Unconscious
(ぼくの妹は息をしている)
パチン。
と、何かが弾ける音がしたとき、辺りは濃い暗闇に包まれ、広大な宇宙の涯てを、ぼくは上下左右も覚束ないまま漂っていた。ここはどこだろう。そう思っていると、やがて光り輝くシャボン玉が、ぼくの目の高さまで浮かび上がってくる。
はじめにひとつのシャボン玉があった。
シャボン玉はその球面にひとつの景色を映しており、どうやらそれは湯気の立ちこめる浴室のようなのだが、驚いたことに、そこで一人の少女が、肢体をあらわにしてシャワーを浴びている姿が見えている。
すぐに幻かなにかとわかったものの、シャボン玉の膜を透かして上から見えるその映像に、ぼくがつい嘆息を洩らしていたのは、決して邪な気持ちからではない。美しく引き締まった瑞々しい肉体には、誰をも赤面させるほどの魅力があろう。
それはぼくがいちばんよく知っている少女、アキの肉体だった。
ぼくは気恥ずかしさのあまり一度は目を背けてしまったが、己の興味心を抑えきれず、再びそこに目を落としている。彼女はこちらの気配にはまるで気づこうともせず、幸福そうに鼻唄をうたいながら身体を洗おうとしているのだが、生クリームのような、甘い香りがしてきそうなゆたかな泡を雪ぎ落とすことに忙しそうで、集中すればシャワーを流すその音までも耳に届いてくるような気がする。声をかけてみたかったけれど、こんな状態で気づかれた場合のことを考えてしまうとなかなか勇気が出てこない。それにしても、なぜアキのシャワーを浴びる様子が覗き見できているのだろう……。
そう考えているうちにふとあることに気がついた。あちら側で泡が消えると、こちら側で新しい泡が生まれる……。シャワーノズルを手に取りながら右肩についた泡の塊をアキがふうっと吹き落したら、どこからともなくたくさんの泡がぼくの周りに湧き出してきた。それらの球面にもまた、ひとつひとつに意味があるのか、それぞれに情景らしきものが映し出されており、霞んでいてややわかりづらいが、燈台、港、廃工場、鉱山、トンネル、花畑、夜明け前のネオン街、空をゆく飛行機、白い鳥、黒い蝶々、それに母に抱かれた赤子の姿まで……。
(あたしたちは夢に見られているかもしれない……)
パチン。
そのシャボン玉は割れてしまった。そのシャボン玉は消えてしまった。消える瞬間、言葉が生まれた。きらきらした言葉の欠片が。……ああ、そうかとぼくは思った、きっとこれは、話素の幻覚にちがいない、アキがシャワーを浴びながら思い浮かべていたことが、シャボン玉になって現れたのだと。想われた景色の夢は去り際に神秘の言葉をちりばめる。シャボン玉は想いの結晶。そして言葉は、放出された
(極楽鳥には足がないんだって)
(玉虫厨子の模型を作ろうよ)
(ロンドンデリー・エア)
(花束の中に、ひとかけらの氷を入れたの)
(お城に行く準備をしなくちゃ)
パチン。……それは夢のおわりの音かもしれない。消えてしまうのは少しさみしい。だけど言葉が残るのならば……。残るのならば、なんだろう? ぼくは透明な気持ちでふたたび耳をかたむける。あるものは月見草の花ことばを教え、またあるものは時を越えて巡り会う魂の確率を論じていた。それらはすでに厖大な数に及んでおり、その勢いは、シャボン玉の数が増えるにつれて洪水のようになりつつあるが、不思議と恐ろしいとは感じられず、むしろ突然現れたこの広大な幻想空間に、ぼくはしばらく目を奪われていたといってもいい。いつしか透明な光を帯びたいくつもの球体群は、自由に動き回りながら遥か遠くまで絨毯のようにひろがって、遠目には銀河のように見えてきた。もし……とぼくは思う。シャボン玉の言葉をすべて集めたら、小説ができるるのかもしれない。シャボン玉たちはしだいに銀河の一点へと吸い寄せられていくようだった。ぼくが見ているものは物語が生成される瞬間なのか……?
