Another Imitation
「逃げろ!」
ぼくの声はもう涸れていた。しかしアキは、再三にも及ぶぼくの忠告にかかわらず、耳を貸そうとしないばかりか、まるで杭で固定されているかのように立ちぼうけ、背を向けたまま、掴んだ紙きれの束を手に、じっとしている。気のせいだろうか、その格好が、食い入るように、一心不乱に、手許のそれを読んでいるように見えるのは。加うるに、その後景で騒ぐ自然が、いつか見た劇場の書き割りにも似て、そこだけが周囲とは切り離された、異空間となっているように見えるのは――
ぼくはこのとき、自分がなぜアキのところまで走っていって、無理やり腕を引っ張っていかないのかと我ながら疑問に思った。なぜ芝居の観客のように、離れた位置から傍観することしかできないのかと。なぜ? 自分の身に危険が及ぶことを恐れたのだろうか。それともただ、突然の異変に驚くあまり、我を忘れて硬直していただけだろうか。あるいは……。
いずれにせよそう考えたとき、ぼくの足は一度目の落雷以降、初めてまともに動いた。だがそのときにはもう、なにもかも手遅れだったのかもしれない。駈け出そうとしたぼくの肩を、不意に何者かが後ろから掴む。振り向くと、そこに立っていたのは、実に意外な人物だった。
「爾在さん……? どうしてここに?」
背の高い、袈裟を着た、盲目の男は、何も言わず嵐の中へ進み出る。その大岩のような背中が、なにごとかを語っているように見えた。彼は――MAYUを開発した男なのである。彼がこの場に現れたのは、なにか意図あってのことにちがいなかった。もしかしたら爾在さんは、この事態に収拾をつけるつもりなのかもしれない。しかしそのときぼくは、唖然としつつも、彼の言葉を思い出し、瞬間的に理解していた、この状況を、誰が作り出したかということを。そう、彼は最初に忠告していた。MAYUについては、誰にも口外してはならないと……。
「ごめんなさい……。ぼくが……忠告を守らなかったから……」
今さら言っても詮方ないと知りつつも、思わず洩れたつぶやきだった。雨風を確かめるようにすっと伸ばされた爾在さんの手には、虚空が握りしめられていて、そこをうっすらとした灯台の明かりが横切っていく。
「やはり、宿命には抗えぬか。だが……」
「え……?」
ぼくの声を聞きつけたのか、爾在さんは一瞬だけ立ち止まり、ばたばたと袈裟の袖をひらめかせながら、己に言い聞かせるように口を開く。
「これは、私が背負わねばならない罪だ」
その声に人を責めるような調子はなく、その首は目の前にひろがる混沌を直に捉えている。アキがこちらに気づく様子はなく、まるで物語に魅入られてしまったようだった。辺りは暗く、残照も漁火もここには届かない。そんな中を、爾在さんは恐れもせず、鷹揚に闊歩してゆく。ぼくはその圧倒的な迫力に気圧されて、そこは危険だと、注意することもできずにいる。
「あなたは、いったい……」
「――一切は縁によって生じ縁によって滅するのみ」
彼は最後にそう言い残し、そのままアキのいる方へと向かう。なまじには信じられなかった。ぼくには踏み込めない領域へ、易々と飛び込んでいく彼の姿が。そこには一切の迷いがなかった。ぼくはただ、それを茫然と見守ることしかできないというのに――
アキは、落ちてくる紙きれに向かって、白樺のような腕をぴんと伸ばしているところだった。
まさにそのとき、天が発光する。狙い澄まされたような刹那の迅雷。暗闇を照らす稲妻は、アキの人差し指へと誘導され、物語の通りに、その身を焼き滅ぼす――はずだった。
――しゃらん……
爆撃のような動乱のさなかに、清らかな数珠の音が響きわたり、アキはそれを聞いてやっと夢から覚めたみたいに、はっとした様子で自分を引き離した男を見る。その口が何かことばを発しているのが確認されたが、内容までは伝わってこない。それは直後の衝撃があまりに大きかったからではなく、ぼく自身もがむしゃらに声を張り上げていたからだった。
次の瞬間、火薬を使ったかと思うような焦げ臭いにおいの中を、渡り鳥の死骸にも似た紙が舞う。ぼくは見た、アキをかばって雷(いかづち)を受け、昏い海の淵へと転落してゆく男の姿を。その映像こそ、ぼくが最後に見た爾在さんの生き様にほかならなかった。ぼくの意識はここで途切れる。目の前が次第にうっすらと白く書き換えられてゆき、全身が海鳴りに包まれていった。
ざああ……ざあああ……
ざあああ……
「そうですか……」
と、かりんは言って、しばらく黙り込む。ぼくや、その後ろで正座しているアキとユキにも即座に緊張が伝播して、広く荘厳な本堂内に、水を打ったような静寂がひろがっていた。遠くから鹿威しの乾いた音が染みわたるとともに、古い建具の合間を縫って冷たい風が入り込み、金箔を貼った天蓋の蔓をわずかに揺らしている、永遠とも思われる時。辺りは深閑としていて、豪奢な内陣の奥所(おくが)からぼくらを睥睨しているのは、おそらく阿弥陀如来像。ここ、養生院が、ちゃんと寺としての機能を備えていることを知ったのは、思えばこれが初めてだった。
だが、ここの主は、もういない。
ぼくはすべての事情を、この可憐な少女に話してしまった後だった。
「……すまない。これくらいしか、見つからなくて」
ぼくがポケットから取り出した爾在さんの数珠にも、かりんは興味を示さず、膝の上のねこをうつろな手つきで撫でている。表情こそ変わらないものの、その眼に輝きは戻らなかった。
「あの雷のあと、あたしたちもすぐ海の上を捜したんだけれど、本当に跡形もなかったのよ。ケイは海中に飛び込んでいたわ。だけど見つからなかった。小説の断片のほかには、何も……。そして海は驚くほどの平穏を取り戻していた……まるで何事も起こらなかったかのように」
アキが助け船を出すかたわらで、ユキは空気を読んでうつむいている。やっぱり本来無関係であるはずの、ユキを連れてくるべきではなかったのかもしれない。彼女もまさか、こんなに暗い話になるとは思っていなかっただろうから。
あれからぼくたちは話し合い、爾在さんの養子であるかりんに、どのような形で事実を告げるべきかと考えながら朝を待った。しかし結果は同じだ。まだ日も昇りきらないというのに、ぼくたちは揃いも揃って、沈んだ面持ちでここにいる。かりんがみずから口を開いてくれるのをぼくたちは神妙に待っていた。けれども、彼女はぼくたちなんかには目もくれないで、突然立ち上がったかと思いきや、小屋の外へ向かってふらふらと歩いていく。
「お、おい……どこ行く気だ?」
「用事を思い出しました。ああ、みなさんはもう帰ってもらって結構です。すみませんけど」
非常に素っ気ない機械的な返答だったが、それも心ここにあらずという感じで、どこか頼りなく見えるのは、おそらく気のせいではない。
「待てよ、用事ってなんのことだ?」
「枯山水を、今日はまだ描いていないんです。正午までに描ききらないと、また怒られてしまうので……」
そこには慌てて巻きつけた包帯のような一種の不器用さ、見るに堪えない痛ましさがあった。
「だけど、おまえ……」ぼくは言葉に詰まってしまう。「今日ぐらい、休んだって……」
「ケイ」と、アキが静かにたしなめる。「今はやっぱり……その……」
かりんはそんなぼくたちにまとめて感情のないまなざしを向け、とりわけ罪のないユキに長い一瞥を加えたあと、ねこを連れてそのまま姿を消してしまう。尾のように長引く陰惨な影。観音開きの扉が閉まると、外陣に取り残されたぼくたちの間には、なんとも言いようのない、不穏な空気が蔓延しだす。誰からともなくため息が洩れ、しかもそれを遮るものがない空気。
「まずいな……どうにかしないと……」
あらためて現状を認識し直す必要がある。あの様子では、かりんはまだとても事態を呑み込めるような状態にはない。いや、あんな小さな身体に向かって、いきなり天涯孤独の身の上を受け入れろなんて言うほうが、よっぽど理不尽にきまっているのだ。
「あの子、かなり無理しているみたいだったわ。ちょっと注意したほうがいいかもしれない。結構危ないところにいると思うから……」
「わかってる。とっさに判断を止めるぐらいだ。ああいうのは後がやばい。応急処置が必要なほど、傷口が深かったってことなんだから……。ああくそっ、苦手なんだよこういうの。人を傷つけるのには慣れてない」
