Side story -Happy Valentine-
バレンタインの準備だなあ、と思った。
妹たちが、手作りチョコの製作をしている。なにしろ二月ももう半ばなのだ。女の子という生き物は、この時期になると異様に活発になる。うちの家庭も例外ではない。キッチンはガチャガチャしているし、テレビには外国為替チャートが映されているし、玄関からはコートジボワール人がひっきりなしに出入りして、カカオ豆のフェアトレードを行っている。いつからうちの家庭は貿易市場になったんだ?
「おーい」
キッチンにいるふたりに呼びかけてみたが、リビングに大勢いる浅黒い肌の人たちの騒ぎに巻き込まれ、声が届かない。兄妹間の意思疎通を阻害するなんてひどい人たちだ。頭にきたのでFire TV Stickを振り回して暴れた。するとテレビ画面がディスカバリーチャンネルに切り替わり、人間たちは舌打ちしながら退散していく。念のために「プランテーション以外おことわり」のシールを玄関先に貼っておいた。これで安心。
戻ってみると風景は様変わりし、ミニチュアトリケラトプスやらステゴザウルスらが床の草原にのさばりだしていた。まあこいつらはぬいぐるみみたいに小さいし、草食恐竜だからそんなに害はないだろう。少なくともさっきよりかはいくぶんましだ。この世界で生きていくと決めた以上、多少のストレスは受け入れていくしかないのだ。
キッチンを訪問し、手前にいたおさげ髪のうしろ姿に話しかける。
「順調?」
ふり向いたかりんはたいして驚きもせず言った。
「あ、いたんですか。今、カカオマスの製造を行っているところです」
「うんしょ、うんしょ」
その奥には石臼に入ったカカオ的な何かを熱心にきねでついているユキの姿がある。
「え、カカオマスってそうやって作るんだ」
衝撃の事実。
「それにしてもこのキッチンは広いですよね」
「まあ、うちの家は用途に応じて伸びたり縮んだりするからなあ」
「もしかしたら、ローレンツ収縮と関係があるのかもしれません」
「ローレンツ収縮って?」
「動いている物体は速度によって長さが変わるんです」
「うちの家はどこへ向かっているの?」
「きっと、夢のようなところですよ」
だったらいいけど。
「ちょ、ちょぉ……そろそろ交代……もう腕が……」
きねを持つユキの手がぷるぷるしている。
「交代? そんなものはねーですよ。わたしが皮を削り、ユキが磨砕する。これが役割分担です」
「そんなのきいてないー……!」
へなへなと肩を下ろし、ぴいぴいと泣き出すユキを見かねて、手伝いに行く。
「ぼくが代わるよ」
「けーにい……!」
ユキはぼくの顔を見て安堵の表情を浮かべるが、すぐにむつかしい顔をつくる。手にしたきねはぎゅっと掴んで、手放さない。
「……だめ」とつぶやきながら。
「だめなの? なんで?」
「だ、だって……」
こほん、とかりんが咳払いをする。
「いけませんよ。ここは女の独擅場なんです。ほら、門外漢はあっちへ行ってください」
「なんでだよぼくも混ぜろよ」
「混ぜても美味しくないので」
背中を押されて追い出されてしまったが、腹が立つ。ぼくのどこがおいしくないっていうんだ。心か。心なのか。ぼくの全身は味の素から出来ているが、心だけは話素から出来ている。その苦い心が、納得いかないとキリキリ悶えている。だって力仕事なら男のぼくがやったほうが絶対いいじゃん。なんだよその前近代的なジェンダー観。そもそもバレンタインっていうのは女が男にチョコを渡す日なんかじゃねえぞ。聖ヴァレンティヌスが殉教した日だ。それがチョコレート会社の陰謀に乗せられやがって。裁きを受けろ。
でもそれはぼくの立場からの意見だ。ぼくは石臼でカカオマスを作ったことのある人間ではないので、石臼でカカオマスを作ろうとする人の気持ちは推し量れない。多様性への目線は大事だ。
「……あーあ」
チョコレートねえ。
ぼくは何個もらえるんだか。
昔はアキがいたから、毎年一個は保証されてたんだけど。
……■んじゃったからなあ。
爾在さんの意識と一度融合してから、ぼくの記憶の混乱は徐々に解消されつつある。それは同時に、分裂していると思い込んでいたふたつの時空がひとつに収束しかけているということで、アキという幼馴染、彼女と過ごした日々の思い出も、このぼくの心の中に確かにあったものだと気づいた。ユキとだって、一緒に遊んだことがあるんだ。