しかしシャボン玉に映されているのは、やさしく幸福な具象だけではなかった。ひとつの物語の欠片がぼくの目にとまっている。そこはどうやら、暗い病棟の一角のようだ。日当たりは悪く、自分自身の物陰に押し潰されたような不穏さが蔓延しており、よほどの急を要したのか、移動式のラックが変な場所で放置されている病室のなかは、すべてが無機質で息をすることも禁じられているかのように思われる。そこに病院特有のざらざらしたにおいはなく、あの大きな医療器具が規則的な電子音を発していなければ、時が止まってしまったかと思うほどだった。
一人の男、ぼくとは似ても似つかぬ男が、その部屋の中ですすり泣いている。ぼくにはなぜか、その男の気持ちが理解できた。彼は胸の裡に途方もない空虚を抱えている。それゆえに、あらゆる言葉が彼の中では反響していた。
男は窓際に据えつけられてあるひとつのベッドへ歩み寄り、そこで静かに目を閉じて、打ち棄てられたように眠っている少女――その横顔はどことなくアキに似ている――の手を取ってみる。わずかな日の光が、きれいな爪やきれいな顔に溶かし込まれて、あたたかみさえ感じられるその清浄な肌の様子は、彼女が生きていたときとまるで変わらない。男は思う、はたしてこれで、本当に死んでいると言えるのか。心電図の数値は安定している――心臓はまだ動いているのだ。大事なものは脳じゃない、大事なものは心臓だ。
だが脳死という状態にある彼女は、「臓器移植」の名の下に、内臓を一部分ずつもぎ取られ、最後にはこの心臓まで取られることになってしまう。そうなれば、彼女は二度目の死、本当の意味での死を迎えることになる。
彼女の意志では、それをどうすることもできない。
ぼくの意志でも、それをどうすることもできない。
「マユ――」
男はしめやかにその名を口にする。
ここにあるのは魂の抜け殻。
ぼくの呼びかけにはもう応えてはくれない。
手が届く距離にいるのに、声が届かない。
(役に立たない、もうひとつの、かなしみの器官)
「――感じるかね。
唐突にひびいてきた声にひどくおどろいたぼくは思わず背後を振り返る。そこにはぼくと同じように宙に浮いている爾在さんの姿があった。が、彼の様子には普段と違うところがある。それは、彼が目を開けているということだ。鷹のように鋭い眼光が、ぼくの目を貫いていた。
「爾在さん……」
「見本ケイ。この宇宙という原子において、君はひとつの殻に過ぎない」
ぼくは自分がなぜここにいるのかを思い出す。爾在さんの水想観に呑み込まれ、彼と一体になったのだ。ということは、ここは爾在さんの意識の内側なのかもしれない。だが、その記憶の数々が、ぼくにとって妙になつかしいものであるのはなぜだろう?
「有は夢から生じる。それが私の、第一の発見だった」
「爾在さん、あなたは……」
「見なさい」
ぼくは彼が指し示す広大な宇宙の涯てを見はるかす。そこにはシャボン玉たちがみんな大きな渦を巻きながら銀河の遠い中心点へ向かって泳いでいく光景があり、あまりにも離れたものは小さな銀砂のようにも見える。そしてなによりも霊妙なのは、その謎めいた全体像がいつか見た枯山水の模様に似ていることだった。
しかし、不可解な事象はそれだけではない――目を凝らして見ればわかるのだが、星のように細かなシャボン玉たちはただ寄り集まっているだけでなく、細胞のように組織化され、銀河の中心部にて、しだいにあるひとつの像を形成しているようなのだ。
驚くべきことに、それは両腕を交差させて肩を抱く人間の姿だった。
「あれは……?」
「
ぼくの目はその少女の像に釘付けになっていた。まだ意識がないのか、自分の殻に閉じこもるような体勢のままじっとしているが、やはりそれは少女の裸体そのものである。そしてぼくの目が節穴でなければ、その身体つきは先ほど見たアキのそれとほとんどかわるところがない! そんな輝ける幻の肉体が銀河のさなかから生まれ出ようとしているのだった。ぼくが絶句していたことは言うまでもない。なにか計り知れないできごとが目の前で起こりつつある……空恐ろしい反面、少なからぬ期待のうちにその様子を見守らずにはいられなかったぼくは、わずかながらも、少女が薄目をひらいたところを捉えた。
思わず遠くから言葉を投げかける。
「アキ――!」
その瞬間、ぼくの口の中から飛び出したシャボン玉がすごいことになった。精子のように泳いでいって、やがて少女の身体へ到達する。と同時に、彼女の全身を包んでいるように見えた膜状のものが、一息に解放されていたのであるが、中からいっそうかぐわしい、色あざやかな肉体が花ひらく――
(――ケ……イ…………?)