するとアキが急に立ち上がり、ぼくに向かって頭を下げてきた。
「ごめん、ケイ、あたしのせいで……」
「何バカなこと言ってるんだ。アキは悪くないだろ。悪いのは……全部ぼくだ。ぼくの軽率な行動が原因で、爾在さんは死んだんだ。ぼくがあんな小説さえ読ませようとしなければ……」
「ケイ、それ以上は……」
アキが気遣わしげな視線をユキに向ける。その配慮がなければ、ぼくは危うく妹の前で口を滑らせてしまうところだった。ユキはそこまで繊細なほうではないが、直感はよく働く子だし、話に置いてけぼりにされているように見えて、実はいちばん瞬発力がある。だから彼女が口を開いたとき、この場でどういう問題が扱われているかは、すでに了解されているように思えた。
「ユキが行ってきてもいい?」
ぼくとアキは一緒にユキの殊勝な面差しを見つめ、しばらく考え込む。とはいえ、答えはどう見ても自明であった。今の状況で自由に動くことができるのは、ユキ以外にはいないのだ。
「できるか?」
「うん。ユキ、なぐさめるのうまいよ。任せて」
「ごめんねユキちゃん、こんなことに巻き込んじゃって」
ユキはぼくとアキを交互に見て、明るく気丈に振る舞った。
「いいよ。だって勝手についてきたいって言ったのはユキのほうだし、ユキだってケー兄やアキ姉の役に立ちたいもん。それにさっきの女の子、いっぱいかわいそうだったから」
「じゃあ悪いな。これを頼む」
ぼくは爾在さんの数珠をユキに託し、成り行きを天に任せることにする。かりんが向かったと思われる内庭の大まかな方向を伝えると、ユキはすぐうなずいてたったと走っていった。ユキにはきっと、誰とでも仲良くなれる気質がある。あとはうまくやってくれることを祈ろう。
しかしユキが抜けて二人になると、本堂の中は一段としんみりしてしまった。ぼくは仏教には明るくないが、極彩色の須弥壇に向き合って座し、中央で控えている観音菩薩像やその後景に描かれる曼荼羅を眺めていると、なんとなく悔悟の気持ちが湧いてくる。
爾在さんも、いつもこのようにして瞑想に耽っていたのだろうか。ぼくはなんだかあの人が、他人ではないような気がしてならない。インドふうの登高座には、経典と思しきサンスクリット語の書物らが広げられたままにしてあった。そこには畏れ多くて近づけないが。
「……立派になったね、ユキちゃん」
アキがくの字に膝を折って床板をさすり、母親のようにつぶやいた。ぼくらは幼少のみぎりから家族同然のつきあいをしている。アキやアキの両親は、ユキのことをよく世話してくれた。そのせいか、ユキの記憶のなかでは時々、自分の親とアキの親とがごっちゃになることがある。ぼくはそれを訂正したことがない。
「……ぼくは、妹を利用したんだ」
「やだわ、利用だなんて。あの子に失礼じゃないの」
口走った独り言は、しかし思いのほか大きく反響していた。
「あいつは勘がいいから、とっさに自分の立ち位置を理解して、期待に応えようとしたんだ。かりんと歳が近そうで、なおかつ唯一無関係だったから。そうしないと場違いになる。あいつはあいつなりに、居場所を求めて必死なんだよ。ぼくは今日、それを知ってて連れてきた」
「でも、そういうのは利用とは言わないんじゃないかしら。全然悪いことじゃないと思うわ」
「いや……見ただろ、あいつの顔を。まだ小学生だっていうのに、作り笑いなんて覚えてさ。あれはぼくらの力になりたいというより、なんだか苦痛から逃れようとしているみたいだった。その点では、あの二人はそっくりだ。ユキもきっと、ぼくらの話を聞きたくなかったんだよ。もっと早く気づくべきだった。ぼくがあそこまで追い込んだようなものだ」
するとアキはまた深いため息をついた。ここへ来てから、彼女は一気に歳を取った気がする。
「あなたっていつまでも子どもみたいなこと言ってるのね。おばかさん?」
「そしてきみは相変わらず手厳しい」
「どこが?」
「ふん」ぼくはアキが好きだと思った。「やっぱり寺は気分が滅入るな。これじゃあ本当に、葬式と変わりがない」
爾在さんの死体は上がらなかった。だから正確には行方不明ということになる。しかしあの落雷を直に受けて、生身の人間が無事でいられるとも思えない。
「ねえ、ケイ、それとさっきのことなんだけど……」
アキの視線が躊躇するように前机の香炉や菊花の上を泳ぎ、やがてぼくの目を見据えてくる。その時点で、彼女が次に何を言い出すかは大体察しがついていた。
「……あのとき、本当は、あたしが死ぬはずだったんだよね」
「だから違うって言ってるだろうが。自分が死んでいて同然みたいな言い方をするなよ、縁起でもない」
「でも、あのときの雷は普通じゃなかった。そうでしょう? まるで、あたしだけを殺すための派手な舞台装置みたいだった」
アキは存外はっきりとした口調で言い張っている。しかしその反面、自分の話す言葉への困惑を隠しきれない様子でもあった。
「それは……。けど、あれは事故だ。事故に意図なんてものはない」
「そうかな」と、思案顔を崩さない態度のアキ。「あれは本当に、事故だったのかな」
「どういうことだ?」
アキはきわめて率直に、面と向かって次のように発言した。
「だってケイ、あのときあたしを殺そうとしていなかった? ばーんって」
「……は?」ぼくは言葉を一挙に失い、閉口する。「いやいや、何を言い出すかと思えば……あんなの冗談にきまってるだろ。だいいち、冗談で人が殺せるわけがない――」
だがそこでぼくは思いとどまる。はたして本当にそうか。何か、見過ごされてはいないか。アキの意見にも一理あるかもしれない。普通あんなふうに突然竜巻が起こったり、落雷のあと急に鎮まったりすることなんて考えられないし、冗談にしてはあまりに出来すぎているのだ。あのまま爾在さんの助けが入らなかったら、アキの身がどうなっていたかは容易に想像がつく。ぼくの懸念はそこにあった。ぼくがアキに対して抱いてしまった密かなる殺意が天変地異を引き起こすにまで至った、というのは言い過ぎとしても、なんらかの無自覚な形でぼくがあの場に関与していた可能性を断乎否定できるほど、ぼくの身は清廉潔白だっただろうか。
人を殺す冗談。
人を殺す物語。
――事故と呪いは、紙一重なのだ。
そんな心の動きを感じ取ってか、アキは勝手に理解を進めているようだった。
「やっぱりか。うん、そうだと思っていたんだよね。あたし、本当に悪いことしたなあ……。あ、今のはただの確認だから、別に深い意味とかはないよ」
「おい、なんでそうなるんだよ。ちゃんと理由を話せ」
アキは記憶をたぐり寄せるように指を顎の上にのせ、天井を振り仰いでいる。
「あたしも、あの瞬間のことはほとんど思い出せないんだ。けど、遮二無二小説をかき集めようとしていたことは覚えてる。そこにあの男の人が入ってきて、あたしははっと我に返った。気づいたらあたしは紙を握りしめて立ちつくしていた。……それでね、そのときあたし、すごく不思議な感覚になったの。こう、まるで、夢を……ううん、夢に見られているみたいな……」
「夢に、見られている? ……自分が不思議ちゃんだからじゃなくて?」
「イラッ」笑顔に影が差していた。「……まあいいわ。うまく表現できないけれど、とにかく変わった体験だったの。あたしが持っていた小説が、逆にあたしを持ったというか、目の前の小説の中に、小説以外の全部があって、その中にあたしも含みこまれているというか、でもそれがあたしの目の前にある……そういう自覚? 的な何かが……」
「奔放な感性を持つのはいいが、おまえの言っている意味がさっぱりわからんぞ……」
アキ自身も話しながら目をぐるぐる回しているのだった。
「うーん、面目ない……。あ、そうだ! これを見てくれたらわかるんじゃないかな?」
何か一計を案じたらしく、アキはショルダーバッグの中身をごそごそとやっている。そして取り出したのは、マイメロディの柄がプリントされたピンクの可愛らしいクリアファイル。
「おまえなあ、こんなときにふざけてるんじゃねえよ。何がマイメロちゃんだよ。マイメロごときに何がわかる? 何もわかんねえよ」
「違うって!」と言いつつアキは赤面して、マイメロの中身を取り出すやいなやすぐしまう。「……これよ、これを見て」
