第3話 悪魔の契約(改)

 アレクシアはごくりと唾を呑み込んだ。

 家族も城もなくしてから、彼女が唯一再会を望んでいた相手。

 いずれ必ず再会し、感謝を告げたいと思っていた命の恩人。

 それがまさか――こんな変人であったとは。

 長年再会を望み続けていた分、なかなかにショックな事実である。


 だが彼があのときアレクシアを助けてくれた人だったのなら、今までの話には全て説明がつく。

 アレクシアの名前を知っていることも、彼女が置かれている状況を知っていることも、彼女を助け出して修道院へ連れて行った人物ならば知っていて当然のことだ。


「……そうだったのか。ならひとまず礼を言わせてほしい。あのとき私を救ってくれて、本当にありがとう」


 まだ若干衝撃を覚えながらも、アレクシアは深く頭を下げた。

 すると男は上機嫌にふふ、と笑った。


「これで私が無償で手を貸すと言ったわけもお分かりいただけると思うのですが」


「私に対する忠誠心、と言いたいのかな」


「その通りでございます」


 しかしこちらに関しては、易々と鵜呑みにする気になれない。


「なら疑問がある」


「なんでございましょう」


「あなたはなぜ、今になって現れたのか」


 もし忠誠心で動いているなら、これまでだって何度も助力を申し出る機会があったはず。

 少なくとも八年間アレクシアを修道院に入れたまま放置はしなかったはずだ。


「この八年間、あなたは一度も姿を現さなかった。それなのに今、突然現れた。その理由を聞かせてほしい」


 アレクシアが尋ねると、男はなぜか突然頬を赤らめた。


「わたくしお嬢様のことは心から愛しております。……が、さすがに十八歳以下は対象外でございまして」


「ん?」とアレクシアは首を傾げる。

 ……ちょっと言っている意味が分からない。

 彼が言う対象とは一体何の対象のことなのだろう。

 そしてなぜ頬を赤らめる必要があるのだろう。


「きちんとお嬢様が十八歳となられたのを見届けてからお迎えに参ったというわけです」


 ああ、なるほど、成長を待っていたということだろうか。

 それならば理解できなくはない。

 幼い主人に仕えるのは使用人としても苦労が多いだろうし、成長したのちに改めて忠誠を誓うというのは十分に有り得ることだ。


「ではもう一つ聞いてもいいだろうか」


「ええ、なんなりと」


「あなたは私を主にしたいようだが、私はただの修道女で今や屋敷も城もない。まさか修道院に押しかけるわけではないと思うが、それなら一体どうやって仕えるつもりなのか」


 通常、執事というのは家に仕えるものだ。

 けれど今アレクシアにはその家自体がないし、仕えると言われたところで彼に与えられる住まいも仕事もない。

 もし仮にこの男の忠誠心が本物だとしても、ただの修道女に仕えようなどというのはいくらなんでも酔狂だ。


「ふふ、お嬢様はおかしなことをおっしゃいますね」


 すると男はもじもじと手を合わせ、恥じらうように顔を赤らめた。


「そんなの、もちろんお城で末永く一緒に暮らすに決まっているではありませんか。だってお嬢様は騎士侯爵ローゼンバーグ家のご息女で、私はお嬢様のたった一人の執事なのですから」


