ぼくの妹は息をしている(仮)

鹿路けりま

SAMPLE "K" BEGINNING

Author

 人を殺す小説を書きてえなあ。

 どうせ小説を書くんなら、人を殺す小説がいい。

 ぼくはつねづねそう考えてきた。

 誤解しないでいただきたいが、ぼくはどこぞのミステリー作家とは違って、人を殺す方法ばかり考えているわけでもなければ、そうした欲求を日々抑えながら生きているわけでもない、いたって常識的な思考をもった、ただの天才男子高校生である。

 また、単に殺人を扱った作品を書きたいわけでもない。

 そういう物語はすでに腐るほどある。

 どれも面白くない。

 死ぬほどには。

 ……ぼくが思う「人を殺す小説」とは、要するに読者を間接的に死に至らしめるほどの影響力をもった、すごい作品のことなんだ。つまり今これを読んでいるあんたをぼくは殺したいのだ、作中人物ではなくて、あんたの目にどかんと猟銃をぶっぱなしてやりたいのだ。ぼくは将来あとがきでそう言おうと思っている。もし本を出すなら、ね。

 ところで世の中には「呪いの小説」とよばれるものがあって、それを読んだ人間はあたかも自分の人生がそこに書かれているかのように思い込み、現実と虚構の区別がつかなくなって、最終的には物語の結末に沿って死なずにはいられなくなるという、そんな小説があるらしい。「精神的ドッペルゲンガー」と言えば掴みやすいだろうか? そんなヤバい小説があったら、たとえ死にたくなくとも読んでみたいとついつい思ってしまうだろう?

 実際、そうした作品は例外なく優れているといわれていて、最も有名なのは、多くの自殺者を出したと名高いドイツのあの中篇だ。もちろんぼくも読んだことがある。……おや? と疑問に思われるだろうか。「人を殺す小説」を読んだのに、どうしてぼくは生きているのか?

 その理由はおそらくぼくが、本当の意味ではあれを読めやしなかったからだ。というのも、ぼく自身の読解力が足りていなかっただけでなく、あの古い小説自体が、すでに幾度もの翻訳と改訂を経て無害な形に修正されているものだから、もはやあれを読んで本当に死ぬという人はいなくなっていると言える。

 しかしこれで「呪いの小説」の流通自体が途絶えたわけではないことは、ぼくの経験から言って確かだ。それは人から人へひっそりと伝播してゆく。決して話題にはならない――話題になったときにはすべてが終っているのだから――人びとの心から死が忘れられつつあるとき、ウイルスのようなこの小説は、そうやって社会の裏側から静かに猛威を振るいはじめる。


 ……そのひとつがどうやらいま、「MAYUマユ」というペンネームの持ち主によって書かれ、新たに出回っているらしい。

 オカルト狂いの幼馴染からそんな話を聞いたとき、ぼくの気持ちは半信半疑以下だった……こいつは昔から自分の仕掛けた落とし穴に自分で引っかかるようなドジで、そんな神経じゃあ当分死ぬことはないだろうなどと軽口を叩いていたら、随分あっさりと落雷で死んでしまった。まったく呆れてしまうぐらい、それはそれはもう死ぬほど滑稽なやつだったのだ。青天の霹靂という表現があるが、誰だって自分の幼馴染が落雷で死んだと聞けば失笑するしかないだろう。ましてやそれが「脳死」という世にも中途半端な状態で、当面は人工呼吸器で生かされつつも、一つずつ臓器を取られて完全な死体に変えられていく形となればなおさらだ……。

 ぼくはこんな悪い冗談を長々と続けるつもりはない。彼女のは落雷なんかではなくて、「呪いの小説」だったということが言いたかったのだ。この小説も今は散逸してしまい、残念ながら手許にはない。しかし簡単に要約すれば、シェイクスピアのマクベスではないけれど、生まれつきへそを持たない主人公が、存在しない母親を捜す内容だったという。奇妙なことに、雷に打たれた死体からはへそが見つからなかったそうだ。これが「呪い」の呪いたる所以で、ようなところに作者の狙いがあったと見られる。

(もし手が空いていれば、ちょっとシャツの裾をめくってみていただきたい。あなたにへそはついているだろうか?)

