第17話 金以外の報酬を
「半刻もしないうちに夜が明けますわ。今のうちにお帰りなさい」
窓際で地上の衛兵たちの動きを見ながら、夫人が言った。
荷物をまとめたのち夫人の隣に立つと、山の稜線がわずかに光っているのが見える。
夜が明け始めているようだ。
「では……また、いずれ」
「ええ、待っておりますわ」
「どうかミレーネ様も、御息災で」
「ええ」
夫人の笑顔を背に、アレクは来たときのように窓の縁に足をかける。
そして窓の外へと体を出そうとしたそのとき、ふいに夫人が声をかけてきた。
「あ、ねえ――」
アレクは顔を上げ、首を傾げる。
「最後に一つだけ聞かせて、没落貴族の貴公子さん」
「なんでしょう」
「あなたの本当のお名前は、何とおっしゃいますの?」
夫人の問いを受け、アレクはうやうやしく胸に手を当てた。
「……騎士を目指す者、アレクシス・ローゼンバーグです」
ローゼンバーグという呪われたその名を聞き、夫人が驚きに満ちた目でこちらを見つめる。
しかしアレクはそれ以上は何も言わぬまま、窓の外へと飛び出した。
城の近くの森で待機していたレナスと合流したのち、詳しいことは城に帰ってから話すと言い、帰路についた。
行きと同じように途中で馬車を捕まえ、エクトリス城を目指す。
それから午前中の時間をほとんど馬車内での睡眠に費やし、太陽が中天に達する頃、ようやく城へと帰着した。
「……さて、それではお聞かせください」
城に帰ると、レナスは温かい茶を淹れてくれた。
それを執務室の簡素なテーブルに置いたのち、二人で向かい合わせに座る。
「まず、どうしてそんなに清々しいお顔をされているのか、それを聞かせていただかなくてはなりませんね」
「清々しい顔……? そんな顔をしてるかな」
「ええ、しておられます。行く前はあんなに嫌がっていたというのに。一体何があったというのですか?」
言われてみればそうだ。
行く前は憂鬱だったのに、夫人に会ってからは全く変わった。
「私の顔が晴れているとしたら、それはきっとミレーネ夫人のおかげだよ。夫人はとても素晴らしい女性だったから」
するとレナスは怪訝そうに眉をひそめた。
「なんだか抱いてきたみたいな台詞ですね」
「……は?」
「ああ、もしかして本当に抱いてきたのですか」
「………」
「童貞卒業おめでとうございます。よかったですね」
色々と突っ込みたいが、どこから突っ込んだらいいのかも分からないのでもう何も気にしないことにする。
「……私が夫人を讃えるのは、彼女がこれを私に渡してくれたからだ。彼女は私に邪な企みがあると知ってなお、私を信頼してくれた」
答えながら、アレクは夫人から貰った包みを見せた。
しかしレナスは意味が分からないといった様子で首を傾げる。
「愛人には報酬を出すと触れていたのですから金を払うのは当然では?」
これはきちんと説明した方がいいだろうと思い、アレクは夫人に真実を打ち明けたことを話し始めた。
「なるほど。一切の行為を提供せず頭を下げて金だけをいただくという尋常ならざる真似をやってのけたのですね。さすがは我が主……やはり魔性の魅力の持ち主でございます」
全ての説明を終えるとレナスはうやうやしく頭を下げ、感想を口にした。
「悪口ならせめて当人のいないところで言ったらどうだ」
「とんでもない、わたくしは称賛しているのでございます。だってそんながめつい真似、わたくしには絶対にできませんから」
「………」
「口先だけで人を騙す詐欺師などよりよっぽど次元の高い天然の女たらしでございますね。御見それいたしました」
なんだかすごく腹が立つが、実際その通りなので言い返すことができないのが悔しい。
「そうだ、レナス」
さっさと話を変えようと、アレクは夫人から借りた金貨の包みを開いた。
そしてそこから十枚を取り出し、レナスの方へと差し出す。
