【刊行記念】おまけ
Pro↔Epilogue
「自分の人生について書かれた小説を読むと死ぬって話、聞いたことある?」
学校へ向かうバスの中でアキがぼくに言ってきた。
「どうせまたデタラメだろ」
「ぐっ……し、失礼ね、人をオカルト信者みたいに……」
「自分から言うってことは、自覚があるんだな」
「またそうやってバカにする!」
バカもなにも、実際にそうなんだから始末に負えない。妙ちきりんな噂話を引っ張ってきては、さんざん人に吹聴した挙句、誰よりも先に忘れてしまうという恐るべき無責任っぷりは、もはや学校中の誰もが知るところである。ほとんどの人が耳を貸さなくなったぶん、ぼくの負担が増えた。毎度のように付き合わされるこっちの身にもなってほしい。幼馴染の腐れ縁とはいえ、我ながらお人好しが過ぎるなと反省する毎日だ。
「でね、なんでもその小説には、自分の人生のすべてが書いてあって、過去も未来も書いてあるの。周りの人たちが言ったことも再現されてて、本人じゃなきゃ知らないような情報も出てくるんだって。けど、その小説を全部読むと……」
「……死ぬの?」
こっくりと、アキが神妙な顔でうなずいた。ほんと、この顔を誰かに見せてやりたい。水を得た魚もぎょっとすると思う。高校生になっても性格は変わらない。それでいて成績はぼくよりちゃっかり上なのだから腹が立つ。
「まるでドッペルゲンガーみたいな話だね」とぼくは言った。
「だね。まったく同じ顔の人物がこの世に少なくとも三人はいるそうだし、そんな人間が小説を書いてたら、世界にひとつくらい自分の人生とぴったり重なるお話があってもおかしくないよ。……ね、世界にある物語の数と人口って、どっちが多いのかな?」
「……人口じゃないかなあ。歴史を全部遡ったとしても、さすがに七十億以上も小説があるとはちょっと想像がつかない」
と、常識的なことを言ってみる。ちなみにもっと常識的なことを言えば、ドッペルゲンガーの正体は脳性マヒ患者の見る幻覚であるとかないとか。まったく身も蓋もない話で、アキがこの説を受け入れることはなさそうだけれど。
「でもでも、物語は星の数ほどあるって言うし、ほんとに全部数えたら天文学的な数字になったりしない? それにひとつの小説で語られるのはひとりの人生だけじゃないし――」
食い下がるなあ。
「人生の全部が書かれてるんだったよな? そりゃよっぽどつまらないか、長すぎて読むに値しないかのどっちかしかないね。誰かが言ってたろ、人生は冗長な一幕芝居に過ぎないって。ぼくはジャン・クリストフを読もうとして五ページで挫折した人間だ」
「自慢するみたいに言わないでよ」
「おい、そこはロマン・ロランと小説のロマンと星の数のロマンをかけたことについて反応するところだろ……」
「なんかムカつくからあとでマロングラッセおごりね」
「ふざけるな、おまえなんかマカロニグラタンで舌をやけどしてれば充分だ」
「なによ、あんたなんかマイメロちゃんの下敷き使ってたくせに」
「おまえ……それ以上言ったらどうなるかわかるな? 一生マロニーちゃんが鍋の底に残り続ける呪いをかけるからな……」
何を隠そう、ぼくたちは由緒ある文芸部の一員であり、その全部員なのである。だからこうやって日々文学談義に花を咲かせているのである。しかもぼくには才能がなく一作も書き上げたことがないので実質アキだけの部活なのである。
「……ごめんねえ、ちょっと通しておくれ」
「あ、すみません」
「すいませーん」
乗客をかきわけて白髪のおばあさんがバスを降りてゆく。雨の日はいつも車内が混雑する。おばあさんが立った座席は他の乗客ですぐに埋まった。ぼくたちは乗車口の前の空いたスペース(ぼくはここを「安全地帯」とよんでいる)に移動して扉が閉まるまでのあいだ糸のように降り続ける雨の音をきいていた。頭の上で人工的なアナウンスが流れ出す。ガラス越しにしか見たことのない風景が右から左へ過ぎ去っていく。できるだけ遠くを見ていないといけない。ぼくはバスという乗り物が苦手だった。こんな人間の缶詰がこの街にごまんとあること自体が社会を象徴しているのだ。そのうちのいくつかは不良品でぼくのような発達障害が乗っている。むかし遠足のとき吐いてしまったことを思い出す。あのときは隣にいたアキにも迷惑をかけた。にもかかわらず嫌な顔ひとつ見せなかったのはアキだけだった。
「……でね、でね、実はあたしさ……み、見ちゃったのよー!」
「え、何を?」
「だーかーらー! 例の小説よっ! 小説っ!」