 さて問題はこうだ。その――「MAYU」とはいったい何者なのか? こんな忌まわしい呪いを生み出した元凶がいるとすれば、そいつこそが幼馴染を殺した犯人ということになる。ぼくは必ず何か裏仕掛けトリックがあると思っていた。つまりこれは事故ではなくて、れっきとした殺人事件なのではないかと。ただ作者の身元を明かしただけでは、いわゆる不能犯というやつで、小説が人を殺す因果関係が解明されない以上、これを罪に問うことはできない。

 だからさしあたってのぼくの使命は、すべての真相を暴いた上で、そいつを死刑にすることだった。これはべつに、ぼくが界隈きっての名探偵だからというわけではない。ただ純粋に、自分の幼馴染を殺めた憎き悪党にこの手で引導を渡してやりたかっただけだ。

 が、結論を急げば、それはに不可能だったと言わねばならない。ぼくはすぐに大きな壁、逆説パラドクスという名の密室の壁に突き当たることになってしまった。ここまでの話がいくつかの無視できない矛盾を孕んでいることに、聡明な読者ならもう気づいているだろうかと思う。すなわち読むと死ぬ「呪いの小説」なるものがいったいどのようにして書かれたかという謎がある。そんなものはやはりこの世にありえない。幽霊によって書かれでもしない限りは。

 あるいは本当に、人を彼岸へつれてゆく、「死者の書」というものが実在するのだろうか? それはあらかじめ死ぬことが決定づけられた人々のために、あの世から配られるのだろうか?

 思えばこのように問うた時点で、ぼくもまた「呪いの小説」の中に囚われていたのかもしれない。だが当然、このときのぼくがそんなことを理解しているはずがなかった。……



 ……というのがまあ、「作り話」のあらましだ。ライド感が出てきたところをすまないが、今のは自分の創作である。つまり真っ赤な嘘だと思っていただきたい。ん? 騙された? いやいや、ぼくは最初に言ったはずだ、あんたの目にどかんと猟銃をぶっぱなしてやりたいと。

 種明かしをしよう。もちろんぼくは作者だから、この物語の結末を知っている。

 犯人は密室マユだ。

 MAYUというのは「Mechanism of Aurhor's Yearning Usage」の略で、要するにこれはのことである。さてここからは作者の目線で話すけれども、つまるところすべては〈繭〉という一台の巨大コンピュータによってシミュレーションされた、仮想現実ヴァーチャル・リアリティにおける出来事だったというオチだ。主人公(つまり前ページまでの「ぼく」)は華麗な推理でこの真実に辿り着き、最終的に現実世界へ帰還した。

 少し話がSF寄りになるのだけれど、昨今のミステリ界ではこんなスペクタクルがむしろ日常である。この架空の一事件を「そもそも誰も殺されていない」と見るか「そもそも全員死んでいる」と見るかは立場が分かれるところだろう。

 じゃあ「呪いの小説」の正体とは何だったのかと言うと、これはその世界が仮想現実だということに気づいてしまった異端者を間引くための、アポトーシス・プログラムの一環だった。人は死ぬと物語になる。それがこの世界での法則である。つまり、「呪いの小説」を読むと死ぬのではなく、人の死が「呪いの小説」を創り出し、その登場人物は、自分がすでに死んでいるということにあとから気づくという仕掛けなのだ。したがってそこに実質的な作者は存在せず、この「登場人物殺人事件」の犯人は物語そのもの、世界そのもの、あるいは世界の彼方で、〈繭〉のコアに入って装置を動かしていた人間の脳だということになる。

 ところで、この人間の脳というのは、すなわちここにいるぼくの脳のことにほかならない。

 いまぼくはすごく重要なことを言った。

 もう一度だけはっきりと言おう――


「いや実はね、ぼくはついさっきまで、その〈繭〉という装置の中に入っていたところなんですよ。で、ちょうどいま話したようなをかばんに入れて、帰るところというわけです。とある実験に参加していたんですが、これが実にすばらしい実験でして、どういうことかと言いますと、装置の中でぼくが眠っているあいだに、〈繭〉のほうで勝手に物語を編んでくれていたんですね。この装置はまさしく夢を小説にする、『機械の中の幽霊ゴーストライター』なんですよ」

「へえ、それじゃあ、その〈繭〉とやらは現実に存在するのかい。つまりお客さんは、さながら蚕が羽化するかのごとく、一夜にして立派な作者に変態したというわけだ」

 長いトンネルのなかで、口を挟んできたのはタクシーの運転手だった。

「ええ、そうなんですよ、先ほどは真っ赤な嘘と言ったけれども、ほんとうは虚実入り交じる話だったんです。ぼくは実験の被験者サブジェクトとして特別に見せてもらいましたからね、あの〈繭〉を。もっとも、ぼくは生まれてこのかた嘘しかついたことがないような人間なんで、信じなくても結構ですが、こんな言い方をわざわざしたのは、MAYUの研究というのが秘匿事項になってるもんで、公にはできないという事情があるからなんです。まあぼくにはもう関係ないんで、喋りまくってますけどね。あははははははは」