「今回のことが無事に終わったら今までの出費を報酬として渡す約束だったね。私の衣装代にフラヴィとマリエルへの報酬、購入した導力器、もろもろの移動費、宿泊費、飲食費……全て含めてこれくらいで足りるだろうか」
パラキア帝国の金貨といえば一枚でも相当の価値だ。
それが十枚というとかなりの額だし、それだけの額を立て替えてくれていたレナスにはかなりの負担だったと思う。
ようやく返せるとあって、アレクはほっとする思いだった。
しかし振り返ったレナスはなぜか興味なさそうに肩を竦めたかと思うと、驚くべき言葉を口にした。
「……いりませんよ、私は」
「は?」
「私は金に困っていませんし、払ってくれとも言っておりません。無駄に私に渡すぐらいなら、お嬢様がご自分で持っていた方がよろしいのではないでしょうか」
これにはアレクも面食らう。
最初からどうれもよさそうにはしていたが、なんだかんだ受け取ってくれると思っていたのだ。
まさかこんな風に撥ね付けられとは。
「いや……でも、相当な出費だっただろう?」
「普通の方からしたらそうかもしれませんね」
「君にとっては違うのか?」
「さあ、どうでしょう」
「はぐらかさないでくれ。もし負担を強いているなら嫌なんだ」
「ならはっきり申しましょう。心配は無用ですよ。これでもお嬢様の執事になる前は、かなり払いのいい主に仕えていたんです」
「前の主?」
少し興味を惹かれ、アレクは身を乗り出した。
前の主というのはやはり貴族だったのだろうか。だとしたら一体誰だろう。アレクの知っている人だろうか。
しかし興味本位の質問は、やんわりと押しとどめられてしまった。
「詮索は感心しませんね。とにかく現金は結構です。私には必要ありません」
「でも借りたままというのは、なんだかいい気がしない」
「では以前も申した通り、貢がれたと思われればいいでしょう」
「余計に心苦しいのだけれど」
「ほう、つまり私からの金など受け取れないと?」
「いや、そういうわけではなくて……」
一瞬レナスの笑みに悲哀のような色が混じる。
別にこちらも彼の厚意を撥ね付けたいわけではない。
どう言えばそれが伝わるのだろうか――アレクが真面目に考えていたときだった。
「ふむ、では――ああ、そうだ!」
突然レナスが声を上げたかと思うと、彼はにっこり笑いながらアレクの傍までやって来て、彼女の目線に合わせてしゃがみ込んだ。
「お嬢様、いいことを思い付きました!」
「嫌な予感がする」
「せっかくなので、金以外で報酬をいただくことにします」
「…………は?」
「というわけで、そのまま動かないでくださいね」
「――え、いやちょっと待った」
なんだかものすごく嫌な予感がする。
これは以前の鞭のときと同じような話の流れではないか。
「待て、変な方向に話を進めるな。いいから金を受け取って――」
しかし再びアレクが金貨を握り、渡そうとしたときにはもう、レナスは目の前まで迫っていた。
彼はそのままアレクの肩を椅子に押し付ける。
両肩を強く押されていては、身動きが取れない。
どうにかアレクは足で蹴り上げようとするが、アレクの思惑に勘付いたレナスがそれより先に片膝をアレクの腿の上に乗り上げ、動きを封じた。
「――お、おい!」
「金貨を渡そうとしたせいで反応が遅れましたね。いくら力自慢のお嬢様といえ身長は私より低いですし、恐らく体重も私の方が上でしょう。全力で重さをかければ身動きはできないはず」
「ふざけるな、やめ――っ」
それからはもう、驚く間もない。
気付いたときにはレナスの整った顔がすぐ傍まで近づいており、鼻の頭に吐息がかかっている。
腰に回された手はさらに上へと這い上がり、アレクを抱き寄せるような形になっていた。
アレクは身をよじり、どうにかレナスを止めようとする。
そのときだった。
「アレクシアアアアアアアアアアアァァァァァァーーーーーッッッ!!」
轟くような叫び声と共に、執務室の扉が開かれた。
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