Overturn

 ……十年前。

 ぼくは父の運転するバスに乗るのが好きだった。

 仕事を首になって、家で飲んでばかりいる父のことはきらいだったけど、新しい仕事がきまった日に、父はうれしそうにそのことを話した。だから、ぼくは父の仕事を応援することにきめたのだ。その日もぼくたちは朝から用事をつくって、遠くの牧場へ向かうバスに乗り込み、いちばん後ろの席でお客さんのふりをしているところだった。

 いまでもはっきりと思い出せるのは、朝焼けの海と雪山に挟まれた道路のきれいな眺めと、前に座る女の子の口ずさんでいた歌。バスが信号の手前で止まるたびに、そして濡れたアスファルトが紅く染まるたびに、その幼い少女はまるでそうすることが義務であるかのように、バスが再び発車するまでの短いあいだ、歌詞のない歌を甲高い声で歌いつづけるのだった。

「だって、ちゃんとみんなにゆわないと、ジコになるかもしれないんだものっ」

 ほかのお客さんに迷惑だからやめなさいと、横から制止を入れる母に対し、女の子はお構いなしにそう主張して、歌うことをさっぱりやめようとしない。はじめのうちはぼくもそれをやかましく感じていたけれど、やがて携帯ゲームに夢中になりはじめてからは大して気にも留めなくなり、ふとした瞬間にその歌が途切れたことに気づくようになるぐらいだった。そういうとき、ぼくは目を上げて移ろいゆく外の景色を見やったり、手前のガラスに反射している少女の影をぼんやり眺めてみたりする。

 べつにそれだけだったけど、歳が近そうだったからなんとなく覚えていたのだろう。……あとから思えば、あの子はこれから起こることを予知していたのかもしれない。ぼくはただ、マスク越しに呼吸するような空気の悪さを感じていただけだったが。

「ケイ、どうかしたの」

 ふりむけばそこに、やさしいぼくの母がいる。まだ若かったぼくの母。なんでもないよとぼくは言って、ゲームをそこで中断する。……すこし酔ってしまったな。そう思ってぼくは、母のおなかを枕がわりにさせてもらうことにする。母のおなかは大きかった。目を閉じると、ごうごうと鳴るエンジンの音のなかでも、とくんとくんと脈打つものがあるのがわかる。とても安らかな心地で、ぼくは片耳を母のおなかにあてていた。

「あ、いま動いたよ」

「動いたね」

 そんなやりとりをするのも何度目になるかわからない。母のおなかの中で、ぼくの妹は順調に育っている。臨月を迎え、本当なら家で安静にしていなきゃいけない時期だったけど、バスに乗りたいというぼくの希望を叶えてくれた。

「はやく出てこないかなあ」

「そうだね、あとちょっとだね」

「ちょっと遅くなぁい?」

「ケイのときもちょっぴり遅めだったのよ。あんたに似て引っ込み思案なのかな?」

「平気なのになぁ」

「うふふ。じゃあ、大丈夫だって安心させてあげたら?」

「おーいおーい」

「それじゃどこの誰かわかんないわよ?」

「あ、そっか」

 ぼくはいまひとたび、母のおなかの向こう側にいる妹に語りかける。

 ゆっくり息を吸い込んで。

「もしもし、きこえますか? ぼくがお兄ちゃんだよ。生まれてきたら、たのしいことがいっぱいあるよ。ちゃんと守ってあげるから、心配しないでね。はやく会いたいな」

 ……あ、また動いた。

 きこえたのかな。

 うれしい。

 母も笑っている。

 幸せだ……。

 もうすぐぼくに妹ができる。

 ぼくがお兄ちゃんになるんだ……。

 ぼくたちを乗せた日曜日のバスは右や左にかたむきながら湾岸沿いの道を走っていく。そこに乗りあわせた人びとはみんなが同じ方向を目指しながらもそれぞれ違う目的地をもっていて、思い描いたどこかの場所を心のなかにもっている。待ち人にこれから会いに行く人もいるかもしれない。果たし忘れた約束を届ける人もいるかもしれない。このなかのほとんどの客はもう二度と会うこともない人たちだ。そんな大きなひとかたまりの一部でしかないぼくはただ名前も知らない人びとの積み重ねてきた歴史を想い、全員を運び終えたあとの父の孤独を想いながら、たった一度しかないこの瞬間がなぜか遠い未来の涯てから思い出されているような気持ちがした。いくつになっても忘れられない記憶というのがあるものだ。それらはたいてい、いくつになっても忘れないだろうという予感から生まれる。

 母のおなかの上では誰かが押した停車ボタンが鳴る音すら美しい音楽にきこえるようだ。たまにはこんな当たり前のことが妙に近しく感じられる日があってもいい。膨らむ期待をそのままに、ぼくはこの一瞬を永遠にしてもいいとさえ思った。ぼくたちを運ぶバスはまるで一匹の昆虫のように身体の中の乗客を出し入れしながら、やがて短いトンネルに入る。