 だがこんなふうに話しながらも、内心では少し疑問に思っていた。

 いくらなんでもメタ過ぎやしないかと。

 例の小説の主人公としてのぼくと、ここにいるその作者としてのぼくはもちろん似て非なる存在なのだが、ただ〈繭〉という自動執筆装置の中にいたという点で共通している――考えてみれば、小説の中〈繭〉そのものが存在するというのは実に不思議な話ではある。

 が、そんなことはこの際どうでもいい。

 重要なのは今、かばんの中にはぼくの「処女作」があるということだけだ。たとえ実際にテクストを書き出したのが〈繭〉だとしても、ぼくの「脳」を使った以上、これは「ぼくの作品」だと言い張っていいのである。(しかも死ぬほどおもしろい。なぜなら自分の夢だから)

 めくるめく夢から覚めて、小説の作者になったぼくは、まさに凱旋途中なのだ。


 ……トンネルを抜けると一面の銀世界がひろがった。

 ぼくたちの町。ぼくたちの生きる舞台は、大きくも小さくもない地方都市だが、一本の大きな川が流れていて、そこを中心に商業が発達した。昔ながらの商店街に駄菓子屋などがいまだに軒を揃えているのは、都会ではまず考えられない風景だろう。盆地なので冬は冷え込み、毎日のように雪が降る、なんの変哲もない田舎町だが、住民はみんな地元を愛しているし、かくいうぼくもその一人だ。なにせこのあたりは緑が多い。昔はよく近所の山で妹などと虫獲りやかくれんぼをして遊んだものだった。

 妹について触れるのが少し遅れてしまったかもしれない。ぼくは現在、父と母、それに四つ下の妹と自分を入れての四人暮らしになる。四人暮らしになるのだけれど、両親だけはぼくたちの冬休みを前に突然旅行に出てしまって、以降なんの音沙汰もないので、実質のところは二人暮らしだ。

 妹の名前はユキ。事実は小説よりも奇なりと言うが、その名の通り、生まれたときから真っ白な髪をしているのが特徴だ。なのでぼくにとってその姿を街中で見つけることは、地図上で名前のない国を見つけることよりたやすいといってもいい。

 で、そんな妹にだまって家を抜けてきたから、心配されているかもしれないという話をしている。たぶんあいつのことだから、きっとぼくを探しているのではないかと思い、このまま家に直帰すると行き違いになる可能性があるため、そうならないよう気を配っている次第なのだ。

「お客さん、あの子ですか?」と、運ちゃんが苦笑しながら口を開いた。

「そうそう、かわいいでしょう、うちの妹。いやあほんとねえ、運ちゃんもかわいいけれど、やっぱうちの妹が一番ですわ。来年中学に上がるんですが、まだお兄ちゃん離れしてなくて、ケー兄、ケー兄って言いながら、風呂まで一緒に入りたがるんですよ。まったくもう、ブランコなんかこいじゃって、ブラコンじゃないんだからってなあ。あっはっはっはっすいません降ります」

 公園の前でタクシーを停め、すっかり辟易しうちとけてしまった運ちゃんに代金を差し出した。

「ほらよ、釣りはいらねえ、とっときな!」

 我ながら調子に乗りすぎである。

 そんなこんなで道のさなかに降り立つころには正午を過ぎていたけれど、気温は一向に上がっておらず、昨晩降った雪の残りが融けきらずに固まっている、年老いてしまった緑のなかを、ぼくはあの神話に出てくるオルフェウスさながら、せいぜい背筋を伸ばして歩きはじめた。

 だがそのとき急に、軽い違和感が起こる。

 何かが、いつもとは違う。

 これは……何だ?

