第15話 欲望の攻防
「……ええ、そうなんですの。旦那様ったらいつも酷いんですわ。自分ばっかり帝都へ出掛けて、お前は城で大人しく待っていろって言うんですもの」
「ははは、それだけ大事にされているということではありませんか」
「ですけれど……放っておくくせにわたくしが他の方と遊ぶとすぐに怒りますの。ねえ、それっておかしいと思いませんこと?」
「そうでございますね。ミレーネ様が寂しがるのも無理はありません」
「ふふ、アルカンジェロは本当にいい子ですわ」
しばらくの間、アレクと夫人はにこやかに談笑していた。
会話は一見ごくごく穏やかなものに見えたが、しかしその節々には危うい気配があった。
「……ねえ、アルカンジェロ。そんないい子のあなたなら分かるかしら? わたくしが今何をしてほしいのか」
ふっくらとした唇に指を当て、夫人は試すように言う。
このように夫人はときおり誘うような言葉をアレクに掛け、こちらがどう出るかを窺っているのだ。
そのたびにアレクはレナスから教わった様々な技を思い出し、どうやって嫌な印象を与えずにかわせるかを考えた。
「ええ、もちろん。分かっております」
アレクはテーブル越しに前かがみになり、夫人の方へ手を伸ばす。
細い指先が夫人の顎を捉えると、夫人が何かを期待するように息を漏らしたのが分かったが、アレクはそのまま指で軽く夫人の唇に触れると、すぐに身体を元に戻した。
そして冗談めいた調子でこう言うのだ。
「いけませんよ、貴婦人ともあろう方が口元を汚されては」
たちまち夫人がぽかんとした顔になる。
アレクはそんな夫人を見つめながら、さっき夫人の唇に触れた指を舌先で軽く舐めた。
「ジャムが付いておりました。先ほどお茶をいただいたとき、菓子に挟んであったものが付いたのでしょう」
「まあ……」
やがて恥ずかしそうに口元に手を当て、夫人は俯いた。
「はしたないとお思い?」
「いいえ、とても可愛らしく思います」
「ふふ、お上手だこと」
アレクのおだてに、夫人ははにかむように笑った。
密かにアレクはほっと息をつく。
とりあえずかわすのに成功したようだ。
「そうだ、そういえばまだ私の特技を披露しておりませんでしたね」
こうして気が逸れた今のうちにと、アレクは別の話題を持ち出した。
「特技?」
「ええ。ミレーネ様、私が何者だったか覚えておられますか?」
「あら、もちろんですわ。あなたは吟遊詩人のアルカンジェロでしょう?」
「その通り」
アレクは脇に置いていたリュートを抱え、軽くポロンと爪弾いてみせた。
こんな旅芸人や吟遊詩人が使うような楽器、今までアレクは弾いたことがなかったが、幼い頃から教養として様々な楽器に触れていた経験が役に立った。
猛練習して、どうにか三日で弾けるようになったのだ。
「……今から歌いますのは儚き恋の物語。英雄ロドリオンと姫君オルケーディアの、旅の果てに芽生えた恋の物語でございます」
リュートを伴奏に、アレクはゆったりと歌い始めた。
「……とっても素敵な歌でしたわ」
「お喜びいただけましたでしょうか?」
「ええ、もちろん」
歌が終わると、アレクは部屋の片隅に置かれていた導力時計をちらりと見た。
時間は午前三時。
会話と歌で思ったよりも時間が稼げている。
この調子でもう一曲披露すれば、さらに時間が稼げるかもしれない。
そう思ってアレクが再びリュートを構えようとしたときだった。
ふいに向かいに座っていた夫人が立ち上がったかと思うと、彼女はアレクの座っている長椅子の端へと腰かけ、焦れたようにこちらへ手を伸ばした。
「ねえ……放浪の吟遊詩人さん。どうかその歌声を、もっと近くで聞かせてくださいませんこと?」
突然のことに驚きつつ、動揺を悟られないようにアレクは振り返る。
これはもしかして――誘われているのだろうか。
たちまち頭の中がめまぐるしく回り出す。
アレクとしてはこのまま次の歌に移って時間稼ぎを再開させたいところなのだが、夫人の様子に気付かないふりをして歌に戻るのは難しそうだ。
仕方ない、それなら思わせぶりにかわしてみよう。
さっきは成功したのだから、今回も大丈夫なはずだ。
アレクは頬に触れている夫人の手を一回り大きい自分の手で包み込むと、そのままゆっくり夫人の首元に顔を近づけ、夫人が息を呑んだところでこう低く囁く。
「……お任せあれ。あなたが望むのであれば、どんな歌でも歌って差し上げますよ」
戯れのような言葉ののち、長い指で夫人の首元の髪を掻き分けると、そこに軽く触れる程度の口付けを落とす。
しかしほうと夫人が感嘆のため息をついたのが聞こえると、アレクはゆっくりと体を離し、またポロンとリュートの音を奏でた。
「さあ、次の曲と参りましょう」
思わせぶりにしておいて、しれっと歌に戻る作戦だ。
これならそこまで嫌な感じは与えずに済むだろう――そう思ったのだが。
「……歌もいいのだけれど、次はあなた自身のことが聞きたいわ」
夫人が手を伸ばしたかと思うと、するりと腕を絡められる。
アレクは思わず息を呑む。腕には夫人の豊かな胸がぴったり押し付けられており、腕もがっちり掴まれていて、身動きが取れない。
「……私自身の?」
「ええ。あなたのこと、もっとたくさん知りたいんですの。……駄目かしら?」
今までとは違う、明らかな誘い文句だ。
こうなっては、さすがにもうはぐらかすことができない。
一体、どうすればいいのだろう?