「あ、うん、……え?」
一瞬目の前の短髪娘が何を言っているのかわからなかった。あまりにもうれしそうに言うもんだから。……さっきまでと、いま。同じ話をしているとしたら、冗談にも程があるぜ。
「なんかねー昨日パソコンに変なメールが届いてて。『これって君のことじゃない?』みたいな。英語だったからよくわかんないんだけど。でさ、気になるじゃない? だからねーリンク先のアドレスをクリックしてみたんだけど、そしたら変なページに飛ばされてて、そこにすっごい量のテキストがアップされてたのよ! やっばー! と思ってすぐ消しちゃった~」
消しちゃった~、じゃないよもう。
「あのさあ……。それってよくあるスパムかなんかの類だろ? ハッキングの踏み台にされるやつ。念のため帰ったらウイルスチェックしといたほうがいいと思うよ」
「違うんだって! ほんとに見たんだから」
あくまで持論を展開するつもりらしいが、この手の話は信用しないとぼくはきめている。
「ふーん……じゃあ、ぼくらがこのバスでこうやって会話しているところも読んだってわけ?」
「そ、それは……だからすぐ消したって言ってるじゃない! だいいち、もしもあたしが読んでたら今ごろ命なんてなかったわよ。いやー、危なかった危なかった」
ひょっとして、心配してほしかっただけなのかな。
「でもさ、論理的に考えてみな? 百歩譲って、もし本当にそんな小説が実在したとして、だ。それを読んで死ぬってことは、その先の未来がなくなっちゃうわけだから、それより先のことが書いてあるのって、どう考えても辻褄が合わなくないか? パラドクスってやつだよ」
いや、待てよ……。必ずしもそうとは限らないのか……。なんか、話がオカルトからSFに寄ってきたな……。
「うっ……それは……そう、かも……? うあ~! わかんなくなってきた!」
目を回しながら頭をかかえだしたアキを見て思わず笑ってしまう。
まあこの神経じゃ、当分死ぬことはなさそうだ。
「とにかく、アキが無事でなによりだよ」
「ほんとだよ~。あたしったらもう死んじゃうかと思ってびびりまくりで遺書まで残して、も~こわくてこわくて朝まで起きられなかったんだから」
「寝てんじゃねえか! ……って、まさかの夢オチ?」
ぼくの二段ツッコミがボケのアキのボケボケにクリーンヒット。
「……あれー? どうだったかにゃ……そのへんよく覚えてないにゃあ……」
困ったときに全然似てないしかわいくもないねこまねをするのはアキのよくない癖である。そういうのはほんとにやめたほうがいいとぼくが何度注意してもネトゲで使っている口調が出てしまうそうなのである。知らずのうちにあなたが見抜きをしている女の子も実はアキかもしれないのである。ぼくは呆れて物も言えなくなり霧に包まれた街並みに目を向けた。尖塔。シャッター街。バスは横断歩道の手前でとまっている。
「あ、でもね、これだけは確かだよ。そのページの一番上にはね、こう書いてあったの」
フォローのためなのか、すっと片手を伸ばしたアキが、曇りガラスの上に指で文字を書いていく。あまり興味のないぼくはしかし、むしろその若い手首を彩るものに目がいった。
「へえ、ミサンガなんかつけてるのか」
つい口に出してしまう。
「あ、これ? うん、ちょっとね」
さりげなく両手を後ろに回すアキ。
「なんで隠すんだよ」
「えぇ、だってなんか……恥ずいし」
「恥ずかしくないだろただのミサンガじゃん」
「こ、これはただのミサンガじゃないの! 世界にひとつしかないんだから!」
え、なにその反応。そっちのほうがよっぽど気になる。まさかとは思うが、男にもらったとかじゃあるまいな……? だとしたらひどいぜ……。別に嫉妬するわけじゃないが……失望しましたファンやめます。
「おとなしく見せなきゃスカートめくるぞ。どっちを見せる? パンツか? ミサンガか?」
「ぱ、パンツ!」
「ほらな。パンツより大事なものなんてこの世に……は? 今なんて言った? 本気か?」
さすがにこんな公衆の面前で女子のスカートをめくる勇気はぼくにはない(なぜならぼくは変態ではないから)神さま……公衆の面前で女子のスカートをめくる勇気をぼくにください……。
