Zip

 海沿いを走るバスの眺めを見ていると、なんだか身体が若返ってくるように感じる。

 老若男女さまざまな人が乗っていた。

 どこかで見たことがあるようでない人びと。

 歌うたいの少女がいる。

 信号機の真似をしているようだ。

 しあわせそうな親子がいる。

 どうやら双子が生まれるそうだ。

 朝焼けが美しい。

 雪の照り返しも本当に。

 雪……。

 なぜだろう。

 その言葉を口に含むと、肘の裏側がびんとふるえる。

 なぜだろう。

 胸のいちばん奥に、静かな波がぶつかってくだけた。

 ああ。

 もうすぐ春だ。

 このバスは春へ向かっているのだ。


 だんだん人が減ってくる。

 みんな次々に降りてゆく。

 気づけばぼくしかいなかった。

 長いトンネルの中。

 女性の声のアナウンスが告げる。

 次は終点。

 じゃあぼくも降りよう。

 降りた先には家族がいる。

 降りた先には新しい住み処がある。

 少し時間があったので、運転手と世間話などしていた。

 彼は以前タクシーの運転手をしていたらしい。

 バスのほうが少し儲かるから転職したそうだ。

 おかげで息子の手術費用を賄うことができたと。

 ふうん。

 と、相槌を打って降りようとすると、ふと呼び止められる。

 お客さん、お忘れですよ。

 そう言ってぼくに手渡してくるのは、一篇の分厚い紙束。

 右肩に蝶がとまっているから原稿だ。

 なんだかそれがなつかしい。

 ぼくは大切にその物語を受け取った。


 外には清らかな光が満ちている。

 何も言うまい。

 何も語るまい。

 そんな天気だ。

 ぼくたちは知っている。

 世界の涯てが、自分の心の中にしかないということを。

 ぼくたちはまだ知らない。

 自分の心を、どこまでひろげることができるのかを。

 それだけははっきりと伝えておきたかったのだ。

 強くなろう。

 風になろう。

 さあ。


 この扉が閉じられたとき――

 世界の彼方あなたがひらかれる。(了)

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