ただ、もう冬休みは明けているが、アキの顔はまだ一度も見ていない。
彼女がいまどこにいるかは、なんとなくわかる気がする。
だけど、見に行く気にはまだなれない。
見たら、事実になる。
それが怖い。
正しく受け止められる自信がない。
また歪みのきっかけになるかもしれない。
記録する者として不甲斐なくも思うが、だからこそ情報の扱いには慎重になるべきでもあり。
この事象を確定させるには、まだ早い。
ブラックボックスに触れるには、まだ。
でも。
いつか。きっと。
…………。
「ケーイっ!」
ぼくは通学路のバス停の前ではっとしてふり向いた。
紅白のマフラーを羽ばたかせながら、制服の女の子がぱたぱたと駆け寄ってくる。
その顔を見て、あんぐりと口を開けた。
「あ、アキ……」
「ちゃおー。どうしたの? そんなシーラカンスみたいな顔して。あ、元からだっけ?」
「っせーなこの牛マンボウ!」
思わずいつもの癖が出る。
「だれが牛ですって? マンボウはいいけど、牛はちょっと許せないかも。なんなのよ牛マンボウって」
「世界一重い硬骨魚だよ」
「へえー。そんな魚本当にいるんだ……ってあのね。いま察したわ意味を。謝りなさいよ牛マンボウさんに。そんなきれいじゃない使い方されるなんて牛マンボウさんも望んでいないはずよ」
「嫌だね。お前は牛だしマンボウなんだよ」
大げさなため息をついてみせるアキ。
「はぁ〜……。まったく、なんでこんなひねくれたやつと腐れ縁なのかしらね……」
「で、その手に持っている意味ありげな袋は?」
「え?」
「なにかぼくと関係がある?」
「そ、それは」
「ちゃっちゃと済ませようぜ」
するとアキは心底軽蔑するような目でぼくを見た。
「……うーわ、それ言っちゃう? ないわぁ〜。信じらんない。ほんとそういうとこだと思う、あんたがモテないのって」
と言いつつも、保冷剤の入った手提げ袋の中から、簡素なケーキ箱のようなものを取り出している様子。
「……はい。言っとくけどそんな手の込んだものじゃないから、あんま期待しないでよね」
ぶっきらぼうさを装った感じで、手渡された。
へへ、一個ゲット。
「いつもありがとな」
率直な気持ちを伝えると、アキはちょっとむくれたような顔つきになる。
「……べつにあげたいわけでもないんだけど、なんかあげないと次の年になった気がしないのよねー……」
いつもは物怖じせずガンガンくるタイプのくせに、こういう時にだけ予防線を張りまくるの、ずるいなあ。
と思いながらカバンにしまおうとすると、「まって!」と呼び止められる。
「バスの中で溶けたらいやだから、今食べて」
「ここで?」
「うん」
「本気で言ってる?」
「できないなら返してちょうだい」
どうやらマジそうだった。突拍子もないことを言い出されるのには慣れているが、今回は羞恥プレイ強要ときたか。
でももらったものを返したくはないので、仕方なくその場で包みを開く。
「……え、一個!? でかっ!!」
「びっくりした?」
「心臓ぐらいあるよ」
ティラミス的な何かかと思いきや、ジャガイモみたいなチョコがガッツリ入っていた。
「ふふ。さ、食べて食べて」
「こんなのどこからどうやって食べればいいのか」
「男の子なら余裕でしょう?」
どんな男の子でも余裕だとは答えないだろうと思うが、さあさあとはやし立てるアキの視線に負けてしまい、紙ナプキンにくるんでがぶりと一口かじりついた。
舌の上に濃厚な甘味とベリージャムのような酸味がひろがる。中身は生チョコみたいになっているのか、意外とやわらかかった。
「……どう?」
「……うん」
「うん? あんなに下心丸出しにしといて、うんだけ?」
「……まい」
するとアキは安堵したように胸をなでおろす。
「そ。ならバスが来る前にちゃちゃっと口に入れちゃってちょうだい」
「喉がつまる」
「えー、つまらない男」
「吐きそう」
「二回も食べられるなんてラッキーね」
鬼畜だ。
遠くの道からバスが走ってくるのが見えたので、ぼくは覚悟を決め、残りを全部頬張った。口の中が女の重味でいっぱいになる。
が――
ガリッ!!