だが運のいいことにそのとき急発進したバスがアキの体勢を崩してくれた。つり革につかまることをいやがるアキはこういうとき無防備になる。つまり普通に危ない。だからそのときとっさに手を伸ばしたのは何も不自然な行動ではなかった。もしぼくが手を掴まなければアキは転倒していたことだろう。過去に何度もぼくは同じことをしている。だから急でも動けたのだ……パンツを拝むことはできなくとも白樺の細い枝のような手首を見ることがぼくはできた。袖先から露出したうすい皮膚は妙になまなましくぼくの手のなかで波打つように暴れていた。そしてうつくしい静脈を横切るように結びつけられた紅白のミサンガ。見てしまえば存外あっけなくも思えるそれはしかし次の瞬間アキの手元から手品のように辷り落ちてしまった。
「あっ」
声をかさねて驚くぼくたちの間に切れたミサンガが落下する。おそらくそれは偶然の出来事にちがいない。だがミサンガの切れる瞬間というものをぼくははじめて本当に見たことになる。ミサンガを拾い上げたアキはそれを手のひらにのせて、切れちゃった、と気の抜けた声でつぶやいた。ぼくはなんとも言いがたい気持ちになり、切れちゃったねと繰り返す。その言葉にアキは小さく笑う。ぼくも笑い返す。近くで様子を見ていた知らないおじさんも微笑む。女の人が拍手する。パチパチパチパチ。見てない人も拍手した。パチパチパチパチパチ。きょろきょろと周りを見回すぼくたちを囲むように人びとが拍手していた。パチパチパチパチパチパチ。ピンポーン。つぎ、とまります。しばらく名残惜しそうにミサンガを眺めていたアキはやがてそれを大事そうにポケットにしまう。誰かが声を発した。おめでとう。その声は車内に伝播してゆく。おめでとう、おめでとう。みんなが口々に言う。おめでとう、おめでとう、おめでとう。パチパチパチパチパチパチパチ。拍手と喝采のうねりはバスが駅に停まるまで休まることがなかった。今思い出すと少し不気味な感じがする。なぜあのときぼくは幸せな気持ちで拍手に加わっていたのだろう。そしてなぜアキがその駅で降りることについてなんとも思わなかったのだろう。ぼくは止めるべきだった、学校まで一緒に行くべきだった。けれどアキはなにかどうしようもない力によってバスから降ろされてしまった。ぼくが最後に見たのは霧の中に消えてゆくアキの姿だった。
もう気づいているだろうがこれは白昼夢のなかの出来事だ。それについて言える確かなことはなにもない。その日ぼくはそのまま学校へ行った。そしてアキが死んでしまったということを知ることになる。パソコンの画面の前で倒れていたのが朝になって見つかったのだという。そのときにはもう手遅れだったと。先生が泣きながら説明していた。なによりもつらいのは、アキにお別れを言うこともできないことだった。
脳死。アキはそういう状態になったらしい。つまり身体は生きていて、脳が死んでいること。生と死の国境地帯。だから葬儀は行われないことになるそうだ。アキの肉体は生きたまま病院のチューブにつながれて、呼吸器による延命を受けることになる。いつまで? とぼくは訊いた。先生は答えてくれない。黙って首を振るだけ。
ただし再生の見込みは、ほぼない。
あまりにも突然のことで、ぼくはどうやって悲しめばいいかすらわからなかった。ニュースが報じられたいまでさえ信じられない。どうせアキのことだから、この話もまるでデタラメなのではないか、ただ死んだふりをしているだけではないのか。嘘みたいな現実を突きつけられても奇妙に冷静でいられたのは、自分のなかにまだそう考えている部分があるからだった。事件と事故の両面で捜査している? 笑わせるなよ。なぜならぼくは覚えていたからだ。バス停で降りたアキが遠ざかりながらいつまでも手を振ってくれていたことを。でもそれを証明する事実はなにもなかった。あのときアキはもうこの世にはいなかった。アキははじめからバスになど乗っていなかった。そもそもそんなバスは運行表のなかに存在しなかった。でも、ぼくはアキとバスに乗っていた。明日もぼくはアキといつものバスに乗るだろう。毎日そうしてきたのだから、それ以外の生活はおかしい。まちがっている。そうだろうアキ? なあ、本当は生きてるんだろ? もうそういうのいいからさ。出てこいよ、早く。嘘だと言ってくれよ。なんでなのかな。ぼくがなにか悪いことをしたのかな。ちくしょう、ちくしょう……。
ぼくはそうやって、暗い病棟の廊下で啜り泣いていたらしい。ああ、ぼくは自分が思っていたよりもずっとアキが好きだったんだなあ。いまさらこんなことを思うのは後出しのようで少し卑怯だろうか。でもそんなぼくを置いて行ってしまったアキのほうがよほど卑怯だ。許せない。いや、許せないのはこんなことになってしまった運命を置いてほかにない。なぜ、アキは死ななければならなかったのか。
なぜ?