ぼくは床の上に広げられたしわくちゃの紙きれを見て、思わず顔をしかめていた。
「なんだあ? このスライスボロ雑巾みたいな薄気味の悪い汚物は」
「あんたいい加減にしてよね。自分の作品でしょうが。もっと大切に扱わないと、いつか罰が当たるわよ。あと、マイメロちゃんをディスるのだけはこのあたしが許さないから」
自分の作品と言われても、ぼくにはピンとこなかった。それでもやはり、アキがこんな形になってまで原稿の一部を守り通してくれていたことは、ちょっとだけ嬉しい。
「そうだな、悪かった」とぼくは言った。「マイメロちゃん最高」
「あら、珍しく素直に反省するのね」
だって、罰はもう当たっているんだから、とまでは言えない。ぼくはミイラのように乾いてかさかさになった一枚のページを拾い上げた。まだ潮の香りが染みついていて、あのときの記憶が嫌でも心によみがえってくる。アキはこれを、文字通り命がけで死守してくれたのだった。その向こう見ずな判断が、悲劇につながってしまったわけだが。
「問題は中身よ」とアキは真剣な眼差しで言う。「ねえ、もう一度聞くけど、これってもう、データとか残ってないんだよね?」
「ないよ。あれだけだ。もっとも、こっちのほうには残っているかもしれないが、あんなものは処分されたほうがいい」
「そっか……じゃあ残ったのはこれだけだね」
アキはさらに数枚の紙を床の上に並べていた。その仕草が、不意に爾在さんのそれと重なる。かつて茶室の中で同じように紙を並べてみせられたときには、すべてが揃っていた。しかし今、目の前にあるものといえば、見るも無惨な姿である。ページ番号もばらばらで、規則性は皆無。折れ曲がっているものもあれば、破けているものもある。
「もう完全な状態ではないな」
ぼくはそう言ったあと、あれ、と首をかしげていた。前に、似たような台詞を聞いたような。
「なくなったものは仕方ないけれど、あたし、これを読んでて、思ったことがあったの。怒られるかもしれないけれど、言ってもいいかしら?」
「何だ?」
アキは言った。
「あたし、知ってる……この話」
「嘘つけ。全部オリジナルのはずだぞ」
「うーん……」アキはまだ考え込んでいる。「気のせいかな……」
「それともあれか? あらゆる作品は過去の作品からの影響の上に成り立っているのだから、独創性というものが相対的なものに過ぎないということが言いたいのか? アキはそういう話が好きだよな。アニマとかアニムスとか、集合的無意識とかペニス羨望とか」
「ペ、ペニ……っ!?」アキがくわっと目を見開き、身体を仰け反らせて、いきなりポケモンみたいに鳴いた。「な、なんであたしがそんなもの好きになるのよ! やらしいスケベっ!」
「おいおい、なに真っ赤になってんだよ。知らないのか? ペニス羨望っていうのはオイディプス・コンプレックスの一種で、れっきとした学問用語なんだぞ。倫理で習わなかったか?」
「知らないわよ、そんなエロ学問! もし知ってても、好きになることなんて一生ないわ! ましてや、それを羨望するだなんて……」
アキが口元を強張らせつつ、ぼくのズボンのあたりにちら、と視線を注ぐ。かと思いきや、次の瞬間にはあわあわと目をつむっている。何か意味を誤解しているようだった。
「まあ、それは悪かったな……。けど、ペニスって言ったぐらいでそんな過剰反応されるとは意外だった。まさかとは思うが、なんかトラウマでもあるのか? ペニスに対して……」
「うるさいのよペニスペニスって! あんたはペニスの商人か! そんな商魂たくましくなくていいから! これ以上あたしの貞操が汚れちゃったらどうするつもり!?」
やはり、アキの本分はリアクション芸人なのかもしれない……。今日はかりんやユキの手前、随分大人ぶって静かにしていたものだから、成長したと思っていたが……。
「ちょっと落ち着けよ。仏さまの御前だぞ。いちばんうるさくしてるのは誰だと思ってる」
「……はっ! や、やだ、あたしったら何言って……。い、今のなしっ!」
急に手をばたばたと振って慌て出す。ぼくはその女性的な仕草を舐めるように眺め回した。
「おまえ、なにかぼくに対して隠し事でもしているんじゃないか?」
ぎくり、と露骨な反応。
「し、してないしてない。あたし、まだ処女よ!」
「なぜ聞いてもいないことをぺらぺらと喋り出す?」
「それは、その、ケイがいきなり変なこと言うから……」
「じゃあひとつ質問してもいいかな?」
もはや本筋からは完全に外れていたが、これだけは訊いておかねば気が済まなかった。
「いま、付き合っている彼氏とかいるのか?」
「ど、どうでもいいでしょそんなこと!」
「どうでもいいことなのか? 違うだろ。いるのかいないのか、はっきり答えたらどうだ?」
ほとんど睨みつけるぐらいの勢いで強い眼差しを向けると、アキはうつむいて目を逸らし、それからゆっくりと、無言で首を横に振る。
「……本当か?」
「そうよ、あたしは」
「でも、前に好きな人がいるって言ってたよな」
「もうしつこいって。なんでそこまで知りたがるの。もしかして、ちょっと妬いてる?」
ああ、女という生き物はこれだから腹が立つ。問題をすり替えることにかけて女の右に出るものはいない。まあどっちもどっちだが、ユキがこの場にいなくて本当によかった。とてもじゃないが、こんな会話はぼくの妹には聞かせられない。
「そうだよ嫉妬だよ。悪いか。ここまで醜い嫉妬心を剥き出しにしているんだ。これで嘘でも吐かれていたら、男の体面がもたないぜ」
「そんなにはっきり言われるとかえって引くわね……」
「あと、様子が変だったから、ちょっと本気で心配になったんだよ。柄にもなく髪を染めたり、貞操がどうのと言い出したりさ。まあアキは結構かわいいから、男にも沢山もてるだろうな。だけど男の大半は悪いことをたくらんでいるもんだ。もし、誰かに乱暴されたとか、そういうことがあったんなら言えよ。ぼくがそいつをぶっ殺しに行ってやるから」
アキはしばらくきょとんとした顔になって、ぼくの顔を見つめていたが、ややあって、まるで杞憂といわんばかりに、ぷっと噴き出しはじめるのだった。
「なんだよ、何がおかしい?」
「だって、昨日まであんなに女々しくて、子どもっぽかったケイが、打って変わって急に男らしいこと言い出すんだもの。あーおかしい。おかしっくてたまらないわ」
「いいから笑うのをやめろよ。それで、実際のところどうなんだ? こうなったら一切合切、包みかくさず白状してもらうからな」
「やーねー。何もないわよ、本当に。あんまり話を重くするものだから、ちょっと喋りにくくなっちゃっただけ。でもありがと、ちゃんと心配してくれて」
なんだかぼくは敗北の屈辱に似た気分を味わっている。思わず立ち上がってそっぽを向く。上品なアキの微笑がまぶしくって、腹立たしいことこの上ない。だが拍子抜けかと思う一方、まだどこか釈然としない部分もあった。
「それじゃあさっき、口を滑らせていたのはなんだったんだ。あれはもはや演技とかそういうレベルではなかったぞ。てっきりぼくはもうアキが処女ではなくなってしまったのかと……」
「…………」
見ると、アキの表情が笑顔のまま固まっているではないか。
「おい、なんで黙り込むんだよ」
「あはあは」
「きもい」
「しゅーん……」
「しゅーんじゃない」
「しゅんっ! しゅんっ!」
女を捨てた動きだった。
「言いたくないならもういいよ。ユキたちの様子を見てくるから」
「ま、待って! なんか、急に態度が冷たくなってない? 誤解だって!」
「何が誤解だ。仮にそうだとしても、その誤解を解く努力を全然していないじゃないか」
アキは口をとがらせて、気恥ずかしそうに、両手の人差し指をつんつんと合わせている。
「……だって、変じゃない? ケイにこんなことを話すのって……。女の子の友達にも、打ち明けたことなんてないのに……」
「ふん、何を今さら。ぼくの保育園のアルバムには、アキの全裸写真だって載っているんだぞ」
「~~~~っ!」