「……元、騎士侯爵だけれど」


「大して変わりません。だってお嬢様は、一生修道女でいるつもりなんかさらさらないのでしょう?」


 どういうことかと思い、アレクシアは一瞬固まった。

 そして数秒ののち、はっと息を呑む。

 ローゼンバーグ家の執事だと名乗る謎の男。

 彼がわざわざ自分のところに押しかけてきた理由。

 彼が修道女としてのアレクシアを否定する理由。

 それは、もしかして――。


「――あなたは、私の目的に加担すると、そう言いたいのか」


 アレクシアがそう言った瞬間である。

 男はまたしても地面に膝をついたかと思うと、こちらに向けて低く頭を垂れた。


「はい。その通りでございます、我が主」


 なるほどとアレクシアは思った。

 ただの修道女に仕えたところで何のメリットもないが、十二騎士となれば話は別だ。

 金、地位、あらゆる権限。

 十二騎士の座に返り咲けばそういったものの全てが手に入るし、それらを目当てにアレクシアに近づいたということなら彼の意図はよく理解できる。

 八年間もアレクシアを見守っていたというのなら十二騎士の座を取り戻すという彼女の目的も知っていただろうし、きっとそれに目を付けたということなのだろう。


 だとしたらなかなか油断できない男である。

 しかしそれでも、こうして自ら手を貸すと言ってくれたのだ。

 この機会を逃せば、もう彼女に協力を申し出る人間など現れないかもしれない。


「……分かった。そういうことなら構わない」


 やがてアレクシアは男の方へ一歩近づき、頭を下げる男に自分の手を差し出していた。


「見返りは、成功報酬ということで構わないのかな?」


「もちろんでございます」


 差し出されたアレクシアの手を取り、男は手の甲に口付ける。


「私の名はレナス。あなたの執事、レナス・エーベルハルトでございます」


「ああ」


「なんなりとご命令くださいませ、我が主」


「こちらこそよろしく頼むよ、レナス」


 それからアレクシアは差し出した手を引っ込めようとした。

 しかしなぜかそうすることができない。

 見るとまだ男が彼女の手を掴んでいる。

 何のつもりかと思っていると、やがて男はうっとりとアレクシアの手の甲に顔を寄せ、そのまますりすりと頬ずりをした。


「ああ、お嬢様のお手……なんともごつごつしていて逞しい……」


「………」


「硬くて大きくて、とても女性の手とは思えません。まるで百戦錬磨の武将のよう。ですがこの逞しさが却って情欲をそそるのです。世の中とはかくも不思議なものでございますね……」


「……不思議なのは君の嗜好じゃないのか」


 皮肉を返しながらアレクシアは無理やり腕を引っ張るが、男は離れない。


「どうでもいいけど、さっさと離れてくれ」


「嫌でございます。もう少々堪能したく思います」


「心の底から気持ち悪い奴だな……離れないのなら蹴るぞ」


 脅すつもりで、アレクシアはつま先を男の目の前に構える。

 するとその瞬間、なぜか男はぱあっと顔を輝かせた。


「よろしいのですか!?」


「…………は?」


「ああ、こんなに早くお嬢様に蹴っていただける日が来るとは! さあ、どうぞ存分にお蹴りください!」


「………」


「早く! さあ早く!」


 顔を紅潮させ、早くと連呼する男。

 その興奮した顔を見つめ、アレクシアは眉間に深くしわを刻んだ。

 変な人物だとは思っていたが、どうやら予想以上だったらしい。

 これは間違いなく――やばい奴だ。

 アレクシアは数秒間考えたのち、やがて男の首元に手を伸ばした。

 そしてそのまま両手で首を包み込み、思い切り圧迫する。


「…………んんんんっ!?!?」


 男が声にならない悲鳴を上げる。

 かなり苦しそうだ。

 さすがに死んだら困ると思い、アレクシアはやがて手を放してやった。


「はあっ、はあっ、はあっ……」


「……少しは懲りたか」


 そして一応助け起こしてやろうと、手を伸ばす。

 しかしその途端、男の顔がさっきよりさらに赤く染まっていることに気付いた。

 黒い瞳も焦点が合っておらず、どこか恍惚とした様子だ。

 乱れた吐息には異様な熱が感じられ、なんだか――やけに艶めかしい。


「はあっ、はあっ……お嬢様、ありがとうございます……! 新しい境地が見えたような気がいたします……!」


「………」


 ああ、これは本物の変態かもしれない。

 しばらく悶えている男の姿を眺めながら、アレクシアは彼の申し出を受け入れたことを早くも後悔し始めていた。



  ◆◆◆



 しかしその十分後、アレクシアはさらに後悔することになる。


「これは……一体」


 とうとう観念して差し入れの揚げ魚サンドを食べさせてもらったのち、びしょ濡れの服のままでは風邪をひきますと言われ、レナスの利用している宿の一室に入った後のことだった。

 レナスから手渡された着替え一式を見て、アレクシアは呆然とした。

 彼から預かった着替え。

 それはなぜか、すべてが男物の洋服だったのだ。


「ああ、まだ言っておりませんでしたね」


 アレクシアの問いにレナスはにやりと微笑み、こう言ってのけた。


「僭越ながら、お嬢様に協力するのには一つ条件がございます」

「条件?」


「ええ。それはあなたが男装することです」




「……………は?」


 アレクシアは盛大に顔をしかめた。

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