第2話 謎の執事(改)

「さあお嬢様、早く。蹴るなら今のうちでございます」


 意味不明な言葉を口にする男の姿を、アレクシアは呆然としながら見つめる。

 蹴るなら今のうちだという言葉も意味不明だし、ローゼンバーグ家の執事だというその言葉も意味不明だ。

 加えて言うならこの異様な体勢――頭を低くしすぎて泥の中に頭を突っ込んでいるというこの体勢も完全に意味不明である。

 一体、この男は何なのだろうか。


「さあお嬢様、さあ」


「いや……蹴らないけど。それよりもう一度確認させてほしい。あなたがローゼンバーグ家の執事というのは本当なのか?」


 慎重に男の方へ近づきながら、アレクシアは問いかけた。

 するとその瞬間、男がずぼっと勢いよく地面から頭を出したので、うわっと声を上げながらアレクシアは慌てて後ずさった。


「はい。八年前のあの日よりお傍を離れておりましたが、わたくしは確かにローゼンバーグ家の執事に違いありません」


 泥まみれの美男子はやはりそう言った。

だがアレクシアはまだ信じられない。

 なぜならローゼンバーグ家に属する者はかつての陰謀の際、使用人たちも含めて全て殺された。

 生き延びた者もいるだろうが、すでに貴族ではないアレクシアの元に戻ってきたところで何の利益もないのだから、今更戻ってくるとは考えがたい。

 なのになぜ、彼は戻ってきたというのだろう?


「ああ、そんなに難しいお顔をして。せっかくの美しさが台無しでございます」


 男は微笑を湛えながらこちらに手を伸ばす。

 さっき湖岸に手をついたせいで泥まみれになっているその手が近づく前に、アレクシアは急いでそれを避けた。


「……いや全く意味が分からなくて。よければ分かるように一から説明してもらえないかな」


 アレクシアが言うと、男はうやうやしく頭を下げた。


「かしこまりました」


「まず、どうしてあなたは私がアレクシアだと分かった?」


 疑問はいくつかある。

 しかし最初に聞くべきは、八年間もローゼンバーグ家から離れていたはずの彼がなぜアレクシアの姿を認識できたのかということだ。


「ふふ、お嬢様はおかしなことをおっしゃいますね。私は執事なのですから、あなたのことならば何でも知っていて当然ではありませんか」


「何でも知っていて当然……?」


 予想外の言葉に、思わずアレクシアは目を見開く。


「はい。身体のサイズに好きな果実の種類、就寝時の姿勢など……お嬢様に関することでしたらわたくし、だいたい存じております」


「それは、本気で言ってるのか」


 にわかには信じられなかったアレクシアは、男を試してみることにした。


「なら確認させてもらおう。私の身長、体重、胸囲、胴囲は?」


 分かるはずがない、と思いながらアレクシアは男を見据えたが、そんな彼女に返されたのは驚くべき答えだった。


「そうですね……身長は5.8バース、体重は16.2アーグル。女性の平均よりも身長は0.46バース高く、体重は1.6アーグル多いので女性にしてはなかなか大柄な方ですね。胸囲は3バースぴったり、胴囲は2バースぴったりなのでスタイルはいい方かと思います。ただ少し筋肉が多いですね。筋肉量を二割減らして胸囲を1.9バース増やすと、わたくしの理想の体型になると存じます」


 流暢な答えにアレクシアは押し黙る。

 残念なことに体型に関するデータは一言一句間違っていなかった。

 そう、一言一句である。

 こんなのは普通、絶対に有り得ないことだ。


「お嬢様、どうかされましたか? 顔色がお悪いようですが」


 顔色が悪くなるのも当たり前だろう、とアレクシアは内心突っ込む。


「いや……その情報は一体どうやって得たのかと思って」


「どうやって、と言いますと?」


「いやだから……私はそんな情報、誰にも教えたことがないのに」


「ああ、それでしたら簡単でございます」


 男は突然右手で筒を作り、なぜかそれを右目に当てて、その筒越しにこちらを見た。


「わたくし、お嬢様の成長はずっとこの目で見届けて参りました。決してわずかな変化も見逃すことなく。ですから、解るのでございます」


「…………は?」


 斜め上なその回答に、アレクシアは目をしばたたかせる。

 もしかして手で作っている筒は遠視鏡か何かのつもりだろうか。

だとしたら、少し寒気がしてきたかもしれない。


「不思議なものですね、他の人の場合は全く分からないのに、なぜかお嬢様の場合は見ただけでその体型が手に取るように分かるのです。道具を使って数値を測らずとも。やはり……愛の力、でございましょうか」


「………」


「さあお嬢様、これでわたくしのことが分かっていただけましたか?」


「……ああ、なんとなく」


 不本意ながら、とアレクシアは内心付け加える。


「恐らくだが――あなたは今日いきなりどこかから現れたわけではなく、実は密かに私のことをずっと見ていて、たまたまこのタイミングで姿を見せたということなんじゃないだろうか」