考えながら、アレクはちらりとテーブルの上を見た。
そこに置かれているのは先ほど飲んだ葡萄酒のグラスである。
『どうにもならなくなったときのために、これを渡しておきます。』
そう言ってレナスが渡してきた白い粉末は、今も切り札としてアレクの袖の下に潜ませてある。
だがアレクとしてはなるべくこれを使いたくない。
なぜならレナスの手を取ったあのときから、悪党にはなっても決して悪人にはならないと決めたのだ。
「ねえ……何か言ってくれませんこと?」
しかし一瞬浮かびかけた邪な考えを振り払った瞬間、夫人がアレクの首元に顔を寄せる。
「……私の何が知りたいのです、ミレーネ様?」
「まあ、いやですわ。淑女の口から言わせますの?」
夫人はますます熱っぽい様子で、アレクの方へとしなだれかかってきた。
「でも……駄目ですわ。ちゃんと汲み取ってくださらなくては」
そして夫人はアレクの首元に軽く唇を当てた。
突然のことに驚き、アレクはわずかに息を漏らしてしまったのだが、それを肯定的な意味に受け取ったのか、夫人は首に絡めた手を今度は頭の後ろに持っていき、今度は正面から顔を近づけようとした。
――さすがに、これ以上はもう無理だ。
迫ってきた唇を、アレクは慌てて避ける。
そのまま肩を押し、夫人の身体を長椅子の上に押し倒した。
「あ……っ」
色っぽく夫人が声を漏らすが、アレクの意識はすでにそちらにはない。
アレクの視線はすぐ近くのグラスに注がれており、そして意識は完全に袖の下に隠した薬に捕らわれている。
使うべき……なのだろうか。
どくんと鼓動が高く鳴る。
レナスから渡された白い粉末の正体は睡眠薬。
最悪酔わせたふりをして眠らせ、うやむやにしたところで翌朝に報酬をせびればいいとレナスには言われている。
しかしそれはつまり、夫人を騙して金を奪うということだ。
「………っ」
せめぎ合うのは善意と悪意。
家を再興するという目的のため、悪人となるのか。
それとも飽くまで正義を貫き、またしても遠回りをするのか。
「ねえ、早く来て……」
遠く意識の向こうで、囁く声が聞こえる。
ふと気づくと、アレクの身体の下で夫人が呼んでいた。
さらに強くなっていく動悸と眩暈で、目の前がくらくらしてくる。
分かっている。
目的は飽くまで家の再興だ。
だからそのために、手段など選んでいる暇はない。
アレクは夫人に気付かれないよう、そっと右手をグラスの方へと移動させ、そのまま指で袖の中を探り――。
「……やっぱり、駄目です」
――ぽつりと一言、呟いた。
「駄目なんです……私にはできません」
視線を落とすと、夫人が不思議そうに首を傾げている。
そんな夫人にアレクは軽く頭を下げると、ゆっくり長椅子から下り、床に跪いてもう一度頭を下げた。
「私にはあなたを抱くことができません、ミレーネ様。なぜなら私は――あなたのことを騙しているから」
何を言っているのか、何を言おうとしているのか、自分でもはっきりとは分かっていなかった。
ただ……言えることは一つ。
このまま夫人を騙すことは、アレクには決してできないということだった。
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