第29話 月光の下で

 レナスを社交界で見たことがある――そんなエスティードの告白に、アレクはただただ固まるしかない。

 だってまさか、本当にそんなことがあるのだろうか。


「俺も初めは見間違いかと思った。姿も以前見たときとは全く異なっているようだったしな。だがあの瞳……深い闇を抱えたあの瞳を見て確信した。やはりあいつに間違いない」


 レナスは瞳に強い力を込めて言った。

 それについてはアレクも同感だった。

 最初にレナスを見たとき、アレクもあの瞳の暗さにどこか不気味な印象を抱いたものだった。

 そしてアレクが自分を助け出した人物について思い出したのも、あの瞳の印象からだったのである。


 ただ――それにしても奇妙な話である。レナスが社交界に出入りしていたなどと。

 彼はただの執事ではなかったのか。


「けれど……それが本当だとしたら、君は何が言いたい?」


 額に手を当て、唸るようにアレクは尋ねる。


「決して油断するな、と言っておきたい」


「……油断?」


「ああ」


 一歩、エスティードがこちらへ近づく。


「奴がどのような立場の者かは知らないが、もしかしたらお前を監視しているという可能性がある」


 エスティードの言葉に、アレクは顔をしかめた。


「そんな馬鹿な。私は城も財産も勲章もないただの没落貴族だったんだぞ。そんな私をわざわざ監視して、一体何の得がある?」


「それは俺も分からん。だが先ほどの表彰会を見るに、お前は火種になる可能性はあるようだった。使い道がないわけではない」


「けれど――」


 納得しないアレクの肩を、やがてエスティードが掴んだ。

 そして彼は強い眼差しでこちらを見据え、言い聞かせるようにゆっくりとこう口にした。


「いいかアレク。貴族社会に巣食うのはお前が想像もつかないような魑魅魍魎どもだ。金も人も情報も、権力次第でどうにでもなる」


「………」


「そんな中、どこで誰が何を考えているかなど、簡単に判断してはならん。お前の知らないところにも真実はあり、お前の想像を遥かに超える悪意も確かに存在しているのだ」


 有無を言わせぬその瞳に、アレクはごくりと唾を込んだ。

 彼が真剣に忠告してくれていることは、嫌というほど伝わってきた。


「……分かった。君の言葉を胸に刻んでおく」


「うむ、分かればそれでいい」


「けれど君は、なぜ私にこんなにも真摯に忠告を?」


 アレクがそう尋ねると、エスティードはなにやら突然目を細め、悪戯っぽくにやりと笑った。


「それはもちろん、お前の信頼を得て付け入るため――」


「……は?」


「だったらどうする? はっはっは」


 なんだか遊ばれている気分である。


「ああ、そういえば」


 ふと思い出したようにエスティードは言い、何かを長い袖の襞から取り出した。


「忘れるところだった。これをお前に渡そうと思っていたんだ」


「これは……?」


 エスティードから差し出されたものを受け取り、アレクは目を落とす。

 丸められ、紐で括られた書簡のようなものだ。


「つい先ほどしたためたヴィルクント家への招待状だ。それを門番に渡せばいつでも城へ入れるようにしておく。お前の好きなときに遊びに来るがいい」


「招待状……? そんなもの貰っていいのか!?」


 まさか十二騎士の城に招待されるなど、思ってもみなかったことだ。

 イーザーのジスカール家の城にさえ、没落した後は外聞が悪いからと入れてもらえなかったのに。


「でも私のような者が行けば君に迷惑がかかるんじゃ……」


「はっはっは! その心配は無用だぞ」


 アレクの憂慮を、エスティードは快活な笑いと共に一蹴する。


「俺は十二騎士でも末席に近い第十席。その上、社交界一の変わり者だ。外聞など気にしたこともないし、貴族のくだらん矜持にも興味はない」


「けれど……」


「お前を友と見込んだのも、その飾らぬ人柄ゆえだ。騎士などやっているとお前のような人物と出会えるのは貴重でな、この出会いを無駄にはしたくないのさ」


 まさに無償の好意だ。

 自ら近づき力になってくれた点はレナスと同じだが、彼とは違ってエスティードからは一切の不穏な思惑を感じない。

 少しの思案ののち、アレクは大人しく招待状を受け取ることにした。


「分かった。ありがとう、本当に」


「礼を言うならこちらの方だ。久々にまともな奴と話ができて楽しかったぞ」


「本当に君は変わった騎士だな」


「ははは、褒め言葉と受け取っておこう」


 それから別れの言葉を交わし、アレクはエスティードと別れた。

 馬車で遠ざかっていくアレクに、彼はしばらく手を振ってくれていた。