ぼくは考え、そして、ひとつのことに思い当たる。
「そのページの一番上にはね、こう書いてあったの」
あのときアキはそう言っていた。曇りガラスに文字を書こうとしながら。ぼくはまたアキがデタラメを話していると思って、ミサンガのほうに気をとられてしまっていたけれど、彼女はずっと、なにかを伝えようとしていたのかもしれない。
もちろんその記憶自体が間違いである可能性もある。けれどもし、アキの話したことが真実で、そしてその通りのことが実際に起こってしまったのだとしたら。
読むと死ぬ小説。自分の人生が書かれた小説。
アキはそれを読んだ。
だから、死んだ。
死んでしまった。
本当に。
もう一度記憶を遡る。朝のバス。手を伸ばしているアキの姿が目に浮かぶ。ミサンガが切れる。笑顔。拍手。おめでとう。霧の中にたたずむアキ。その手前。バスの内側。ガラスの上に書かれた文字。アキが降りたあとも残りつづけていた最後の言葉。
【written by MAYU】
ぼくがいまその文字列に直接向き合っていると言えば愚かにきこえるだろうか。だがぼくはそうは思わない。アキが死ぬ前に見ていたかもしれないものをこの目でも確かめたいと考えるのは普通のことだ。そしてすべての運命が数珠繋ぎのようになっているとすれば、これもまた必然のことのようにぼくは思う。自室のラップトップに映し出されたウィンドウ。そこには確かにアキが言った通りのことが書かれてあった。今の時刻は午後十時過ぎ。ぼくはまだ死んでいない、と思う。どうやら下に続く厖大な量のテキストを読み進めないかぎり命に別状はないらしい。少し安心した。とはいえ、マウスを握る指先は汗ばんでふるえている。
ぼくがどうやってここまで辿り着いたかといえば、実に簡単な方法だ。アキが通ったのと同じ道を使ったに過ぎない。アキが死んだと思われる日時に、ぼくのパソコンに一通のメールが届いていた。あとは言うまでもないだろう。普段のぼくなら絶対に踏まないほどそれは見え透いた罠だったけれど、失うものもなくなった今、文字通りアキの後を追いかけることについて躊躇はない。
画面上の名前を睨みつける。
MAYU。
おまえは何者だ。
ぼくを知っているのか。
アキを知っているのか。
アキを殺したのか。
ぼくを殺すのか。
「マユ…………」
不気味ですらある、なんの装飾も施されていない無味乾燥なページ。縮みきったスクロールバー。いたずらにしては量が多すぎる。明らかに異常。
ここにぼくの人生が、本当に書かれているのだろうか。
どんな?
あらためて言うのもなんだがぼくの人生など大して面白くもない。ドラマ性の欠片さえなかった。人並みに人間が好きで、人並みに人間が嫌いな、ただそれだけの平凡な高校生。誰が興味など持つだろうか。
確かに、昨日や今日のできごとは特筆に値するかもしれない。普通ではありえないような死に方を、アキがしてしまった――大切な幼馴染が。けれども、それが小説になるくらいなら、ぼくはその作者を人でなしと呼びながら、殺しに行くかもしれない。なぜって、こんな思いをすることの心が誰にわかるだろう? なくなった笑顔を思うにつけて感じるつらさを知っているか。耳の後ろでずっと流れつづけていたなつかしい旋律が不意に途切れてしまったようなむなしさに、名前をつけることはできない。たとえどんな書き方をしたとしても、それは人に対する冒涜になる。ぼくの個人的な体験はぼくだけのものであって、ほかの誰のものでもない。そう、これだけははじめに言っておきたかった。
人生を小説にするのは、不可能だ。
さあ。
心の準備はできている。
ぼくを殺してみろ。
ぼくを
……え?
そうか
ぼくは
ぼくは
――人は死ぬと、物語になる。
【SAMPLE "K", written by MAYU】
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