「ふ、ふぁあ!?」
なにか、硬いものを噛んだ。
「あ、当たった?」
いたずらっぽい笑顔でアキが顔を覗き込んでくる。
「な、なにこれ?」
「安心して。ただの氷だから」
「こ、氷?」奥歯が折れたのかと思った。「なんでまた、氷なんか」
「ふふ。それはね――」
ごっくんと、咀嚼したものを呑み込む。
からだの中で、ぜんぶが溶けていく。
「……アキ?」
目の前にはからっぽのバスが停まっていた。
ひとりぼっちのバス停に、二月の風が吹いていた。
…………。
「けーにい」
甘い声が頭の中に響き渡る。
ユキの顔だった。
「ん……ああ……。寝てたのか、ぼく……」
そうだよな……。
床の草原が気持ちよくて眠ってしまっていたみたいだ。もう夕方か。
「けーにい、ユキがついてるよ……」
「急にどうしたの?」
ユキは気遣わしげな表情で言った。
「だってけーにい、すごくさみしそうな顔してたから……」
ぼくの胸は焼かれている心地がした。
……いやいや。妹にこんな顔させてどうするよ。
元気出さなきゃ。
「大丈夫大丈夫。おし、ごはん作るかー。今日はコスモナポリタンかなー」
「う、うん。……あ、でもその前に、ケーキ食べよ?」
「ケーキ?」
「うん、チョコケーキ。かりんと一緒に作ったんだっ」
できたんだ。あれで。
台所を見やると、冷蔵庫からケーキを取り出したかりんがコンパスを使って等分に切り分けようとしている。
テーブルについた。
ユキはフォークを持ってうきうきしている。
やがて、かりんがそれを持ってきた。
「へえ。アイスケーキか。しゃれてるね」
「わたしはお腹壊しますよって言ったんですけど」
「ユキは本当にアイスが好きだな」
「てへへ……アイス大好き」
妹ふたりで作ったケーキか。
うれしいな。
さて、お味のほどは。
「めっちゃうまい」
「当然ですね」
「よかったぁ……!」
ぼくたちはあくびしている小さな恐竜を膝の上にのせたりしながら、和気あいあいと食卓を囲んだ。
「明日、学校に持っていくの楽しみだなぁ」
ユキが言った。
「好きな人にあげるの?」
「ち、ちがうもん 。けーにいのバカ。クラスのみんなに配るぶんにきまってるでしょ!」
そういや、学級委員だもんな。
「てかさ、かりんは学校行かないの?」
「え、わたしは……無理ですよ」
「なんで?」
「だって……教員免許持ってないですし」
「たしかに無理だねその方向性で考えているなら」
無表情でコスモナポリタンをコズミックフォークに巻いているかりんだが。
「自宅警備員してるほうが性に合ってます」
「やっぱりひきこもりじゃねーか」
「でも、今は幸せですよ」
ぱくり、と宇宙を頬張っていた。
いつもいつも、眉根一つ動かさずによくそんなことが口にできるね……。
「なら、家の安全は任せたぞ」
「フ……蟻一匹逃しませんよ」
できればコートジボワール人ぐらい退治してほしかったけどな。
時計を見ると、もう日付が変わろうとしている。
空海の「
なんだか最近仏教に関心がある。それはおそらくあの人の影響なんだろうけど、家族を守るためには、あの人みたいに身も心も強くならなきゃって思う。
「三界の狂人は狂せることを知らず、 四生の盲者は盲なることを識らず……か」
まだよくわかんないや。
「――いんじゃんでほい!」
「…………?」
部屋の扉の向こうからかすかに声が洩れてきた。
「あいこでしょ! しょっ! しょっ! しょっ!」
「なにやってんだ……?」
なんだかきゃいきゃいしている。
しばらくして、コンコンとノックの音がした。
「……あいてるよ」
ドアが開き、パジャマ姿のユキが入ってくる。
「やったぁ! ユキが一番乗り!」
「ダメだよ小学生が夜ふかししたら」
「いーの。今日はトクベツなんだから」
どことなくはしゃいでいる様子だった。
「んで、なんの用?」
「じゃぁ〜ん」
ユキが隠していた背中から取り出したのは、かわいらしいラッピング袋に包まれたトリュフだった。
「……ぼくに?」
「えへへ」
照れ笑いを浮かべる仕草にきゅんときた。
「でも、チョコはもうご馳走になったよ」
「ううん。あれは、家族で食べるぶんだよ」
「これは?」
「これは……その……けーにいにかわいがってもらうためのぶん……」
時計を見ると、零時をまわっていた。
二月十四日。
「なぁ〜んだ。あはは」
「わっ、笑わないでよ! もぉ〜サイテー! 作るんじゃなかった!」
真っ赤になってぷんぷんしている。
「ううん。とてもうれしいよ」
「……ほんと?」
「うん、ほんと」
ぱあっと顔が明るくなった。
熾天使ユキエルさまが手作りチョコをお与えになる。ぼくはうやうやしくかしずいて、両手でそれを受け取った。
そのとき、ユキがしんみりと口をひらく。
「あのね、ユキは、もう守られるだけじゃないよ」
「え?」