立ち上がって自らの豊満な胸元を防衛しようとするアキ。だが逆にそれが身体のラインを強調させる形となっているのには、気づいていない様子だった。思えば昔よりずっと背が伸びて、腰回りなんかもすっかり実っている。ぼくは突然、こんな薄暗い小屋の中に若い男女が二人でいる、ということに対する激しい羞恥にめざめてしまった。仏さまの御前であろうがなんだろうが、邪念は起こりうるものなのだ。しかしながら、これ以上アキの私情に横入れするのは、彼女と同様、ぼく自身の尊厳を貶めることにもなりかねない。だから次で本当に最後にしようと、思いかけていた矢先だった。
「……わ、わかったわよ。特別だからね。でも、絶対誰にも言わないって約束してくれる?」
「ん? ああ、ぼくの口は固いから安心してくれ」
男には、疑いの視線をものともしない度胸が時には必要である。
「あと、お互いに隠し事はなしってことで、ケイもあたしに秘密を教えること。それでいいわ」
「待て、ぼくには秘密なんてないぜ?」と思わず口を挟んでいた。
「あるでしょう? まだあたしに内緒にしていることが。正直に打ち明けなさいよね」
アキが自分の足元にざっと目を落とす。そこに並んであるのは彼女の集めた白い断片。
「ああ、そういうことか……」
ぼくは了解した。アキはこの小説のストーリーについて知りたがっているのだ。そういえば彼女はさっき、これに関して奇妙な反応を示していた。第六感が告げるのだろうか、ここには手つかずのまま放置されている、一種の鉱脈がある。おそらくこの物語を掘り下げることは、なんらかの真実に接近することにほかならない。けれども、それは同時に危険に踏み込むことをも意味するのではないか。ぼくはそぞろに恐怖を感じた。現在アキが握っている情報量は、ぼくのより明らかに少ないはずなのに、自分と同じ筋道を立てようとしている彼女の思考が、おそろしくなってきたのである。
「……とにかく話せよ」
ぼくの言葉を合図にして、アキはおもむろに口を開いた。
「実はね、……夢なの」
「何が?」
「だから、あたし、夢の中で……」
「うん、悪いんだけど、理路整然と喋ってくれないか?」
アキは言葉をぐっと呑み込み、頭の中で考えるようなそぶりを見せ、それから訥々と話し始めた。
それを要約すれば次のようになる。
彼女の見る夢は、散漫としたものではなく、ストーリー仕立てになっているらしい。しかも多くの場合、ある日の夢の内容は、前の夜の続きになる。つまり彼女は、現実世界と夢の世界とで二重生活を送っており、それぞれ異なる名前と身体をもった、別の人間なのだそうだ。
そんな夢の世界の中に、毎晩出てくる男がいる。アキはいつしか夢の中で、その男と一緒に暮らしているという感覚になった。眠りにつくのが待ち遠しくなり、また会えると嬉しくなる。そうして夢の中での密通を、彼女は重ねてきたのだという。むろん目覚めたときにはあまりの不埒さゆえか、悶々としつつ、枕に顔を埋めずにはいられなくなってしまうらしいが。
「なんだ、そういうことか」ぼくはちょっぴり安堵していた。「よくある話だ。それはきっと、抑圧されたアキの性的衝動が男性の姿をとって現れたものにちがいない」
「それだけじゃないの」とアキは顔を赤らめながら語気を強める。「重要なのは、ここから先」
「まだ何か続きがあるのか? まさかとは思うが、その実在しない恋の相手と、最近になってこの現実の中でばったり出会った、なんて言い出したりはしないだろうな?」
「なんでわかるの!?」
「え……マジかよ!?」
お互いにびっくりしつつ、顔を見合わせる。
が、アキはさらに、驚くべきことを明かした。
「昨日……あたしを助けてくれた人が……もしかしたらそうなんじゃないかなって……」
「爾在さんが……?」頭がくらくらしていた。「え、じゃあなんだい、アキはあのおっさんと、実は夢の中で毎晩会っていたって言うのか? ということは爾在さんの正体は、抑圧されたアキの性的衝動だった……? いやいや、そんなわけがあるか」
「ケイ、なんか焦ってるよ、落ち着いて」
「ああ、ちょっと錯乱していた。しかし妙だな。最初はアキのペニス羨望から始まった話が、まさか爾在さんの件につながってくるとは……。おまえ、ああいうのがタイプだったのか? そりゃあ確かにかっこよかったし、ぼくがゲイか女だったら抱かれてもいいと思ったが……」
「いやあ……あはは……。どうなのかな……。あたしも一瞬だけしか顔を見られなかったから、あんまり確証はもてないんだけど……」
もはやアキは突っ込みを入れるのにも疲れたらしい。まあしかし、あの人が相手であれば、ぼくも素直に負けを認めようという気になれるし、そういうことにしておこう。それに加えて、ここにはなにか、爾在さんの行動の謎を読み解く上での、重要な鍵があるような気がする。
「だけどちょっと待てよ。仮にアキの夢の中ではそうだったのだとしても、爾在さんにとってはやっぱり赤の他人だったということになりはしないか。なぜって、夢というのはいつだって一方通行なんだから。まあ、二人が共通して同じ夢を見ていた、みたいな話はよく聞くけれど、それにしても、現実にそんな出来事が起こりうるとはとてもなあ……」
「そうなんだよね……。だけどやっぱりあたしには、あれがただの偶然だったとは思えないの。あたしがさっき言いたかったのは、その一方通行が、一方通行じゃなくなったということなの」
そうだった、ぼくらはもともとそういう話をしていて、アキはその体験のことを「夢に見られている」と表現していたのである。そのときは軽く受け流していたが、今思えば、それに近いような感覚、ぞくりとするような悪寒は、ぼくもあの最中に覚えていたのではなかったか? というのも、あの場で起こった出来事は、この世のあらゆる理不尽が煮詰められたような驚異だったし、まるでそれ自体が一箇の夢だったかのような、うすら寒い印象さえあるのだ。
「もっと詳しく聞かせてくれ。かりんのためにも、事の顛末ははっきりとさせておきたい」
問題はこうだ。そもそもなぜ、爾在さんは身を挺してアキをかばったのか? 二人が真に無関係であったなら、あそこで爾在さんが身代わりになる理由もなかったはずだし、だからこそ、彼の無償の行為は限りなく尊かったと、今までは勝手に解釈していたけれど。
ぼくは、現時点で三通りの可能性を考えている。
たとえばの話――夢の世界の中で、二人が本当に知り合いだったとすれば。
「夢の世界の中で――」アキは詩を書くみたいに目を閉じる。「あたしは一度、死んじゃった。雷を受けて……。その状況はふしぎなことに、あのときとほぼ一緒だったわ。だから昨日ね、嵐の中に立っていたとき、あたしはなんだか、起きているのに夢の舞台にいるみたいだった。頭がぽうっとしていて、あんな感じになるのは初めてだったよ。あたし、ほんとうにニーナになったのかなって、思ったぐらいだった。だって、あの人が目の前に現れてくれたんだもの。まるで奇蹟かなにかみたいに。ああ、もっとゆっくりお話ししてみたかったなあ……」
「ふーん……」
アキの目には、あの出来事はそんなふうに映っていたのか。夢の中で展開されていた場面と、現実の風景とが重なるような瞬間。そこには夢と現実の垣根を超越するような、深遠なる事象の交差点があったのかもしれない。ややメルヘンチックに過ぎるけれども、そう考えるならば、夢の中でしか知らない男の登場に関しても、確かにある程度筋は通っているように思われる。だから彼女は言ったのだ、本当はあたしが死ぬべきだったと――
では、そこに爾在さんが介入したことについては、どのように捉えるべきだろうか。ぼくの予想が当たっていれば、これはそんな二人だけの世界で完結されるような美談ではなかった。実はここまでの話の流れで、理解の邪魔になると思い、意図的に無視されてきたものがある。だがやはり結びついてしまう。
いま仮にその答えを出すとしよう。ここまでの話をすべて視野に入れたとき、ひとつのストーリーが見えてくる。爾在さんとアキと、それからぼくの、三角関係が。
「なあ、それは本当に、夢の中だったんだろうか」
アキが陶酔の余韻を断ち切るように目を開くなか、ぼくは話した。
「あのとき、爾在さんは確かぼくに向かってこう言ったんだ。これは自分が背負わねばならない罪だと。それから、宿命には抗えないとも言っていた。たった今、思い出したよ」
「どういう意味?」
「さあ」ぼくは首を振る。「けど、これだけは言い切れる。正しいのは次のうちどちらかだ。きみたちが出会った夢の世界が本当に実在するか、あるいはそれが、夢の中ではなかったか。そしておそらく、後者が正しい。結論から言って――」
