Xmas

 ユキはかりんの肉体を盗んだことを謝罪し、かりんもこれまでの非礼を詫びた。一悶着あったものの、彼女たちが互いの存在を認め合い、こうして結束する意思を見せてくれたことを、ぼくは兄として誇りに思う。彼女たちには未来がある。遥かなる道の行く手に憩いをあたえる、大樹の幹にぼくはなりたい。彼女たちが疲れたときには、羽をやすめる止り木になりたい。

 ところで可憐なわが妹たちは年にして小学生の若さであり、小学生というのは、銭湯における男湯と女湯の宿命的な垣根を越えることができる至上の存在だ。……つまり何が言いたいかというと、ここには合法的な楽園ユートピアがある。ぼくはいま、全裸の美少女たちの肉体を男湯にて賞美していることを、ハーレムの王として誇りに思う。


 銭湯には独特のにおいがあり、それは女のにおいに少し似ている。厳粛な大浴場はぼくたちが入ったとたんにぎやかになった。

「くっ……! あのですね……私はこんな辱めを受けるだなんて許可していませんよ……!」

「ふん、何を今さら。さっきはものすごい勢いでぼくの股間に食いついてきたじゃないか、姫」

「あ、あれはその場の流れでそうなっただけです! あと姫ってなんですか、私は姫ではありません!」

 かりん姫は短い手ぬぐいで必死に秘部を隠しつつ、他の男どもの視界に入らぬよう、我先にと隅っこの流し場を陣取っている。対するユキはすっぽんぽんでも全く恥じるところがなく、「お風呂たのしーっl♪」と欣喜雀躍しながら浴場を駆け回って滑って転んで大いに泣いた。もし上手な転び方を身につけていなかったら大事に至っていただろう。

 ぼくとしてはユキの裸体など見飽きているのでここはかりん姫のうぶな姿を注視していたいところだが、それを考慮に入れすぎるとわが偉大なるチンポが勃起してしまうので、なるべく平静を装いながら隣に座って身体を流している。決して広くはない銭湯だが、高度成長時代の名残を思わせる古風な造りで、いくつかの湯船があり、そこには十人ほどの先客がいた。

「おい、縮こまってないで入ってきたらどうだ」

「む、無理ですよ、殿方がいらっしゃるところになんて」

「でも入らないと来た意味がないぜ」

「じゃあ帰りましょうよ、今すぐに」

 ぼくだって最初は普通に男女で別れて、妹たちは妹たちで裸のつきあいをするのがいいと思ったが、そういえばユキはぼくと来たときいつもきまって男湯に入っていたし、今回もなんとなくそうなってしまったのだった。

「まだまだだな。ユキを見習いたまえ」

 かりんが首を後ろに回して大浴場を瞥見した。そこには屈強な男どもに混じって湯浴みをする無邪気なユキの姿がある……。ぶるりと身震いをして頭からお湯をかぶるかりんだが、そのあとも鏡越しにユキを見て、おもしろくなさそうにため息をついていた。

「あの身体、私だったかもしれないんですよねぇ……」

 なんとも複雑な心境が垣間見られる一言だった。

 ぼくは思いきって言ってみる。

「かりんだって、充分いい身体してるよ」

 その肌はまさに八面玲瓏。生身にも引けをとらないばかりか、この世にありふれたどんな陶磁器よりもつやつやとして、肩などは解語の花の趣きがある。

「……どういう目線ですか、それ」

「こういう目線」

 もうもうと立ちこめる湯気のなかで、花瓶のような臀部にぼくが熱意のまなざしを向けると、かりんは生まれたままの姿でいることへの途惑いと羞恥に顔を赤らめる。かわいい。そう思ったのも束の間、次の瞬間ぼくは顔面にぴしゃりと冷や水を浴びせかけられているのだが。

「お兄ちゃんは、意外と大きい……というか、罪深い……いえ、毛深いんですね」

 ちらっ。

「それどういう目線?」

「知りませんよ、ああもう、死んでください」

 どうでもいいが、カチューシャを外すことにより発動する、エリミネイター・モードという設定が死んでいるな。

「おーい、ケー兄たちもおいでーっ♪」

 手ぬぐいを頭にのせたユキが、ぴちゃぴちゃと水音を立てながら、首から上をちょこんと出してぼくたちを呼ぶ湯船には、客が全員気を遣ったためなのか、もうほとんど誰もいない。大きな声が高い天井にはねかえってこだましていた。