 ◆◆◆



 ごとごとと音を立て、左右に揺れながら馬車は進んでいく。

 そのうちにミゼット城は徐々に遠くなり、やがて周囲の光景は何もない平原へと変わっていった。


「お疲れ様でした、お嬢様」


 馬車の中、隣に座ったレナスが冷たい水に浸した布を手渡してくれた。

 アレクはそれを受け取り、額や首筋を拭う。


「君の方こそお疲れ様」


 ある程度拭い終わると、アレクはレナスに向けて深々と頭を下げる。


「今回のことについては改めて礼が言いたい。どうもありがとう。イーザーやエスティードも力を貸してくれたけれど、それ以前に君がいなければ絶対に優勝はできなかった。心から感謝している」


 驚くほどに精密な射撃と、こちらの要求に完璧に応える柔軟性。

 そういった彼の能力がなければイーザーから旗を奪うことはできなかったし、それ以前に最初の階段を上がることすらできなかっただろう。

 彼に関して色々と思うところはあるものの、そう思うと自然と頭は下がった。


 そしてレナスはというと、アレクの素直な感謝をぽかんとした顔で聞いていた。

 しかし数秒後、はっとした様子になると、突然アレクの手を取り、いきなり手の甲に口付けを落とした。


「お嬢様、結婚しましょう」


「………は?」


「お嬢様の求婚のお言葉、しっかりと頂戴いたしました」


「……何言ってるんだ?」


「私がいなければ優勝できなかった……それはつまり、お嬢様は私がいなければ生きていけないということでございます。そうですね?」


「もしそう聞こえたなら、今すぐ病院に行った方がいいと思うぞ」


 レナスの手を払うと、彼は悲しそうにああ、と嘆息した。


「ところでお嬢様、先ほどエスティード様とは何を話しておられたのですか?」


 それから彼は突然そう尋ねてきた。

 まさかそれについて触れられると思わず、アレクは一瞬びくりとした。


「その反応、まさか私に言えないような恥ずかしいお話を?」


「するか!」


「ではどのようなお話を?」


「いや、普通に……これからも友達としてよろしく頼むという話をしただけだ」


 決して嘘は言っていないはずだ。

 真実も言ってはいないが。


「なるほど、お友達ですか」


「ああ。私にとっては初めて作れた友達だから」


「ふむ……ということは、よく考えれば今までのお嬢様は両親なし、兄弟なし、友達なし、恋人なし、配偶者なしの悲惨な状態だったんですね。お可哀想に」


「本気で惨めになってくるからやめろ」


 それからしばらくの間、二人はそうして談笑しながら馬車に揺られていた。



  ◆◆◆



 手に収まるほどの小さな勲章を握り締めながら、アレクは馬車の窓にもたれかかっていた。


 あらゆる生き物が眠る夜更けの時間だ。

 すっかり辺りは暗くなったが、まだ馬車は城に着いていない。

 空にはまばゆい星たちが輝き、ときおり涼しい風が吹き込んでは白いカーテンを揺らしている。

 しかし真夜中の静寂も、アレクの心を鎮めてはくれなかった。

 夜空の澄んだ静けさに反比例するかのように、彼女の心はゆらゆらと揺れ動いている。

 原因は間違いなく、別れ際のエスティードの言葉だろう。

 レナスのことについて彼から忠告を受けたときから、城へ帰ってくるまでずっと、アレクの心は落ち着かないのだ。


 ふとアレクは視線を横に移動させた。

 隣には、月光に照らされ死人のように青白い顔をした従者の男がいる。

 さすがに疲れたのか、彼は座席にもたれて目をつむっていた。

 まあ抜け目のない彼のことだから、本当に眠っているのかどうかは分からないが。


 いつしか彼の助力に慣れ、思考を放棄している自分がいたのかもしれない、とアレクは思った。

 ローゼンバーグ家の執事と名乗り、近づいてきた男。

 無償でアレクに仕えると言い、家の再興のために力を貸すと言ってきた男。

 しかし彼の目的は未だ分からず、素性も一切謎のまま。

 だが、やはりおかしかったのだ。

 導力器をいくつも購入できるほどの財力があることも、あまりに精密すぎる射撃能力を持っていることも、騎士であるイーザーやエスティードを前にしても不遜な態度を崩さないところも。

 どれも普通の執事ならば、絶対にありえないことなのだから。


 美しいその横顔をアレクはじっと見つめる。

 彼は一体、何者なのだろう。

 彼の瞳の中に宿る深い闇、不可解な行動、その動機……。


 改めて、きちんと見極める必要があるとアレクは思った。

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