一枚の紙を、ぽかんとしているアキに突きつけ言った。
「それは、小説の中の出来事だ」
理由はひとつ。たったいまアキの話したような内容が、この紙の中にも書かれてあるから。ここまでの話を聞いて、それに気づかないほうがおかしい。アキの見た夢は、ここにある小説、すなわちぼくがMAYUによって紡ぎ出した物語の内容と、不気味なほどに対応している。
「そっか……」とアキは大して驚きもせずつぶやいた。「じゃあやっぱり、何かあるんだね」
爾在さんがMAYUを開発した。
その実験の過程でぼくの小説が生まれた。
その小説はアキが見ていた夢の内容と同じだった。
その夢の中でアキが死ぬ。
そのアキの死が昨日現実になりかけた。
その現実の中でアキと引き替えに爾在さんが死んだ。
その爾在さんの死をきっかけに、ぼくはMAYUについて考えている……。
ちょうどそのとき、開き戸のほうから誰かが急いで駆け込んでくる。ぼくとアキは話を中断して、一斉にそちらを振り向いた。
「ケー兄、アキ姉、すぐに来てっ!」
ぜえぜえと肩で息をしている、ユキの姿がそこにある。かりんはいない。
「どうした、ユキ?」
「かりんちゃんが、かりんちゃんが……」
しどろもどろになっていて、真っ青な顔は、泣いているようにも見えた。同時に外から乾燥した風が入ってきて、アキがはっと息を呑む。
「このにおい……もしかして……」
寒さの中に、ぱちぱちと木材の爆ぜる音が聞こえた。
ぼくたち三人は外に出て、ユキの案内をたよりに青い芝生の上を走る。堂塔伽藍の風景は、悪くもすでに一変していた。庫裏につながる母屋から火の手が上がり、真昼の白い冬空の下を、どす黒い色をした煤や煙が漂っている。冗談ではない。非常事態だ。
「畜生、どうしてこんなことに……!」
消防隊を呼んだあと、吐き捨てるように嗟歎を洩らす。なぜ、こうなるまで気がつかなかったのだろうか。昨日、今日と災難続きで、ぼくはさすがに参ってしまった。すべてが悪い方向へ転がっている。かりんはあちこちに火をつけて回っているらしく、燃えている甍(いらか)は一箇所だけではない。ぼくらはなるべく屋内は避け、四辺を囲う最も大きな屋敷の外側に回り込み、かりんを捜しながら風上を目指している。
「ごめん、ユキ、なにもできなかった……余計なことしちゃった……」
ユキはユキで深く傷つき、憔悴しているみたいだった。辺りは黒い霧に覆われ、空襲を受けた村落のように火の粉が飛び交い、おまけに強い異臭が立ちこめている。この状況を見るに、あの後二人の間でなにがどうなってしまったのかは想像に難くない。
「なにか、嫌なこと言われたのか?」とぼくは確認する。
「うん……、わかんない。けど、ドロボーってゆわれた……」
「泥棒?」
ユキの白い肌や髪には汚れが目立ち、争ったような痕もあった。
「いのちの、ドロボーだって」
それは本来ぼくが一身に負うべき責め苦であろうに。
「そうか……いろいろ悪かったな……」
ぼくはユキの頑張りや厚情を疑うつもりは毛頭ない。ユキは最善を尽くしたはずだ。けれどもそれが仇になったか。ぼくはもっと、かりんの情緒不安定に配慮しておくべきだった、最初の感情の爆発は、ぼくが受け止めるようにしておくべきだった。人間には、やさしさすら刃になるときがあるものだ。たとえば昨日のぼくみたいに。
「後悔しても仕方ないわ。とにかく急ぎましょう」
口元に上着の裾をあてがいながらアキが言う。昨日とは違い、アキはここにいる誰よりも落ち着いている。敷地が広いぶん、逃げ遅れるということはないけれど、それだけかりんをつかまえるのに手間取っていた。そして建物の炎上はもはやとどまるところを知らず、風に煽られみるみる火勢を増していく。焼け落ちた柱廊、荒れ果てた枯山水。そこに転がるねこの死体。
「ケー兄、あそこ!」
ユキが指差した場所は、以前ぼくが寝泊まりしていた離れの小屋で、外から見ると多宝塔(たほうとう)の造りになっている。そこにはまだ火がついていない。だがその青白い二層塔婆のてっぺんに、かりんは登っていた。ところどころ破けた衣服を身にまといつつ。
「……なんすかみなさん、お揃いで。わたし、言いましたよね、もう帰っていただきたいと。そこにいる小賢しい雌豚ともども、お引き取りやがってくださいと。邪魔しねーでくださいよ。これだから人は嫌いなんです」
心ない暴言に、ユキが怯えたように身を引きつらせる。ぼくは怒りに駆られてしまったが、怒っていい身の上なのかもわからず、多宝塔の屋根の下から、声を張り上げることしかできない。
「血迷ったか、それとも気でも狂ったか。ふてくされるにも程がある。こんなことをしても誰も得しないぞ。大切な居場所なんじゃなかったのか? 自分を大事にしろ。どういうつもりだ、説明しろ! さあ、早く下りてこい!」
とは言ったものの、一体どうやって下ろしたらいいか見当もつかなかった。ここは付近の物から隔絶されているため火の手は迫ってこれないが、それゆえ八方塞がりなのだ。いや、あそこまで登れたのだから、手段があるにちがいない。きっと、はしごか何かを使ったのだろう。そんななか、かりんはぼくの話に聞く耳を持たず、屋根から突き出した支柱にすがり、自分が火をつけてきた屋敷が燃え上がる光景を目に入れ、それを楽しんでいるようだった。こんじきのおさげの髪が、風の中になびいている。
「いいんですよ、もうわたしには、居場所なんてありませんから。それと勘違いされてるようですけど、先生は、自分の身にもしものことがあった場合、このようにしろと言ってたんです。やるべきことはやりました。ですから、わたしは先生の後を追います」
まさか、かりんはこの高さから飛び降りるつもりなのか。目測にして軽く十メートルはありそうだった。十メートルといえば学校の三階相当だ。見るからに虚弱体質なかりんが落ちれば、怪我では済まされない可能性もある。
「かりんちゃん、お願い、早まらないで! そんなこと、お父さんはきっと望んでいないわ!」
アキが叫ぶと、かりんは鳶いろの双眸をきっと見開いてぼくらのことを罵倒した。
「あなたがたに何がわかるんですか。先生やわたしの、いったい何がわかるんですか。どの口がそのようなことを喋るのか、わたしは理解に苦しみます。あなたがたさえいなければ、先生はこの世を去らずに済んだものを……! 先生を殺したのは、あなたがたじゃないですか!」
ぼくは言葉に詰まってしまった。高くて手が出せないことももどかしい。はしごを探してぼくは裏側へ回り込んだ。はしごは落とされている。月桂樹の茂みの中に。
「……ユキが行く」
思わぬ名乗りにぼくはとまどった。いつのまにかユキが背後からぼくを見ている。
「いや、おまえは高いところが苦手だったろ。危ないからぼくが行くよ」
「でも……」
自分の胸をひしと掴んで主張するその眼差しには、引き受けた役目を完遂しようという強い意志がこめられていた。しかし兄としてここは譲れない。
「いいから。そのかわり、アキと二人ではしごを押さえておいてくれ」
「わかったわ」
うなずくアキのかたわらで、しぶしぶ引き下がるユキを尻目に、ぼくは多宝塔の張り出した屋根にはしごを引っかけ、その感触を確かめている。それを見てかりんは鼻白んだ。どうやらぼくらのチームワークがおもしろくないらしい。
「そうやってのこのこ登ってくるのを、わたしが黙って見てるとでも思ってんのですか。甘く見られたもんですね。一応忠告しておきますけど、今のわたしは何をするかわかりませんよ」
ただのはったりかと思いきや、そこにある絶望は本物だった。というより、ほとんど理性のない怪物と化してしまっている。このはしごはただのはしごではない。彼女が再び人の世界に戻ってくるための、最後の駆け引きなのだ。
「それじゃあひとつ賭けといこうか。ぼくがそこまで行けたらこっちの勝ちだ。そのときは、おとなしく言うことを聞いてもらうからな」
「残念ですね、もう少し、物分りのいい方だと思っていたんですが……本当にどうなっても知りませんよ? わたし、責任取りませんからね? 他人のために気を遣うのは嫌いなんです」
「はん、やってみるがいいさ。できるもんならな。だがそのときは、おまえの弱さの負けだ」
