第14話 放浪の詩人アルカンジェロ

「準備はいいですか、アレク様」


「……ああ」


 美しい満月の夜。

 頭に巻いた青いターバンを結び直しながら、アレクはレナスの問いに頷いた。


「私はアレクシス・ローゼンバーグ。最強の騎士エルドレッドの息子」


「ええ、ですが今は?」


「今は――」


 ゆったりとした上下に、派手な模様の入った緑のマント。

 耳飾りに首飾り、見るもきらびやかな装身具の数々。

 無造作にまとめ上げられた、輝くばかりの短い金髪。

 そして伊達者らしく背中に背負ったリュートと、腕に抱えた大きな花束。

 美しく艶やかな一人の吟遊詩人がそこにいた。


「――放浪の詩人、アルカンジェロ」


 伊達男や色男といえば、吟遊詩人と相場が決まっているものだ。

 アレクとしてはそんな軟派者に身をやつすのは少々抵抗があったのだが、レナスに説得されて結局こうなった。


「ふふ、素晴らしい伊達男っぷりでございますね」


「ぼろが出なければいいけれど」


「大丈夫、万一脱がされてもお嬢様なら男とあまり変わりませんから」


 ニコニコしながら言うレナスを、アレクは鋭く睨みつける。


「……よし決めた、帰ってきたら一番最初に君の舌を抜くことにしよう」


「おや、新しい遊びですか。嬉しゅうございます」


 そんなことを言っているうちに、やがて作戦開始の時間がやって来る。


「そろそろ時間かな」


「ええ。では、行ってらっしゃいませ」




 レナスに見送られたのち、アレクは塔へと近づいた。

 偵察したフラヴィの情報によれば夫人がいるのは西塔の最上階。そこへは見張りの衛兵が十五分に一度哨戒に来るという。

 つまりその十五分間に登り切れるかが鍵となるわけだ。


 普通に考えれば塔の頂上まで十五分で登るのは不可能だ。

 しかしアレクには秘密兵器があった。

 背負った荷物の中から、アレクはその秘密兵器を取り出し、両手に握る。

 金の取っ手に透明な球体が付いた導力器だ。導力の働く球体部分には物を吸着させる力があり、これを使えば容易に壁を登ることができる。

 ただ、これを買うためにまたしてもレナスに出費を強いてしまったが。


「……よし」


 アレクは右手に握った導力器を塔の外壁へと押し当てた。

 導力器は石造りの外壁にこつんと当たったのち、すうと吸着していく。

 それがびくともしないほど強く張り付いたのを確認すると、アレクは左手に握ったもう一方の導力器も外壁へ当て、足を石の隙間に食い込ませた。

 これならいけそうだ。

 アレクは少しずつ塔の上を目指していった。




 リミットの十五分が近づいていた頃、アレクは塔の九割ほどを登り終えていた。

 上を見ると頭一つ分くらい上のところに窓が開いており、窓からは柔らかな光が漏れ、薔薇色のカーテンが揺れていた。

 夫人の部屋と見て間違いないだろう。

 アレクは息を整え、気合を入れた。


「……行くぞ」


 とうとう手が窓枠を掴む。

 そしてそのまま身体を開け放たれた窓の中へと押し込み、さらに両足を窓枠にかけて、アレクは部屋の中へと踏み入った。




 とす、と床に着地した音が響く。

 その瞬間、閉められたカーテン越しに誰かの気配が動くのが分かった。

 アレクは慎重にカーテンに触れると、ゆっくりそれを開いていく。


 すると薄いカーテンの向こうで、息を呑むようにこちらを見つめている婦人と目が合った。

 緩くまとめ上げた飴色の髪に、ふっくらとした白い肌、ほのかに紅い頬、豊かな肢体を包む薄い夜着――この艶やかな女性が、ファリアン伯爵夫人だろうか。

 だとしたら予想よりは若い。

 恐らく三十五から四十の間くらいではないだろうか。

 その姿も美しく、浮気性という悪評があるにもかかわらず、夫である伯爵が見放さないでいる理由も頷けるとアレクは思った。


「……どうか、恐がらずに、そのまま」


 すぐさま床に膝を付き、アレクは深々と頭を下げた。

 そして彼女を決して怖がらせないよう、言い聞かせるように言う。


「突然このような所から参った無礼を、どうかお許しください」


 そののち、ゆっくりと顔を上げていった。


「私は吟遊詩人アルカンジェロ。あなたが……伯爵夫人でいらっしゃいますか?」


 夫人はしばらく黙っていた。

 ただじっと固まったまま、こちらを凝視している。

 もしかして恐がらせてしまったのだろうか。

 だとしたらもう少しきちんと謝罪をし、警戒を解いた方がいいかもしれない。

 そう思ってアレクは再び頭を下げようとしたが――。


「あ……ああ………」


 その瞬間、夫人が口元に手を当て、声を漏らした。


「もしかしてあなた……私に会いに来てくださったの……?」


 アレクが顔を慌てて顔を上げると、夫人の顔は先ほどよりも紅潮していた。


「……え? ええ、そうです」


 やや面喰いながら、アレクは再び礼をした。


「このアルカンジェロ、幽閉された美しき伯爵夫人の噂を聞き、ふつつかながら無聊をお慰めしようと参った次第にございます」


 アレク自身が言われたら激昂しそうな台詞である。

 しかし遊び人の女性相手であれば、決して無礼にはならないようにしつつも、ある程度の親しさと馴れ馴れしさをもって踏み込むべしというのがレナスからの教えである。