「行こうぜ」

「ううっ……しょうがないですねぇ……」

 かりんが立ち上がっておそるおそる歩き出すと、まるで不可視の糸が引っかかったみたいに、いくらかの視線が連動して曲がっていく。ぼくは取り立てて特殊な性癖を持つ男ではないが、こうして一般利用客に思いがけない眼福をもたらすとともに、ある意味における顰蹙を買うことについて、いささかの快楽もおぼえないわけでもない。

 ただ、湯船から上がれなくなった爺さんが後々のぼせあがって失神したことについては申し訳なく思っている。

 置物のたぬきがいる風呂へ入った。

「はあ……極楽……」

 湯船に肩まで浸かっていると、思わずそんな言葉が出てくる。

 やっと心から落ち着けた。

 やはり風呂はいいものだ。

 生れ変わった気分になる。

「夢見心地、というやつですね」

「あとでアイス食べてもいい?」

「ああ、いいとも」

 ふたりとも髪を上にあげていて、顔もほてっているから、いつもとは違った感じに見える。ぼくはなんというか万感の思いがこみあげてきて、偽るところのない、あたたかな目でふたりを眺めていた。

 ぼくはべつになにかを成し遂げたわけではない。成し遂げようとしたことはほとんどすべて挫折した。それでも残ってくれたものがある。それでもぼくを好きでいてくれる人がいる……ああ、いいとも、いいとも。それでいいとも。ぼくはここにいる。ぼくは罪深いほど満足だ。おまえたちがたまらなくいとしい。

 だが、すべてはこれからだ。ようやくこれから人生が始まる。ぼくたちの冬休みは、まだ始まったばかりだった。

「二人には、夢がある?」とぼくは尋ねてみた。

「ユキはね、お月さまに行ってみたいなぁ」

「月に?」

「うん、それでね、農家をやるの。月の農家。地球のみんなに、月の野菜をとどけるんだ」

「子どもっぽいですね……」

 ぼくは笑った。

「それじゃあかりんは?」

「わたしですか? わたしは……今は特に……」

「ふーんそっかー」

「強いて言うなら、大人になりたいですかねぇ」

「おとなかぁ……」

 ぼくは二人の夢が叶った姿を思いうかべてみた。脳の中身は有限なのに、想像力に限りがないのは、なんと優雅なことだろう。心に余裕があるだけですべてが肯定的に見えてくる。もう二人とも愛くるしくて、今すぐ両腕で抱きしめてやりたいんですけど。

「自分の世界を大切にしなさい」とぼくは二人に言い聞かせる。「どんなことがあっても、それを手放してはいけないよ」

「先生みたいなことを言うんですね」

 まあそりゃ、同じ人間だったんだからな。

「……あれ? なんかヘンなのが浮いてるよ」

「ん?」

 おもむろにユキが湯船からすくい上げていたのは、見たところ何の変哲もない、すっかりふやけて醜くなった――一本の紐だった。




「さて……」

 髪を濡らした二人を先に帰らせて、ぼくは夜の街はずれを歩いている。だまって言うことをきいてくれたのは、やはりぼくがこれから何をしようとしているかを心の底では勘づいていたからだろう。

 開いているのを見たことのない質屋だったが、なんの因果か、その日ばかりは開いていた。かりんの言った通り、あの小刀は相当な値打ちのものであったらしい。質屋の店番をしていた老婆はぼくの差し出した品物を老眼鏡でためつすがめつ見るやいなや、大声で店主の爺さんを呼び、そうして二人がかりでの長い鑑定がはじまった。最終的に、ぼくは一人の高校生が持つにはあまりに多すぎる金額の対価を得ることになる。