澄んだ鈴のような声が響きわたる。
「見よ!」興奮した声で爾在さんが言う。「これが私の研究成果のすべて――想像を超えた創造だ!」
しかし。
それもまた、ほんの束の間のできごとでしかなかったのだった。
パチン。パチン。
人の形を成していたシャボン玉が、ひとつずつ、壊れてゆく。
(――あた……しは……)
肉体の中に綻びが生まれ、すぐにばらばらにほどけてしまう……。
(――待っ……てる……)
言葉を発するたびに膨大な量のシャボン玉が消費されていった結果、後に残ったものは、残響する言葉と、深遠なる暗闇だけだった。供給と消費のバランスが釣り合っていないことは、誰の目にも明らかだった。
「……なぜだ」
そこには、実験に失敗したひとりの男の姿がある。
「まだ足りないというのか……。これだけの話素を注ぎ込んでなお……」
「……爾在さん」
ぼくは言った。
「あなたは、あの日恋人を喪って以降、一度も目を開けて現実を見てこなかったぼくだ」
彼は茫然と立ちつくしている。
「違う……私は……」
隙を窺って、ぼくは懐から一本の小刀を取り出す。爾在さんは禿げ上がった頭を両手で覆いつくしており、ぼくの行動に気づいていない様子だった。
「――ぼくを返してもらいますよ」
そう言って、ぼくはきらめく刃で自分の手首を切りつける。
物語の法則その二。
主人公は、自分との闘いに勝利しなければならない。
「――あああああああああああああああああ!!」
激しい痛みがぼくを呼び覚ます。視界が真っ白に包まれたあと、正常な姿に戻る。ぼくは元いた屋敷の一室に短刀を握りしめて立っていた。辺りに水など一滴もない。そのかわりに、左の手首から真っ赤な鮮血がどくどくと流れ出ている。とてつもなく痛い。だがこの実存的な痛みこそが、ぼくをこの現実に引き戻したのだ。
切れた数珠玉が畳の床に転がり落ちる。
「……まさか、私の水想観を破る者が現れるとは……」
見ると、目の前の爾在さんもまた同様に手首に傷を負っていた。どうやらぼくは、かりんから譲り受けた短刀によって、爾在さんの意識と完全に融合する前に、そのつながりを断ち切ることに成功したようだ。
そう。
ぼくという存在は、爾在さんの心から、この世のしがらみという感情が分離したものだったのだ。
ぼくは小説を書くために生まれた分身……。
繭を作る蚕に過ぎない。
だけど。
「物語はあなたの言うような、外部から規定されるようなものであってはならない。物語というものは、内部から迸り出る力によってときに作者や現実そのものを打ち破り、その先で何かをつかみ取るものでなければならないんです。爾在さん、あなたにぼくを止めることはできない。あなたが小説を書くより、ぼくが生きるほうが遥かに速い。ぼくはこれからも、ぼくのために物語を紡ぎ続けます」
「……ならぬ」
そのときだった、爾在さんの背後の襖が前触れもなく開かれていたのは――そして奥から金髪の少女が颯爽と姿を現したのは。ぼくは一瞬、信じがたい気持ちに囚われる。
「かりん……? よかった……やっぱり生きてたんだな……」
「…………」
「かりん?」
息絶えたはずの少女との邂逅。その歓びも束の間に、ぼくは異変に気づくことになる。彼女はうつろな瞳でじっとぼくを見つめたまま、動こうとしないのだ。
「
「……了解。リミット解除、エリミネイター・モード発動します」
なにやら機械的な応答なあと、かりんは頭につけていたカチューシャを外す。……それを目にした直後、ぼくの視界は激しく横転し、何もわけがわからぬままに床へと叩きつけられる。恐るべき身体能力を得たかりんに攻撃されたと気づいたときには、天井を仰いでいる状態だった。そして足蹴にされ、銃口らしきものが眼前に突きつけられている。……驚くべきことに、かりんの片腕がまがまがしき武器に変形されていたのだった。
「対象の征圧を確認。
「貴重な
「――了解」
「おい、かりん……! 目を覚ませ……っ!」
「無駄なことだ。これにはもう自我がない――意思のないただの人形(ロボット)なのだよ」
「なんだって……!」
