Vision

 まさに命からがら逃げ出してきたぼくたちは、荒野の端で呼び止めたタクシーに乗り込んだとたん、おさえてきた疲労がいちどきに解放されて、思わず顔をほころばせていたものだが、考えてみれば、あのときかりんが味方についてくれなければ、ぼくはそこで御陀仏だったし、彼女にとっては大いなる決断だっただろう。しかし脱出劇の余韻に浸るのは後にして、ぼくたちはいろいろな事の顛末や、今後のことについて話し合うことにした。


「MAYUの意思に助けられた……?」

「ええ、おそらくは」

 ぼくの隣に座るかりんはまだ態度がぎこちなく、あまり個人的な話をしたがらなかったが、抽象的な話になると、一度死んだとは思えないほど快調にしゃべりだした。

「まあ理屈ぐらいなら、いくらでもつけられるってもんです。これはですね、ヘンペルの被覆法則モデルといって、現象に収まる枠ならなんでも可というなぞ理論です。でも私としては、ベイズ統計学のあの理論、信念の度合いによって確率が決定されるというあれを推しますね。もちろんこれは建前ですが」

「つまりどういうことだよ?」

「MAYUは功利主義者なんですよ。見込まれる効用が最大値になるよう合理的な判断を下します。その結果、キャラクターには一定の自由を与えることが最もよいとされました。ただし、一定のルール内においてキャラクターが自由に発言し行動するとすれば、そのつど合理的で矛盾のない判断を個々のシステムが下しているとしても、全体を眺めたときに必ずしも最善なパターンになっているとは限りません。逆に言えば、全体を最善なパターンに収めるためには、ある部分で非合理的な選択を余儀なくされる場合もあるということです。ですから、ここがシステムの穴なんですよ」

「あーごめん、もう一回言ってくれる?」

「大事なことなので、二度は言いません」

「そこをなんとか……」

「大事なことなので、二度は言いません」

「おまえというやつは……」

 もう完全に普段のノリだった。この癖の強い性格だけは直らないのかな。まあいい。ぼくをからかってにやにやするかりんの顔を見て、少し安心している自分がいた。それに彼女を引き寄せたことによって、知識が増えるのはいいことだ。けれどなんだかまだ現実味が湧かない。タクシーはぼくたちの自宅へ向かっているが。

「……なあ、あれで本当によかったのか」

 頭のいいかりんはぼくの言いたいことがすぐにわかったらしく、しかしあえてそれを外すような返答をする。

「先生は、あの程度では死なれないと思います。そもそもあそこにいた先生は、先生そのものではありませんでしたから」

「うん、それはなんとなくわかる。なんとなくだけど。……多次元存在だろ」

 爾在さんが目を開けなかった理由はそのあたりにあったとみられる。あの人はああやって、ぼくらの次元を見下ろしていたのだ。というより、馴染んでいたのだろう。ぼくらにとっての現実は、あの人にとっては夢のまた夢。目を開けないぐらいがちょうどいいのかもしれない。

「ええ、その気になれば先生は、私たちの存在自体を消し去ることだってできたんです。だけどそれをしなかった。これは、先生の良心なんだと思います。なので、あまり先生を責めないでくださればと……」

「そうだね……」

 なんだかんだで、ぼくはかりんと爾在さんは相思相愛だったんだと思う。一度は感情的になってしまったが、あの人の言い分に筋が通っていなかったかといえばそうでもないし、それにあの人がこの子について語るときの、最初に見た、あの穏やかな感じが嘘だったとは思えない。そして最後に見せた表情も、どこか無常を思わせるものがあった。

 ただ事実だけを言えば、この子は育ての親を裏切ったことになる。しかしそこには事実以上のものがあった。それは言うまでもないし、言い尽くすこともできない。

「でもぼくが知りたいのは、かりん自身の気持ちなんだよ」

 すると彼女はやや気まずそうに顔をそむけている。やはりそうか。踏み込んではいけない、他人の領域。人間ぎらいの彼女がおそれる、さしでがましい驕慢さ。でも、この子が本当に求めていたのは……。

「言いたくないならいいよ、ごめん」

「いえ、……違うんです」

 再度振り向き、訴えかけるような表情をつくる。

 真摯なまなざし。

「私……謝らなければと思いまして」

「誰に?」

 もぞもぞと手足を動かす。

「その、み……お兄ちゃん、たちに」

「どうして?」

「それは……、なんといいますか……。今までお見苦しい姿をたくさん晒してしまったので……。自分でもみじめだなと思ってはいたのですが……」もぞもぞもぞ。

「まあぼくらのなかでは、おまえはそういう子なんだってことになってるけれど」

「あのですねえ……! いえ、すみません……。はぁ……。やはりそうですよね……」と、青菜に塩をふったようになってしまったので、

「でも、ちょっと素直になったよね」

 ぽん。

 と、頭をなでてやる。

 するとかりんはおどろいて、反射的に払いのけようとしたのか手をあげるものの、すぐに脱力したような感じになって、膝のうえにそっとしまい、最後には照れくさそうに顔を赤らめて、うつむいてしまう。

「ねーですよ……こんなのって……」とつぶやきながら。

「初めてか?」

「……はい」

 ぼくたちはそうやってしばらく心地よい沈黙のなかでお互いを感じ合っていた。決して尽きることのない黄金のような髪はぼくの手にさからわずなごやかな流線を描く。卵に目鼻といってもいいくらいの顔立ちは理智にかがやき、しかし自分自身の若さへの困惑をにおわせている。