「勝手に言っとけばいいんです」
口ではそう言いつつも、かりんはどこか助けが来るのを、待っているように見える。そうでなければ、こんな自分自身を人質に取るような愚行は犯すまい。なのでぼくは比較的余裕をもって、はしごを上り始めていた。
「ケー兄……怪我しないでね」
「大丈夫よ、もし落っこちてきたら、あたしがこの胸に受け止めたげる」
下から二人の声が聞こえる。
「それはそれでいいかもな」
軽口を叩きつつ頭上を振り仰ぐと、片足ではしごの先を踏みつけながら、嗜虐的な表情でこちらを見下ろしている、かりんと目と目がぶつかり合った。けれども、彼女自身はまだ気づいていないのだろうか、その足がこころなし震えていることに。
「……愚直ですね。今のあなたの格好、わたしからどんなふうに見えると思いますか? 滑稽ですよ、ものすごく。まさに下民といった風情です。うつけ者はこっちへ来ないでください。それ以上近づいてきたら、落としますよ」
「ふむ、それは困るな」
すでに一層目の屋根は軽々と越えていた。あと半分。ここへ来て、かりんの態度には露骨な嫌悪と侮蔑、それからほとんど恐怖に近い困惑が見え隠れしはじめている。おそらくそれは、ぼくという人間の姿の中に、自分自身の面影を見出しているからだろうが。
「なぜ、笑っていられるんですか? まだ自分の境遇を理解していないみたいですね。はしごを外されるかもしれないんですよ? そしたら唯一の支えを失って、地面へ転落するんです。それがどんなにつらいことだか、あなたはご存知ないんですか?」
ああ、知ってるよ、だから人は、自分と同じ傷を他者に負わせようとするんだ。そうやって暴力が繰り返されていく。かりんがぼくを突き放すかどうかは、正直半々だと思っていた。だがこのときぼくは不思議な気持ちになり、なぜかこう感じさせられたのである。彼女になら、たとえ暴力を行使されたとしても構わないと。だからぼくは、にやりと笑いながら言い放った。
「どうでもいいけどさ、かりんって、ぱんつ穿かない主義なのか?」
「なっ……!」
効果はてきめんだったようだ。虚を衝かれたためか、後ろにひっくり返り、しりもちをついている。ぼくはその隙にスピードを上げ、一気にてっぺんまで到達した。屋根は古びた青銅でできていて、広さは四畳半程度だが、四隅が微妙に反り上がり、平たいピラミッドのような形をしている。はじめに目に入ったのは、眼下で赤々と燃えている広大な屋敷の全貌だった。それを背景に、悔しそうに歯を食いしばっているかりんが、真正面でぺたんと座りこんでいる。ぼくはまだはしごに足をかけていたので、不覚にも上から這うような体勢になった。
「よう」
つとめて鷹揚に声をかけると、かりんは腰を抜かしたまま、ぼくの影の下から逃れるようにじりじりと後退していく。そばから見ると、火の熱で破けたドレスの具合がひどく、肩やら脚がほとんど露出されていて、まるで自分が暴漢になったかのようだった。
「あ、あなたという人はっ……! なんという……なんというっ!」
立ち上がって体勢を整えると同時に、舌足らずな罵声が飛んでくる。
「恥辱を感じたか? それが本心だよ。大事なものがまだあるという証拠さ。自暴自棄になるには早すぎるんじゃないか? 人に向かって、かなしいことを言うもんじゃないぜ」
「みっ、見本さんには、関係のないことじゃないですかっ……! それともなんですか、嫌がらせのつもりですか? そうですよね、わたしが一人になった途端に大勢でやってきて、幸せそうな関係を見せびらかすんですから、どうせわたしのことをせせら笑ってたんでしょう!」
闇雲に声を張る一方で、その姿はどこか果敢なく、おさえていたものが決壊するのを、ぎりぎりのところで防ぎ止めているようにも見えた。下を向くと、ユキとアキが固唾を呑んでぼくらの様子を見守ってくれているのを感じる。そんななか、ぼくは一呼吸おいてこう言った。
「なあ、もうわかってるんだろう? ぼくをここまで来させたのは、かりんの中に残っている良心や、そういうものの力だよ。おまえは最後まではしごを外さなかったな。それは誰よりもかりん自身が、助けを望んでいたからだ。少しは素直になるといい。おまえだって本当はどうしようもなくやさしい心をもってしまった、弱い人間なんだから」
「ほっといてくださいよ! わたしは……わたしは……もう取り返しのつかないことをいくつもやってしまったんです! 今さら説教なんて聞きたくありませんっ!」
「馬鹿者!」
あらん限りの声で叫ぶと、かりんは心底怯えたように身をすくみ上がらせていた。ちょっとやりすぎたかもしれない。けれども、今の彼女には少しばかり灸を据える必要がある、と考えるのは傲慢だろうか。とにかくぼくは、ひらひらと手を振って次のように続けていた。
「……って、あのおっさんなら怒鳴るんじゃないかと思ったんだよ。気にすんな。ぼくは臭い説教なんてするつもりで来たんじゃない。ていうか、実はほとんど考えなしに来てしまった。まあとりあえず座ろうぜ。景色でも見て落ち着こう」
すると、極度の緊張がほどけたせいか、かりんが思わぬ反応を見せる。いまだ動悸も収まりやらぬ形相でぼくの顔を凝視している彼女なのだが、次の瞬間、ぴくんと脈打つような痙攣が、その小さな体躯の隅々にわたって認められた。ままあって、しどけない吐息とともに、ドレスのスカートあたりから光り輝く不思議な液体が滲み出て、屋根の稜線をつたっていく――
「あ、あ、あ……」
おそらく意思とは関係のない不運であり、それを止めようと必死になるものの、どうしても制御不能な肉体の正直さがそこにあった。みるみる顔が羞恥に染まり、自分の弱さを明らかにして、彼女は非難の矛先をぼくに向ける。
「く、くぅぅ……、死んでください死んでください死んでください死んでください死んでください死んでください死んでください死んでください死んでください死んでくださいっ……! 見本さんごときに、見本さんごときにっ……! くっ、なぜ、こんなっ……!」
だがぼくの目にはそれが、きわめて情感豊かな女の子の姿に映る。なにしろ彼女はどう見たって十代前半、それも身体機能の未成熟な子どもなのだ。失禁の一回や二回、かわいらしいものではあるまいか。仮に多宝塔の屋根の上で漏らしたとしても、なんら不都合はないのである。そういうわけで、ぼくは精一杯のフォローを入れた。
「安心しろ、ぼくはそういうことは妹で慣れているから、別になんとも思わない。それに、あのキリストも今際の際には漏らしたらしいぜ。後にこんな学説が唱えられたぐらいだ。罪なくして刑罰を受けた若者の尿は洗礼の水であり、聖油であり、新たな生命を汲み出す源泉となる」
「…………」
かりんは恨みがましい眼差しをぼくに注いだだけで、それ以降しばらく口を開かなかった。この件については内緒にしておこう。幸いにも、ユキやアキには見られていない。彼女たちはいま、サイレンの唸りを聞いて、駆けつけてきた消火隊を引き入れるために走り回っている。かつては物静かだった風景がにわかに騒がしくなり、仕事をする多くの人々の姿が見られた。目の前で怒号が飛び交い、放水が伽藍の形を崩していく。そしてぼくらは自然と屋根のへりに腰かけてそれを見ていた。あの二人が戻ってくるまでは迂闊に下りることもできない。
「そろそろ落ち着いたか」
ぼくが訊ねると、かりんは少し間をあけて、しんみりと口にした。
「疲れてしまいました」
彼女はもう、あらゆる余力を使い果たして、ぼくを拒む元気すら失せてしまったらしいが、そのためかいくぶん大人しくなり、冷静さを取り戻している。逆に辺りの目まぐるしい喧噪は、もはやぼくらの手に負えるところにはなかった。
「本当に、これでよかったのかい」
かりんはぼくの隣で、所在なげに下ろした脚をぶらぶらとさせている。
「……忘れてしまいたかったのです。どのみち一人では、わたしはもう暮らしていけません。ここには思い出が多すぎます。わたし、思い出なんて作りたくなかったのに」
「どうするんだ、これからは」
「知りません」彼女は大空に遠い目を向けて言った。「すべて、終わってしまいました」
不意に抱きしめてやりたい気持ちに駆られる。いま、自分の目の前で傷だらけになっているこの身体を。だがそれを躊躇させるのは、ぼくの中にある負い目の意識だった。今回の件については、ぼくにも責任の一端がある。それをどうして、気安く慰めることなどできようか。