かりんがぼくの身体に腕を回し、無理やり立たせようとしてくるが、その眼からは高貴なる輝きが失われ、もはやぼくのことを事物としてしか認識しない、淡々と命令を実行するだけの冷徹な機械仕掛けへと変わり果ててしまったように見える。これまでも意地悪な態度ならぼくに対して多々見せてきた彼女だが、今となってはそれすらも愛想の一種だったと思えてくるほど、大きく一線を画する変貌だった。だが、先ほどまではあんなに情緒に満ちあふれ、心の最も柔らかな部分までさらけ出した彼女だというのに、一瞬にしてここまで血も涙もない夜叉に成り果ててしまうものなのか。ぼくは信じられないと同時に、そんなことはあってはならないという絶望的な気持ちがした。そして、もっと長い時間を一緒に過ごしてきたはずなのに、短い判断で情け容赦なく道具として切り捨ててしまう爾在さんはやはり正気の沙汰ではない。
「甘美よのう、人の期待があえなく散るさまは。魂の別離と再会、そして裏切り……上出来ではないか。この上もない享楽……そうは思わぬか、見本ケイよ」
「あなたは狂っている」とぼくは拳を握りしめて言った。
「哀れな衆生に慈悲を授けたまでのこと」
「何が慈悲だ」
「やはり、私を超えることはできなかったようだな」
ぼくは後ろ手に拘束され、銃器を突きつけられたまま身動きが出来ない。
「なぜですか、なぜこんな非道いことを……! あなたという人はっ……! 仏の教えはどうしたんですか!」
野太い声がじっとりと近づいてくる。
「私は反証主義者でね。常に対立する概念を念頭に置くことで真理の限界を測るのだ……」
「ハゲ! こっちくんな!」
「少し大人しくしてもらおうか」
間髪入れず、鍛え抜かれた肉体から放たれた強かな正拳突きがぼくのみぞおちを的確に抉った。爾在さんが手を出したのは初めてだったがものすごいそれは一撃であり、ぼくは目が眩んだあと、声も出せないほどの痛みと苦しみに襲われる。拳が離れたあともその地獄の痛苦は消えるどころかいっそう深まり、自分自身を折り畳ませ、全身が呪われたように呻きを発した。
「これが力だ、少年よ、人はみずからが卑小な存在であることを自覚せねばならぬ。どうだ、息も出来ぬか。何も考えられぬであろう。それが肉体の本質だ。肉体が攻撃されれば意志もこれに屈従する。意志の強さは肉体の強さに比例するのだ。なにも君だけではない。いかな理智的な者といえども、この摂理には抗えぬ。憶えておきなさい。人が往々にしてこれを忘れるのは、苦痛が我を忘れさせるからだと」
「がっ……、は……っ!」
頭が真っ白になり、姿勢を保つこともできなくて、崩れ落ちそうになるが、かりんに支えられているのでそれもできず、そのせいで余計に悶え苦しむことになるとは、辛酸がこみあげ、途方もない敗北を嘗めることになるとは、まったく考えもしなかった。
もう、だめだ。
「地下で待っている。後ほどお目にかかろう――」
爾在さんが岩山のような背を向ける。朦朧とする意識のなかで、ぼくはわが人生のおわりを悟った。だからそれは、夢だったのかもしれない。その瞬間に見たものは、ただの幻だったのかもしれない。時間はぼくのなかでひどくゆっくりに感じ取られた。耳鳴りにしては大きすぎる轟音が吼えるように唸り、それと同時に目の前の岩山が崩れ、赤い鮮血が壁に飛び散っていくまでの間は。……まだぼくは、その場で何が起こったかを判断できる力を得ていなかった。だが続けざまに銃声が上がり――踏みとどまって振り返ろうとした一瞬の――爾在さんの身体を吹き飛ばしていたとき、ぼくは首と眼球を横に回してその姿を間近に捉えている。おそるべき冷酷さで手の甲の銃火器を発砲している金髪の少女の顔を。
「――先生には感謝しています」
彼女は哀切な微笑をうかべ、眼に涙を流していた……。
「私に嘘のつきかたを教えてくださったのですから」
ガアン! ガアン!
発射された弾丸が正確無比に爾在さんの眼窩を撃ち抜く――
「ぬうっ……! な、なぜだ……!?」
血を流しつつも彼は不死身のごとく起き上がろうとする。しかしそれを再び銃弾が制した。
「こっちです」
気がつけばぼくは、かりんに手をひかれていて。
「お、おまえ……」
二の句もつげないぼくに向かって、彼女はにへらと笑ってみせた。
「いきましょう、お兄ちゃん」
ああ……。
そうだ。
ぼくはいま、考えを改め直す時が来ている。
もし、人を殺すことでしか物語が生まれないというのなら。
物語なんて死ねばいい。
ぼくたちは走り出す。光の射す方へと。伏魔殿の主を置き去りにして。
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