 一種の立ちくらみだろうか。

 いや、違う。

 あたかも自分の目の前にある光景がふいに煙と消えてしまうかのような、実に名状しがたいふしぎな感覚を味わったことはないだろうか。物心ついたときから、ぼくにはなんの前触れもなくそのように感じられることが少なくない。それは心の中で起こる小さなのごときものだと錯覚していたが、いまぼくは自分を包みこもうとしている日常の中へ再度飛び込む前に、先立ってこの問題を解決しておこうかと思う。というのもこの機を逃せば一人の時間がやってくることは当分ないことだろうし、まさに一切合切をこの瞬間に理解した身としては、忘れる前にこれを言ってしまいたいからだ。

 さてこの奇妙な感覚は、自分にとっては大いなる謎のひとつであり、長らくその正体を明かしてはこなかった。なんらかの病気かと疑ったこともある。だがそうではなかった。

 燦然たる陽光を浴びて、ぼくは大地に立っている。

 ――自分の原稿を手にして。

 このれっきとしたひとつの事実が、雄弁に真実を物語っていた。

 これは「作者」の感覚だ。

 あるいは「詩人」の感覚と言い換えてもいい。

 ぼくのなかに流れる血が騒ぐ。

 ぼくのなかで胎動する感性が疼く。

 ぼくはもう、昨日までの自分と同じではない――

 わかるか? いまや選ばれた存在となったぼくには、おのれを作品たらしめよという、くるおしいほど美しい世界の呼び声が妖鳥シレーヌの歌のように聞こえるのだよ!!!

 つってな。

 さて、背にはタクシーの去る気配。そして前には、はやくもブランコから首を伸ばして大きな瞳でこちらを見ている、例のごときひとつの顔。その半信半疑といった表情が、やがて確信めいたものに変わっていく様子が、ぼくの目にはありありと映った。同時に口も大きく開いて、

「ケー兄っ!」

 全身でよろこびを表すかのように、まっすぐ駈け寄ってくる。

 これがぼくの妹だ。

 オルフェウスなら、ここで背後を振り返ってしまい、一挙に奈落へ転落したかもしれない。だがぼくは違う。ぼくは手をふりながら笑顔で名前を呼び返した。ユキ、ユキ。ああ、すっかり転んでしまって。ユキは本当に転ぶのが得意だなあ。あまりにもよく転ぶものだから、いつしか上手な転び方を身につけてしまったというが……よっこらせっと。

「もぉ……バカバカ! ケー兄のバカンボーッ!」

 案の定、二言目には恨み言だ。いろいろな感情がごっちゃになってか、目尻に涙をうかべている。自分に素直なやつなのだ、ぼくと違って。

「ごめんな、心配かけたな。いつからここにいたんだい。手、凍えてるじゃないか。ばかだな、ほんと。ぼくを待ってくれていたんだね、いつ戻るかなんて言わなかったのに」

 ブランコが空振りしていて、誰もいない公園になる。青いフェンスの手前で、ユキはぼくの胸をポカポカと叩いた。

「そーだよううぅ……、ううううう、ぐじゅ、別にっ、さびしくなんかなかったけどぉ……、みんなどっかいっちゃって、こわかったのに。ひっぐ、もうケー兄、約束破んないでよぉ……。ユキはなぁ、ねるときとか起きたときとか、おうちにひとりだったらやなんだぞぉ!」

 なんだかぼくはとても長い間、ユキのことを忘れていたような気がする。

「うん、うん……、知ってるよ、ああ、ぼくが悪かった。ほんとは朝になる前に帰ってくるつもりだったんだ、何も言わずに……そのほうが余計な心配させずに済むと思って……けどかえってそれが裏目に出たな。いやすまん、今度からちゃんとする。だからほら……泣くな」

 謝りながら、もふもふの耳当てをつけた、小さな頭をなでさせていただく。ぼくがいつも使う手なのだが、こうするとユキは釈然としないなりにも多少おとなしくなってくださる。本気で怒っているときは別だが。

「…………そ、そんなことしたって、キゲン直してあげないからね。ぷいっ」

 だよな。こう見えてユキも馬鹿ではないから、軽く扱われることを嫌う。

「それじゃあ、どうしたらいい? ぼくは今日ちょっといいことがあったから、なんなら言うこと聞いてやってもいいぜ。求めよ、さらば与えられんってな」

「ど、どうしたらって言われても、こまるんだけど。ええぇ、そんなの……」

 なにやらユキはうつむき加減に髪型を直し、サイドテールの毛先をあそばせ、ぼくの目線の下で、何か言いたげな、でも言いたくなさげな、いじらしいそぶりを見せ出す。

「……がってよ……」

「ん?」

 顔が上がる――涙目、上目遣い、紅潮した頬――まるであざとさの研究の末に辿り着いたかのような、限りなく尊い、三拍子揃った天然記念物からぼくになにかお願いがあるようです。


「かわいがってよ……いっぱい」


 眩暈がしていた。

「か、かわいがれ……だと? おまえはいま、この兄に対して、かわいがれと命令したのか?」

「……だめ?」

「ぐっ……!」

 ときていたのは事実だ(ありえない波動……こんな波動は今まで感じたことがない……。どうやったらこんな甘えた声を出せるんだ……この世で甘い声を出す最強のやつかよ……)。