「はい、ご明察です」


 悪びれる様子もなく男は頷く。

 まさかとは思ったが、本当にそうだったとは。

 ということは、今までずっとアレクシアのすぐ傍にはこの男がいて、アレクシアのこれまでの成長をどこかから見守っていたということではないか。

 あの陰謀からの八年間、ずっとどこかから。

 それを全く知らずに生活していたとは、驚愕というか戦慄というか――心の底からドン引きだ。

 しかし、そうなると新たな疑問が湧いてくる。

 なぜ八年間の沈黙を破り、今になって彼はアレクシアの前に姿を現したのだろう。


「お嬢様、そんなに難しいお顔をなさらず」


 そんなことを考えていたとき、突然男がアレクシアの頬に触れた。

 べちゃ、と泥が付く感覚に、アレクシアは思わず顔をしかめた。


「私はお嬢様にそんなお顔をさせるために来たのではありません。むしろお嬢様を窮状から救うために来たのですから」


「……私を救うために来た?」


 頬の泥を拭いながらアレクシアが聞き返すと、男はアレクシアの正面へ回り込んで片膝をついた。

 それはまるで、ひれ伏し、忠誠を誓うかのような仕草だった。


「はい。わたくしの知る限り、今のお嬢様は大変な危機に直面してらっしゃいます。ついさっきも、飢えて倒れられておりましたね」


「……まあ、それは」


 確かに彼の言う通りだ。

 アレクシアは現在、様々な危機に瀕している。

 まあその原因は主に、金がないという一点に尽きるのだが。


「ですからお嬢様にはぜひ、このわたくしをこき使っていただきたいのです。それはもう、ボロ雑巾のように」


「つまり……執事として再びあなたを召し抱えろということか?」


「その通りでございます」


 男は大きく頷いた。


「わたくしの身体は全てお嬢様のためのもの。探し物から復讐、暗殺、それに疑似恋愛のお相手からあらゆる欲望の捌け口まで、お望みとあらばどんな用途にもお使いいただけます」


「どうでもいいが、執事という職業が誤解されそうな台詞だな」


「お嬢様の趣味は確か他人を鞭打つことと記憶しております。ですから私と一緒に鞭で遊びましょう」


「やめろ、私の趣味まで改ざんするな」


 確かに今のアレクシアはかなり苦しい状況だ。

 だからそこから抜け出すための手助けをしてくれるというのなら、こちらとしてもこれ以上有難いことはない。

 これ以上有難いことはないのだが――。


「……残念だけど、助力はいらない」


 それでも、アレクシアは首を横に振った。


「なぜ?」


「助けてもらったところで、私にはあなたに支払える報酬がないから」


 そもそも金がないから、今こんな状況に陥っているのだ。

 人を雇うほどの余裕があるはずもない。


「ああ、そのことですか」


 しかしアレクシアの言葉を聞いてなお、男は微笑を崩していなかった。

 そして次の瞬間、驚くべき一言を口にする。


「構いませんよ。報酬など支払ってくださらなくて。というかそもそもお嬢様に報酬が払えるとは、私も初めから期待しておりませんから」


「……………は?」


 これにはさすがにアレクシアも絶句した。

 前髪にべったり泥がこびりついたまま微笑む美男子。

 しかし一瞬、その言葉に侮蔑のようなものが混じったように聞こえたのは気のせいだろうか。

 まるでアレクシアの状況を全て見透かし、嘲笑したかのように。


 アレクシアは警戒を強めた。

 この男……やはり何かがおかしい。

 一体何を考えているのか、全くもって見当がつかない。

 だって普通に考えておかしいではないか。

 執事として仕えるのに報酬を必要としてはおらず、しかもそれを初めから分かった上でアレクシアに声をかけたなどと。

 あまりにも奇妙すぎるし、得体が知れなすぎる。


 ただ……その一方で、アレクシアは揺さぶられてもいた。

 今のアレクシアの状況はあまりにも八方塞がりだ。

 しかしこの男の力を借りることができるのなら、この現状を変えることができるかもしれない。


 しばらくの間、異なる二つの感情がアレクシアの中でぶつかり合った。

 この奇妙な男の誘いを受けるか否か。

 もし受けたとすれば、何らかの代償を覚悟しなければならないかもしれないが――。


「私のことを疑っておいででしたら、先に疑いを解かせていただきましょう」


 やがて沈黙を破ったのは男の方だった。


「お嬢様は覚えてらっしゃいませんか、あの日のことを」


「……あの日?」


「ええ。忌まわしき陰謀により、ローゼンバーグ家が陥れられた日のことです」


 男の黒い瞳が、じっとこちらを見据える。

 異様な暗さを湛えた目だ。

 それを見つめ返し――アレクシアははっと息を呑む。


「どうかあの日のことを思い出していただきたい。そして考えていただきたい。なぜあなたが今、ここにいらっしゃるのか。あの燃える屋敷からなぜ、あなた一人だけが生き残ることができたのか」


 にわかに背筋を冷や汗が伝う。

 陰謀により城が全焼したあの日、確かにアレクシアは生き残った。

 燃える城から逃げ出し、今の修道院へと身を寄せたのだ。

 だがそれは自力にではない。

 そう、あのとき誰かがアレクシアを炎から救い出し、そのまま馬に乗せて修道院まで連れて行ってくれたのだ。

 決して追手に捕まらぬよう、アレクシアを守りながら。


 だが燃え盛る炎の印象があまりにも強すぎて、実は助け出してくれた人物そのもののことはあまりよく覚えていなかった。

 顔も、声も。

 しかもその人自身はアレクシアを修道院へと預けた後すぐにどこかへ去ってしまったから消息さえも知らなかった。

 唯一覚えていることがあるとすれば、その人物の瞳。

 それは揺らめく炎の中にも黒々と光る瞳だったのだ。

 そう、まるで今目の前にあるこの双眸のような――。


「……まさか」


 恐ろしげにアレクシアが呟いた瞬間、男は意味ありげに頷く。


「あなたが……私を助け出した人物だったのか?」


「左様でございます」


にっこりと、男は甘ったるい笑みを浮かべた。 

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