「でも、見ろよこの景色を。なんだか妙に清々しくて、かえって活力が湧いてこないか。生きようという気にならないか」
ある意味壮観な火事現場。黒煙を噴き上げる館の残骸は沈みゆく軍艦のようであり、陽炎の中にゆらめいているのは、雪の冠をかぶった、遥か向こうの山の影。それらに向かって両腕を広げてみせるぼくを見て、かりんは弱々しく微笑み、散漫なため息を吐いた。
「それは他人事だからでは?」
「そうかな。もうぼくらは他人なんかじゃないと思うが。なあ、聞かせてくれよ。ぼくはかりんのことを知りたい。かりんがここでどんなふうに暮らしていたか、興味あるんだ」
彼女はまんざらでもない様子でおもむろに口を開き、瓦礫の山をひとつひとつ指しながら、ぼくに説明してくれる。
「わたしが寝起きしていた場所は、あのあたりにありました。毎朝起きたらいちばんはじめに、鐘楼を鳴らしに行くんです。それから庫裏で食事の支度をしたり、枯山水を描き直したりと、決められた雑事を午前中に終えねばなりません。午後からはしばらく自由時間が与えられます。ときどき先生に勉強を教えてもらうこともありました。わたし、もの覚えがとてもよくって、いつも先生に……、いつも、先生に……」
声に嗚咽が混じりはじめる。見ると、目元に真珠のような潤いが与えられていた。かりんはそれを大事にためるだけためて、一粒もこぼそうとはしない。
「……幸せだったんだな」
その幸せを壊してしまったのは、このぼくだ。元をただせば、ぼくらが海に行かなければ、爾在さんがアキの身代わりになることもなかった。さらに経緯を遡れば、すべてはぼくが〈繭〉という装置で小説を書いたことに帰因しているとも言える。……もちろんこれは結果論だが、だからといってぼくの罪が消えるわけでもない。ぼくは〈繭〉に入るべきではなかったのだ。人を殺す小説を書いてしまうぐらいなら。
「わたし、MAYUの実験には反対だったんです。話素の研究には危険が伴うという話でした。もしかしたらこうなることを予想していたのかもしれません。わたしも覚悟はしていました。でも、やっぱり納得できません。なぜ、先生はわたしを置いていってしまったんでしょうか」
ぼくは言葉に窮してしまった。かりんはおそらく、論理的な説明を求めているのではない。ただただ悲しくて悔しくて、どうしようもないのだろう。きっと屋敷に火をつけて回っていたとき、心の中では、爾在さんが自分を止めに帰ってきてくれるのを待っていたのではないか。だがそんな苦悩だけを残して、一切はあの〈繭〉もろとも、瓦礫の下に埋もれてしまった。
「……ぼくはあのとき、何もできなかった。責めたいならぼくを責めるといい。だけど、もし、それでもぼくを信じてくれる気があるなら、けじめとして、いまぼくにひとつの考えがある」
ぼくは立ち上がって中央の支柱に片手をおき、もう片方の手を差し伸ばす。きょとんとした顔で振り返ってくるかりんに向かって。
「家に来いよ」
「は……?」
「ないんだろ、行くところ」
かりんは目をまるくして、ぼくの姿を上から下までまじまじと凝視していた。まるで、ぼくの存在がたったいま自分の前に現れたとでも言うように。
「で、ですが……」
そろそろと無意識に伸ばしかけた手を引っ込めて、胸の前で固く握り合わせる仕草からは、明らかな周章狼狽が見て取られる。躊躇するように一度背後を振り向いてから、またぼくの顔を確かめてくるのだが、その口は鯉のように開くだけで、二の句も継げないでいるのだった。
「もちろん無理にとは言わない。ここと較べて家は狭いし、部屋も少ないからな。けど、とりあえず今日だけは泊まっていけよ。ゆっくり休んで、決めるのはそれからでも遅くないだろ」
かりんは警戒心を露にしつつ、遠慮がちに首をひっこめ、慎重な上目遣いでぼくを見つめる。目の前の人間が信用に足る相手かどうか、測りかねている様子。
「……なぜです? わたし、嫌われたとばかり思っていたのに……」
「ユキのことか? それなら全く心配いらない。細かいことは気にしないやつだし、ぼくからうまく話しておくよ。いいから立て。四の五の言うな」
考えるべきことはまだあるが、ここでは決断する勇気だけが必要とされた。このときほど赤裸々な気持ちが彼女の瞳に宿されていた瞬間はない。そこにあるのは毒気を抜かれた、ただの等身大の少女であった。まだ尻込みしているものの、命令口調で言われたためか、彼女はそこでようやく抵抗を振り切り、立ち上がる意思を見せる。互いに熱い視線を交わし、思わず頬を緩める一瞬。だがそのとき、ふっと気が抜けたせいか、かりんの身体が前後によろめき、とんとんとステップを踏んだ。そのまま呆気なく体勢を崩し、もつれた足が屋根の端をかする。
「危ない!」
「ひゃあっ――」
真っ逆さまに転落していこうとする直前、かりんは蒼白な顔面を恐怖に引きつらせ、声にならない悲鳴を発した。もがくような腕の一掻き。ぼくはそれを見るなり即座に飛び込んでいた。だが、間に合わない。いや、本気を出せば助けられる。ぼくらは空中で手を取り合い、風の中でワルツを踊るような格好になった。肉体を置き去りにして、魂だけ飛び出したような浮遊感。どのくらいの静止があったかわからない。だがふわりと扇のように舞う髪がぼくの頬を撫でたときすでに、そこにあるべき足場は見失われていた。
ぼくは胸の中にかりんの頭をしっかりと押し込め、遠ざかりつつある天空を仰ぐ。ああ、落ちる。そう思ったのも束の間で、太陽の眩しさに目がくらみ、すべての物音が消し去られて、あとには何も感じなくなった。息をするのもすっかり忘れて、今までにない距離まで接近している自分たち自身のほかには。……
……気がつくと、いつのまにかぼくの背中を包みこんでいたのは、想像よりもやわらかい、母の二の腕のような感触だった。次の瞬間には襲いかかってくるであろう激痛を覚悟して固く目をつむっていたぼくだが、あまりにも平穏な夢見心地が続くので、かえって拍子抜けしてしまったほどである。
目を開けてみると、視界の半分を占めているのはさっきまでの自分が登りつめていたところの多宝塔の屋根と思われ、ボスン、という音が遅れて思い出されたのはそのときだった。これには狐につままれたような気分にならないほうがおかしい。一体何が起こったのだろうか。
「やーやー、危なかった危なかった。ギリギリセーフってところかしら」
「ケー兄っ! だだだ大丈夫!? け、怪我はっ? どっか痛いところない?」
ユキが真っ先に駈け寄って顔を覗き込んでくる。アキの立っている姿もあった。辺りを探ると、やはりふかふかしたものが手に触れる。ぼくらが乗っているのは地面ではなく、白くて分厚いマットの上だったのだ。どうやらこれがクッションになって、衝撃を免れていたらしい。
「……これは?」
「万が一のためにって、ユキちゃんが消防隊の人に言って、マットを貸し出してもらったのよ。転ばぬ杖に祟りなし……じゃなくてなんだっけ。とにかくよかったわ、二人とも無事そうで」
「ユキが……?」
そういえばかりんが失禁したあたりから、地上にいる二人の動向については気に留めていなかったかもしれない。まさかそこまで手を回してくれていたとは。
「なんだ、ぼくはてっきり……アキのセーフティーおっぱいに守られたのかと……」
「……頭でも打ったの?」
「いや、この通り。そうかあ、ユキのおかげだったのか。サンキュな、助かったよ」
ユキはもうぼくの肩にすがりついて耳元でわんわんと泣き出していた。
「ケー兄ぃぃぃ……、うううっ、もぉ……ユキの心臓止まっちゃうかと思ったぁ……。ケー兄に何かあったらどうしようって……」
「ははは、まったくユキは根っからの心配性だな。そんなんじゃ太らないぞ」
「そんなのケー兄が無茶ばっかりするからでしょっ! もうケー兄はバカンボーなんだから、危ないことするの禁止っ!」
お叱りを受けたところで、ぼくは自分の胸板の上に貼りついてもぞもぞしている、くすぐったい金髪少女に目を向ける。
「……で、おまえはいつまで気絶しているふりをしているんだ?」
「ちっ、ばれてしまいましたか」