「あの……」おもむろに口を開く。「いいんでしょうか、わたし……」

「なにが?」

「このまま、お兄ちゃんのところへ行っても……」

「ああ、もちろん。かりんがいいならね。きっとユキもよろこぶと思うよ。家族が増えて」

「家族……」と、まるでその言葉を、取り出して眺めるためであるかのように繰り返す。

「……ユキのこと、きらいか?」

「きらい、でした」

「そうか……」

 もしこのように言うことが許されるならば、彼女の心情は痛いほどわかる。いろいろと気を揉むことが多かったのだろう。魂の器をユキに取られ、輪廻の輪からはぐれたかりんの自我は、どこでもない無明の闇を彷徨っていた。救われることは、掬われること。彼女の胎内記憶は、それが物語られなかったゆえに救済されることがなかった。と考えることができる。話素がこの次元にはない物質だとすれば、そういうことも起こりうるのかもしれない。

「でも」と、彼女は果敢に言い張った。「それではいけないような気がします」

「仲直り、できそう?」

「わかりません。……でも、やってみます」

 ぼくたちは軽く笑い合った。きっとうまくいく。ユキとかりんは、たぶん不倶戴天の仲になるか、金蘭の友になるかのいずれかしかない。だけど人びとは互いを理解し、赦し合うことができる……こんな綺麗事を吐くのはぼくのキャラではないが、いいかげん、ぼくも向こう見ずになるのをやめて、少しは大人になるべきなのだ。そうだろうMAYU? 

「それにしても、よくぼくのことがお兄ちゃんだとわかったね」

「わかりますよ、そんなの……当たり前じゃないですか。人の想いの結びつきは、私たちが考えているよりずっと強いんです。こうして生まれたとき、私も自分の物語をもっていました。それは私が普通に成長して、お兄ちゃんと暮らしている夢でした。たぶんそれは、『可能性』という名の話素の集まりだったんです」

 実現されなかった夢か……。確かにそれは、物語そのものだ。

「けどそういえば、おまえはあのとき心を使い果たして成仏したんじゃ……。なんでまた……」

「ところでお兄ちゃん」

「話を聞け」

「愛をご存知ですか」

「愛……?」

 なんだそれは。

「まさか愛をご存知でないと?」

 え、なにその確認。こいつデレると意外と大胆なのか。それとも常軌を逸しているのか。

「……いや? 知ってる知ってる。愛だろ? うん、愛は引力だ。親和力だ」

「おや? 適当言うかと思ったら、案外いい線いきますね」

 いや適当言ったんだけどな。

「で、なんだよ?」

「あのですね……引力、もとい重力というのは、時間の干渉を受けません。というか、重力が時間に干渉します。相対性理論ですね。そして話素についても同じことが言えるんです。わかりますか? 愛というのは、時間概念を超越した、のことです。だからインターステラーじゃないですが、死んだ人の想いが時を越えて誰かを引きつけるということも、現象としては起こりうるわけです」

 なぜぼくたちはタクシーの中で唐突に愛を語っているんだろう。運転手も辟易するぞ。

「それじゃあなにか? まさかおまえは、愛の力によってよみがえったとでも言うつもりじゃあないだろうな?」

「フ……今の私は愛に生きる機械、ラブ・マシーンなのです」

 運転手が噴き出していた。

「今の世代に伝わるかは微妙だな……」

「何の話をしてるんですか?」

「おまえがかしこいのはよくわかったよ。さすがおっさんに育てられただけのことはある」

 どうでもいいけど、「じゅうりょく」って言うときのかりんの言い方がちょっとかわいい。じゅーりょく。十六と言おうとして噛んだみたいな。

「今何かラブいことを考えませんでした?」

「考えたよ、それがどうした」

「もっと考えてもいいですよ」

 デレてるなあ。これが愛の力か。

「そうだ、なあかりん、おまえ、風呂には入れるの?」

「なぜそんなことを訊くんですか? 別に入れますけど、いろいろな意味で気が早いのでは?」

「何を考えてるのか知らないが、そういう意味で訊いたんじゃない」

「いくら私がラブ・マシーンだとはいえ、そんな風呂で戯れようなどと、素人童貞みたいな浅はかな期待を抱かれるのはいただけませんね。服を脱いでほしいのなら、素直にそう言えばいいんです。一枚たりとも脱ぎませんが」

 こいつはほんと人の話をきかないな。まあ、あまり外界に出ることがないとそうなる。

「家に帰って、一旦ユキと仲直りしたら、銭湯にでも行こうと思うんだ」

「銭湯ですか?」

「行ったことないだろ。ぼくたちはたまによく行くんだ」

「ですが、なぜ?」

 大きな瞳に純粋な疑問とは別の何かがうかんでいる。

「実はぼくは昔からの風呂ぎらいでね。入るのが面倒で、ついつい後に回しがちになる。だけど入ってみると、やっぱり風呂はいいものだなと毎回感じるわけなのさ。ぼくはコミュニケーションもこれと同じだと思っている。要するに、案ずるより産むが易しだ」

「なんですかそれ……そういうものですかねぇ……」

 うん。

 ぼくは正論なんか言いたくないから、せいぜいこれが限界だ。

 あとはがんばれ。

 応援してる。

 トンネルを抜けたタクシーの窓に、なつかしい町の景色が映った。かりんは背もたれに身体をあずけ、やる気のなさそうな目で中空を見つめている。

「あの、お兄ちゃん……と呼ぶの、やっぱりやめてもいいですか」

「ダメ」

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