 ぼくは雑踏の中に分け入り、輝かしいイルミネーションで縁取られた街の中をひとつの建物めざして進む。

 ぼくが感謝するべきは、今日という日が、まだ十二月二十四日であったことだ。

 ぼくたちにとって、クリスマスという行事はほとんど形骸化しているけれども、だからこそ、それは思い出を詰め込むための箱になる。未来の自分たちのためにこそ、記念日というものは大切にすべきだ。長い一日だったからこそ、できるだけ良い思い出で締めくくりたい。

 まだぼくは間に合う。

 まだぼくには時間が残されている。

 これがぼくの最後の仕事だ。

 ユキにはあの耳飾りを贈ってやろう。

 そしてかりんにも何か同等のものを選んでやろう。

 こうして二人は親愛の絆で結ばれた姉妹となる。

 それにしても、銭湯からの帰りというのは、どうしてこんなにも気だるいのだろう。まるで身体が溶けてなくなっていくかのようだ。ぼくのなかの浸透圧が下がり、行き交う人びとや、車や、信号や、大地や、風や、世界がどっと流れ込んでくるなかを、なんとかもがきながら泳いでいるというこの感じ。建物はゆらゆらと踊りだし、ぼくが目を向けたときだけ動きを止めているようにも見えた。眩暈のような幻がぼくを吸って成長していく……。

 一人の若い男とすれ違おうとしていた。その男は、ぼくになど目もくれずに遠いどこかを目指して一目散に駈けてくる。プレゼントの包装を小脇に抱え、上気した顔で息せき切って走るその姿を横目に捉えたとき、ぼくは長年の疑問がはじめて解消されたような心地がした。

 けっきょく、《夢喰い》とはなんだったのか。

 そして、ぼくが〈繭〉から出たことがこの物語のはじまり、だというなら、この物語がはじまる前、いったいぼくはどこでなにをしていたのか。世界が厳然と存在しているというなら、ぼくが〈繭〉から出る以前、この人生を歩んでいたのははたして誰だったのか。

 ……ぼくは〈繭〉から出たときに他人の人生に乗り移り、それを物語ってきたのではないか。

 もうひとりのぼくドッペルゲンガー――

「あ、れ……?」

 身体が、急に動かなくなった。

 なぜぼくは、こんなところで天を仰いでいるのだろう……?

 少し疲れたせいかな。

 眠いや。

 瞼が重い……。

 ここらで一息、入れておこうかな。

 ちょっと休憩したら、また出発しよう。

 路地裏の月は、手を伸ばせば掴めそうな気がする……。辺りはやけに静まりかえって、物音すら耳に入らない。ぼくがこんなにぼくから離れていくのはたぶん、ほつれた糸が引っ張り上げられているからだ。それなのに、どうしてこんなに罪深いほど満ち足りた気持ちなんだろう。この優美な旋律は、アキ、おまえが奏でているのか。天空の涯てから、ぼくをよんでくれているのか。それでも、まだぼくはそっちへは行けない。まだぼくはここでやり残したことがある。だからあと少しだけ待っていてくれ。

「あそこまで行かなきゃ……あそこまで……もう少しなんだ……」

 がんばれ、ぼく。

 がんばれ。

 でも。

 少し欲張りすぎたのかな。

 名残惜しいくらいが、ちょうどいいのかな。

 わかっていた。

 あの紐が切れたときから。

 ぼくはもう、ぼくではいられないのだと。

 くやしいけれど。

 かなしいけれど。

 夢が叶うことは、夢から覚めることだから。

 ぼくはもうここにいてはいけない存在……。

 MAYU。

 いまぼくの一部となれ……そしてぼくについてこい……ぼくがおまえを抱いてやる……それがいやなら眠っていろ……。

 ぱっくりと裂けた空の暗黒が、うまそうにぼくを睥睨している。

 ひとつの星が落ちていく。輝きながらゆっくりと下へ。

 ぼくの名前は見本ケイ。

 永遠の測量士の名を持つ男……。

 だけど、本当は違った。

 あの紐はミサンガなんかじゃなかった。

 あれはぼくが生まれたときに母親からもらった、かけがえのないものだったのだ。

 瞼がぼくを閉じてゆく。


 瞼の裏には、一枚の切符が印刷されていた。

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