全員の注目を集めながらも、かりんは我関せずといった様子で、まだぼくの身体に抱きついたままだった。おかげさまでユキとかりんの頭が両側にあることになり、火の気に混じって雌の匂いをむんむんと感じる。ある意味幸福なことではあるが、これでは起き上がろうにも起き上がれない。まだ悠長にしていられる場合ではないのに。
「立てるんだろ?」
「まだ、あまり……」
「あまりってなんだよ」
釣鐘型のスカートが乱れているのも気にせずに、かりんはどこか陶然とした口調で言った、両脚でぼくの腰を挟み込みながら。
「落ちてしまったんですね、わたし、あっという間に」
「ああ、最悪だ、死ぬかと思った」
「もう一回、落ちに行きませんか?」
「何考えてんだお前……」
余韻に入り浸るように頬をぼくの胸板に埋めているかりんは、自分が落ちた瞬間から一歩も時が動いていないようにも見えた。それぐらい惑溺している様子。ぎゅっ、と渾身の力を腕にこめるのは、もう少しこのままでいたい、という切なる意思表示なのかもしれない。
「わたし、高いところ結構好きかもしれません。思ったほど怖くはありませんでした。でも、まだ胸がどきどきしています……重いですか?」
「いや……ただちょっと恥ずかしい」
すると、かりんは退く気配を見せるどころか、大胆にも密着させた全身をさらにきつく締めつけてくるのだった。そうして吸血鬼のごとく耳元に顔を近づけ、ぼくにだけ聞こえるような声の大きさでこう囁いてくる。
「恥ずかしいところは、全部見られてしまいましたし……」
その吐息は熱くもあり、また甘くもある。だがぼくとしては、いつまでも二人の面前でこのようにもつれ合っているのはさすがに憚られていた。というのもすでにユキやアキはこの空気を察知して若干引き気味になっているのだ。
「……おまえ、そんなキャラだったか?」
「だってこんなの、戻れないじゃないですか……。落ちたとしても、下支えがあるなんてことを知ってしまったらもう……」
「なぜ淫蕩な目でぼくを見る」
「ですから、ツンデレなどではありませんと何度言ったらわかるんですか? これだから男性というのは……」
かりんはぼくの頭の両側に手をついて、顔よりも先に腰を上げているのだが、蕩けたような面差しと、舌なめずりするその仕草は女豹のそれを思わせる。火事場というのもあるのだろう、炎は人の暗部を照らし出す。そこへタイミングよくアキが水を差してくれなかったら、危うくぼくも豹変していたかもわからなかった。が、ぱんぱんと手を打つ音ではっとして我に返る。
「あのう……、なんだかユキちゃんがご立腹の様子なのだけれど……」
「むぅ……なんかサベツテキ……。ケー兄たち二人だけ勝手に仲良くなってて……」
確かにそのようだった。今ユキにへそを曲げられてしまっては困るのだが、彼女へのフォローが後手に回っていることについてはぼくも自覚しているし、物事に優先順序があるとはいえ、なかなか先が思いやられる。この不服そうな膨れ面を見るかぎり、ユキとしては頑張った自分をもっと認めてほしいのかもしれないし、それを横取りされたと感じているのかもしれない。ここはやはり体勢を立て直しておくべきだろう。
状況の確認も兼ねて、その後ぼくらは四人がかりでマットを運んでいくことになった。時刻は二時を回っているが、建物の延焼が思ったよりひどく、鎮火する気配は一向に見られない。風下に向かうにつれて危険度が増し、本堂のほうへはもはや近寄れそうにもなかった。けほけほとユキがせきをする。頭上にはヘリ。消防車の数も増えてきて、少なくとも十台が炎に包まれた敷地の内外を移動している模様。今まさに放水が行われている最中で、各所からメキメキと建材の崩れる音が鳴り響く。その光景を目に焼き付けるぼくたちは、しまいにはおそろしいという感覚も忘れ、刻一刻と失われてゆく財産についての、奇妙な一体感を得ていた。
鐘楼の付近まで進んだところで、ぴりぴりしとた雰囲気の隊員が駈け寄ってきて、まだ避難していなかったのかと厳しい口調で咎められる。代表者のふりをしてぼくが話を聞いたが、撤収は夜まで伸びるだろうということだった。そのままぼくらは指示に従い、狼煙のように巻き上がる灰を背にして、裏門から築地(ついじ)の外に出ることになる。
「……どうも、ご迷惑をおかけしました。わたしにはもう、気遣いは無用です」
ぼくが目で促すと、二人に向かって頭を下げた。目の前は墓石や碑文の立ち並ぶ霊園になっていて、桜の木が裸になって辺り一帯を囲んでいる。
もう少しましな言い方はないのかと口を挟みたくなるがそっと見守ることにする。が、彼女はつくづく人の心の裏を掻くことをしたがるのだった。
「本当にもう大丈夫なの?」
「ええ」
心配そうな口ぶりのアキに対して、かりんは隣に立つぼくの腕を唐突に組み、
「わたし、この人の妹になりますから」
と言った。
「……うん?」
「いっ、いもーとぉぉ~~~っ!?」
盛大に口を開けて絶叫するユキを尻目に、かりんはにへらと不敵に笑って、悪乗りするような態度に出だす。上目遣いにぼくを見ながら、憎らしくも媚びるような声色を使う。
「……ね、お兄ちゃん?」
「お、おお……」
有無をも言わせぬ破壊力。
「け、ケー兄、それってどうゆうことかな……ユキが妹なんだけど……」
「いえ、わたしが妹です」
「おまえら話をややこしくするな……」
二人の視線がぶつかり合い、ばちばちと火花を散らす。予想の斜め上を行く展開だった。
「だって聞いてたのと違う! ケー兄はユキだけが妹じゃなくってもいいの? 妹だったら誰でもいいの? ユキはやだっ! 絶対やだっ! ケー兄はユキだけのものだしっ!」
「はぁ……? 何をムキになってんのですか。それは大きな間違いですよ。実はわたし、本来の名前を見本かりんといって、ここにいるお兄ちゃんの生き別れの妹なんです」
一同呆気にとられる。
「……そうなの?」とアキ。
「いやいや……」
確かにかりんを家で預かることについては許可したし、それはあらかじめ考えられることだったから、昨日のうちにユキにも少し話しておいたところだが、妹だったなんてことは一言も聞いていない。まあそれはただのこけおどしに過ぎないとしても、まさかいきなりこんな修羅場になることを誰が想定できたであろうか。化けの皮でも剥がれたように、二人は早速いがみ合いをはじめてしまった。奇妙な縄張り意識からか、ユキは怒って腕をぶんぶんと振り回し、かりんに向かって「いーーっ」とやるし、かりんはかりんで輪をかけて尊大になり、顎を突き出してユキの主張を挑発的に受け流す始末。その渦中にいるぼくは頭を抱えずにはおれないが、一方でアキはそんな様子を遠目に見ながら、ぽつりとこうつぶやいていた。
「なんだかケイがうらやましいわ、モテモテで。ひょっとすると人生に三度訪れるというあの時期の、最後の波が来たんじゃない?」
「この状況を見てよくもそんなことが言えるな。だいたい、なんで最後だってわかるんだよ」
「あら、だって一回目は保育園のときでしょう? 二回目は中学のときじゃなかったかしら。冬、冬、冬と続いて、まるでジンクスでもあるみたいなのね。うふふ」
どんな時でも人間の関心事といったらこれだ。アキが何を指しているのか知らないが、他人の醜聞にばかり首を突っ込むのはどうかと思う。
「ノーカンにしてくれないか。これが最後だとしたら遺憾だ。北欧神話じゃないが、終末の日が近いような気がするから」
「でも、ちょっとかっこよかったよ」
ぼくはしばし唖然としつつも、アキの瞳に疑り深い眼差しを送った。こういうとき、彼女はいつも冗談めかした態度をとるので、決して本気にしてはならない。一方で、そうこうしている間にも妹組の二人の対決は災禍をきわめ、フレイとスルトのような熾烈さを帯びてきていた。ので、ぼくは少々やけくそ気味にその争いの渦中へ飛び込んでいくなり、かりんを引っ張っていって念のため釘を刺しておく。これ以上ユキを苛めると、あのことをばらしてやるぞと――その後も一悶着はあったが、彼女たちは一応の休戦を見ることになる。これで全て一件落着と言うわけにはいかない。そのほかにも整理せねばならない問題がまだまだ山のようにあって、むしろようやく振り出しに戻ったようなものだ。
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