「けーにいが夜遅くなっても泣かないし、かりんとふたりでごはん食べて寝起きできるし、帰ってきたら、いつでもおかえりって言ったげる。中学生になったら家庭科部に入って、おさいほうとか勉強して……けーにいのこと手伝えるようにがんばるね」
「ユキ……」
ぼくはその姿を想像した。中学生になったユキ。高校生になったユキ。自分の進路を決めたユキ。結婚して自分の子どもをもうけたユキ。時は流れていく。この世界はまるでユキが育つためにあるかのようにも見え、大地の澄んだ栄養だけを吸ってたくましく成長していくだろうその未来に、物語の祝福があらんことを祈った。
幸せになれよ。
「でも、中学生になっちゃったら、もうけーにいがかわいがってくれなくなるかもって思うと……」
「ぷ、ははははは」
「あ、また笑ったなぁ!」
「ごめん、ついね」
時代遅れのヒロインなんて誰が言ったよ。
たとえ世界がどんなに変化しようと、ぼくの妹はぼくの妹だ。
誰のためにあるのでもない。ただ、彼女がここに息づいているということを。
ぼくが言葉にしていこう。
コンコンコンコン。
「あ〜……宴もたけなわですが……」
扉の外から、もうひとりの妹の声がした。
「えぇ〜! まだ!」
「まだ、じゃねーですよ。こっちはもうお腹いっぱいなんです。最後の10秒待ってあげますからね。10。9。8……」
ユキがあわてて飛び上がった。
「ご、ごめんけーにいっ! 約束だから、ユキもう寝るね。おやすみ!」
「お、おう、また明日なー……」
最後に笑顔で手を振ってユキを送り出すと、入れ替わるようにしてふてぶてしい顔のかりんが現れた。
「……まったく。ほんとユキの思考はガキくせーですよね。一番乗りだからなんだっていうんですか。みっともない」
「ジャンケンしてたのはなんだったの?」
「…………」
「黙るなよ」
「……エントリーナンバー2番、元祖ツンデレこと、見本かりんです」
「ぼくはアイドルのオーディションでもさせられているのか?」
「特技は、観念することです」
「ダメじゃん!」
寝間着姿のかりんは相変わらずの能弁ぶりを披露しつつも困ったように目を細める。
「なぜ、わたしにばかりこんな役が回ってくるのでしょう……」
「お前が素直にならないからだろ?」
「わたしが素直になったらとんでもないことになりますよ?」
「なにがどうなるの?」
「池田屋が襲撃されます」
「リョーマぁ――――――――――!!!!」
「へっへっへ、お代官さま、これをお納めください」
「それは越後屋だろ。……ん?」
正座したかりんが自然な流れでスッと差し出したものを見る。
「これは?」
「お代官さまの好物の小豆色の菓子折りでございやす」
「……どれぐらいふざけていいの?」
かりんもそろそろ苦しくなってきたのか、やや気恥ずかしそうに目をそらす。
「……だ、だって、こんな静かで、ふたりきりで、こんなの恥ずかしすぎて……まじめにやってたら死んじゃいます」
少しの間、お互い無言になる。
「……はっはっは。お主もワルよのぉ」
「…………」
「なんか言えよ……」
かりんはちょっとだけ唇を噛んでいた。
「お、お兄ちゃん……」
そして、頼りない声でぼくを呼ぶ。
「なんだい」
「わたし、実はお兄ちゃんのこと、お兄ちゃんって呼ぶのにまだ、抵抗があるみたいです……。それって、わたしがお兄ちゃんのこと、信じられてないからでしょうか……」
悩みを打ち明けられた。
やっぱり、彼女も不安だったのかな。
「ユキは、かりんのことが好きになっちゃったみたいだよ」
「ですが、お兄ちゃんは……」
「おまえはここにいていいんだ」
「…………」
心が震えているのが伝わってくる。
「信じたいものを信じればいいさ。でもさっき、見本かりんって名乗ってくれたね。それをきいてぼくはうれしくなったよ。にぎやかそうと無理しなくたって、かりんの居場所はなくならない。なくさない。おまえだって大切なぼくの妹なんだから。チョコもありがとな。これからもよろしく」
かりんはぼくの言った言葉を頭の中で何度も繰り返し、検討しているように見えた。
「……はい」
が、最後にはそう言って、微笑を見せた。
「――ほんとあなたって、おいしいキャラなのね。あたしも混ざれるようにならないものかしら」
「ん?」
一瞬ぽかんとなって、かりんの顔をまじまじと見つめる。
当の本人はただただきょとんとしているけれども。
「……え? なんですか。わたし、何か言いました?」
「い、いや……」
空耳? 聞き間違い?
急に口調が変わったような気がしたのは……。
……ま、いいか。
ハッピーバレンタイン。
ぼくの妹は息をしている(仮) 鹿路けりま @696ki
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