 それからぼくは少しのあいだ、眠ってしまっていたのかもしれない。頭を上げたのは母に身体を揺り起こされたときで、辺りが静かだったから、てっきりもう到着したのかと思って周囲を軽く見回した。まだバスが動いていることをやや退屈に感じたけれど、重要なのはそのことではなく、車内の空気がおかしいことにぼくは遅れて気がついた。

「何をするんですか、やめてくださいよ」

 父の声だった。よく見えないが、向こうのほうで、誰かと言い争っている。

 状況が一変していた。

「このバスは呪われている!」

 一人の男が、びっくりするような大声で、いきなりそんなことを叫んだ。見たのは一瞬だけだったが、ぼくは確かに覚えている、そいつは変な帽子とマスクをつけていて、さっきまでそんな顔はいなかった。さらに、そいつは大きなライフルのようなものを持っていて、それをみんなに向かって突きつけていたのだ! ぼくは一瞬わけがわからなくなって、ぽかんと口を開けたままそんな光景を見ていた。バスが急ブレーキを踏む。車内に悲鳴が巻き起こる。急ブレーキにご注意ください。運転席の手前に灯った電光表示がすごく機械的で不気味だった。体勢を崩したぼくは頭を上げようとして、その頭を母に押さえつけられていた。

「お母さんの下に隠れてなさい」

 母は聞き取られないぐらいの声でそう言った。このときぼくははじめて本当にとんでもないことが起こっているんだと感じた。もうそこは幸せなバスではなかった……マスク男はまだ何か怒鳴っている。ピンポーン。つぎ、とまります。頭上で陽気なアナウンスが流れ、車の中が真っ赤になった。バァーン! 耳元で風船が千個同時に破裂したよりも大きな音が鳴った。このバスは呪われている! このバスは呪われている! 眩暈のなかでおそろしい声がガンガン響いた。こわい。助けて。座席の下にうずくまりながらぼくはひたすら何かにすがりついていた。なにより父が殺されてしまうんじゃないかということがいちばん不安で、ぼくたちも全員ここで死んでしまうのかもしれないと思うと本当に背筋がふるえるのだった。

 でもバスはまだ動いている。バスは大きく右に曲がった。バスはどこかへ向かっていた。バスはどこだかわからない場所を走っていた。バスの中は赤くて、バスの外は白かった。バスは全然止まらなかった。

「ミサンガをつけているやつはいねえかあ!」

 得体の知れないマスク男は、いつのまにかなまはげになっていた。「ミサンガをつけているやつはいねえがあ!」怒鳴りながら、いちばん前の座席からこっちに向かってきているようだ。ゆっくりと、まるで誰かを探しているかのように、近づいてくる気配を感じる。

 何をするつもりなのかわからないが、そのとき感じた恐怖は言葉にならないものだった。ぼくもその周りの人も、ただ自分たちのところまでは来ませんようにと祈るほかには何もできず、一瞬一秒がひどく長く思えた。

「ミサンガをつけているやつはいねえがあ!」

 母の様子がおかしいことに気づいたのはそのときだった。手や顔にびっしょりと汗をかいて、とても苦しそうに息をしている。痛みを必死でこらえるあまり、ぼくに気を遣う余裕もなさそうに見えた。おそらくは、極度の緊張とストレスのためだ。破水、という言葉をぼくはそのときまだ知らなかったけれども、直感的に理解していた、こんな状況下で、母は。

「お、おかあさん……? おかあさんっ!」

 ぼくはいきおい母に飛びついた。それがいけなかったのかもしれない。無闇に顔を出したせいで、なまはげの注意がこっちに向いた。振り返り、ぼくはぎょっとする。あまりにも、その目が化け物じみていたから。

 ぼくはもうだめだと思った。だけどぼくは、ぼくはそこで勇気を振り絞らなければいけなかった。目をぎゅっとつむって、ぼくは精いっぱい大きな声を出した。

「お、お、お、おろして、ください」

「$◎Z%=■※/@×?」

 その相手がなんて言ったかぼくにはわからなかった。けど、何かを訊いているようにきこえた。だからぼくは、また声を絞り出して、なまはげに向かって言った。

「お、お、おかあさんが、がっ、ぐ、具合が、わるくて」

「おめでとう、おめでとう。パチパチパチパチ。みんなが口々に言う。おめでとう、おめでとう。パチパチパチパチ。ピンポーン。つぎ、とまります。人びとが拍手していた。おめでとう。おめでとう、おめでとう、おめで」ドドドドドドドドドドドド」

「う、うぁ、うああああああああ……、だれかっ、だれかぁ……!」

 もうわけがわからなくてこわくてぼくは泣いた……他の乗客を無視してまっすぐこっちに向かってくるなまはげの不気味な笑みと苦痛に喘ぐ母のフーフーいう声と谷底を突き進む真っ赤なバスと夜のように真っ黒なライフルの銃口とが頭の中で全部ドドドドドドドドドドドドになって足がふるえて耳鳴りがしてぐにゃぐにゃと景色は曲がり衝撃がして真っ白な色に包まれた……。


「オギャー、オギャー、オギャー、オギャ、オギャー、オギャー、オギャー……あれ? 誰もいない」

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