が今までこつこつと積み上げてきた一切のものがどうでもよくなる瞬間と出会うことがある。今がその時だった。

「ソウダ、ユキハワルイコダ。ワルイコニハオシオキガヒツヨウナンダ――」

 ぼくは何を考えているんだろう。

 何をしようとしているんだろう。

 わからない。

 何もかも。

 どうでもいい。

 面倒だ。

 もう、よくないか。

 つまんないよ。

 お約束とか。

 お兄ちゃんとか。

 男とか女とか繭とか小説とか夢とか現実とか想像力とか話素とか自我とか意識とか欲望とか存在とか関係とか希望とか目的とか伏線とか象徴とか自然とか意味とか形式とか理性とか悟性とか感性とか肉体とか精神とか人格とか尊厳とか倫理とか真実とか言葉とか人間とか……

「服を脱げよ」

 ぼくは言った。

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