「まあ……本当に来てくださったのね……!」


 声を震わせたまま夫人はこちらへ近づき、アレクの目の前まで来るとナイトドレスの裾を軽くつまんで礼をした。


「わたくしがファリアン伯爵の妻、ミレーネに間違いございませんわ。さあ、どうぞお顔を上げて」


 言われるままに顔を上げると、目の前で夫人が恍惚とした表情を浮かべていた。


「ああ……わたくし好みの美しい若者ですわ」


 夫人の色めいた声に妙な恐怖が湧き起こる。

 改めてとんでもない場所に来てしまったとアレクは思った。


「さあ、立って。こちらにいらっしゃい、吟遊詩人さん」


 夫人はすらりとした手を伸ばし、アレクを誘う。

 アレクはその手を取って立ち上がったのち、夫人に言われるまま部屋の奥へと入っていった。

 塔の中とはいえさすがは貴婦人の居室だ。

 中は広々としており、天蓋付きの大きな寝台に革張りの立派なカウチ、豪華な花柄の長椅子など、立派な調度の数々が置かれている。

 鮮やかな花々もあちこちに活けられており、見るからに華やかな内装だ。


「ふふ、まさか窓からやって来るなんて。噂を聞いて来てくださったの?」


「はい。驚かせてしまったようで申し訳ございません」


 アレクは立ち上がったのち、再び軽く頭を下げた。


「あら、わたくしは喜んでいるのですわ。だってこんな星の綺麗な夜に美しい吟遊詩人の若者が塔を登ってやって来るなんて、それこそ詩人の昔語りみたいではありませんの」


「昔語り、ですか」


「ええ、それくらい素敵なことですわ」


 夢見る乙女のように、夫人は語る。


「ははは、ミレーネ様はなかなか優雅な喩えをなさいますね」


「そうかしら。さあ、奥へどうぞ。改めて来てくれてありがとう、アルカンジェロ」


 部屋の奥へと進みながら、アレクは軽く胸を押さえる。

 なんだか本当に奇妙な事態だ。

 もう少し警戒されるかと思ったのだが、予想以上に警戒が薄い。

 やはり自分から愛人を募集していただけあって、それほど退屈していたということなのだろうか。


「今、お茶を淹れて差し上げますわ。侍女に見つかると厄介ですからわたくしが淹れますけれど、はしたないなんて笑わないでちょうだいね」


「あ、ええ……」


 夫人はそう言うと、控えの間にいるらしい侍女に扉越しに湯を持ってくるよう頼み、自らは茶器の用意をし始める。

 しかしアレクはその様子を眺めながら、はっとした。

 そういえばレナスに、絶対にこちらが主導権を握れと強調されたのだった。

 相手のペースに乗せられては何を要求されるか分かったものではないし、主導権さえ握っておけばあらゆる物事を有利に進められる。

 だから流れを作る最初の段階で、こんな風にぼんやりしている場合ではない。


「ご用意できましたわ。さあどうぞ、お掛けになって」


 夫人が茶器を持って戻って来た瞬間、アレクはその足元に跪いた。


「夫人」


 そして背負った包みの中から大きな花束を取り出し、高々と掲げる。


「お心遣い、痛み入ります。わたくしからも心ばかりの贈り物でございます」


「まあ!」


 すると夫人は顔をほころばせ、アレクの方へと手を伸ばした。


「美しいご夫人は花など見慣れていると思いますが……それでも、どうかわたくしの気持ちとして受け取っていただけますでしょうか?」


「ええ、もちろんですわ」


 夫人は上機嫌で花束を受け取ると、少女のようにそれを抱きしめた。

 なんだかアレクも一瞬顔を緩めてしまうほどの可愛らしい仕草である。

 どうやらこの浮気性の伯爵夫人、悪女というよりは天真爛漫なタイプのようだ。

 一体どんな女性が出てくるのだろうと心配していたが、これなら少しは安心かもしれない。


 ほっと息をつき、アレクは夫人の向かいの長椅子へと腰かけた。

 この調子なら意外となんとかなるかもしれないな、なんてことを思いながら、アレクは夫人が淹れてくれた茶を口に運ぼうとした。

 しかしそれを口に含もうとした途端、甘ったるい果物の匂いが鼻をつく。


「これは……果実の茶ですか?」


「ええ、そうですわ。少量ですけれど果汁も入っておりますの。フルーティで美味しいんですのよ」


「そうでございましたか……」


 にこやかに頷きつつ、アレクは確かめるように臭いを嗅ぐ。

 この匂いは……もしかしていちじくではないだろうか。


 修道院にいた頃、いちじくや柘榴などの果物を口にしてはいけないと教わったことがある。なぜならそれらの果物は媚薬効果のある果物と言われており、神殿では欲望の象徴とされていたからだ。

 確かに普通のいちじくの茶には媚薬効果はないが、それは葉のみで作った場合に限る。

 なのにそれにわざわざ果汁を足すということは、そこに何らかの意図が含まれていると考えるべきだろう。


 アレクは口元に運んだ茶を飲むふりをして、そっとカップを戻した。

 恐らくこの程度の量では大したことはないだろうが、気付いてしまうと飲むことは躊躇われたのだ。

 先ほど思ったことは撤回である。

 やはり気を引き締めてかからねばと、アレクは改めて気合を入れた。

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