「だがそれは不可能だ……その願いだけは叶えてやることができない……」

「な、なんでぇ……?」

 なんでって……それはぼくの力を超える願いだからだよ……。「かわいがれ」だと? すでにして充分すぎるほどかわいい妹を、いったいどうやってかわいがればいい? おまえなんかどうあがいても一人で勝手にかわいくて、誰の手にも余るのだ……。ましてやこんな……。

「わかった、じゃあこうしよう、今日はお兄ちゃんと、仲直りえっちをしよう」

 こんな兄の風上にも置けないぼくなど……。

「……は、はあああああああああああああああ!?」

 ククク、いい声で啼いてくれるじゃないか……。

「え、え、えっちって……あの、あれのこと……だよね? す、するの……? ケー兄と……?や、やだよ気持ち悪いっ……くはなくもなくもないけど……、なんで? したいの……?」

 やかんのように上気した顔が、思いのほか熱を持ち、火傷しそうなものだったので、

「お、おい……マジになるなよ、嘘だよ嘘」

 顔色を窺おうとしたぼくだが、これは悪手だった。すべての表情がユキの顔から抜け落ちて、瞳の光もすうっと消え、おどろおどろしい影だけが後に残ってしまったのだ。ちょうど太陽に翳りが出てきたことによる、舞台効果かもしれないが。

「……最ッ低。最ッッ低。もうほんと、最ッッッッッッ低。はぁ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~疲れた。帰ろ」

 てくてくと、小さなからだで勝手に歩き出してしまう。

「お~い……あの~……ユキ、さん?」

「あれ~なんかケー兄の声がするような……でも気のせいだよねー、探してもいなかったし。さーてあんなのほっといて、ユキはユキらしく帰ってひとりでごはん食べよ~っと」

 ダッフルコートと長靴がもたもたしていて、いかにも転びそうだった。

「おお、妹よ、この兄の声がきこえぬか。おまえの身の上を案じるがため、現世にとどまり、こうして草葉の陰から見守っているこの兄を置いてどこへ行く」

「今日のおかずは、ケー兄の部屋のバレバレなとこに隠してあったごにょごにょ……」

「なんかそれたぶん違う! あらゆる意味で違う!」思わず小芝居を中断し、後ろから口をふさいでいた。ちょうど一台のバスとすれ違う。「はっ、おまえまさか……!」

 を見たのか……? ぼくが地道に集めてきた秘蔵コレクションの数々を……『発情期の妹は頼めばやらせてくれる』を読んだのか?『妹大好き超愛してる』を読んだのか? 『合意プレイ! ブラコンと化した妹』を読んだのか? 愚かな……。

「ああいうの好きだったんだねケー兄。にひひ。ま、全部捨てちゃったからもうないんだけど」

「南無三!」

 爪先から徐々に成仏していく自分。走馬燈の色は桃いろだった。

 しかし再び無明の雲が晴れ、振り返ったユキの尊顔に、まばゆい後光が差して見える。

「だって、ケー兄がユキのキモチ考えないから、超ムカついてたんだもん。それに、ユキの見てないとこフケツなことしてるケー兄となんて、暮らすのやだよ。いーい? これからケー兄がユキのこと大事にしなかったら、大事にしなかったぶんだけケー兄の大事なものがだんだん減っていくんだぞ~」

 まったくおだてりゃ調子に乗りやがって。どこのヤンデレ彼女だよ。泣いたり甘えたり無視してきたり、かと思えば突然強気に出てきたり、女の子の心はこれだからわからない。

「ちぇっ、ユキは妹なんだから、妹らしくしてりゃあいいんだよ」

「ふーん。じゃあそんな妹ちゃんにこっそりヨクジョーしちゃってるのは、どこの変態さん?」

「し、知らんな」

 ユキ……最近おまえがフケツな言葉を覚えてくるから、お兄ちゃんはかなしいよ……。

「はいそこ、いまさらごまかさない。ちゃあんと知ってるんだからね、言わなかっただけで。トイレで聞き耳立ててることも、下着の数が減ってることも……」

「やめろお願いしますそれ以上は」

 気づいたときには、ぼくたちの上下関係が逆転していた。

「ふふふ。じゃあユキのお願い、きいてくれるよね?」

 このようにぼくは妹にはめっぽう弱く、そしてころころ表情を変えることで、逆にぼくを手玉に取るのがユキの特技なのである。

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