第13話 伯爵夫人の愛人候補
耳元にかかる熱い吐息。
首筋を這う長い指先。
そして、頬に寄せられる唇。
アレクはしばらく状況を理解できずに呆然としたのち、がしりとレナスの腕を掴んだ。
そしてそのまま、関節をへし折る勢いでねじり上げる。
「ああっ……! 痛い、痛いですお嬢様ああっ!」
「なら今すぐこのふざけた真似をやめろ」
「い、嫌です、だってせっかくお嬢様がわたくしを痛めつけてくださっているのですから……! ああっ!!」
「……体勢といい態度といい、本当にふざけているな」
「いえ、た、体勢はふざけておりません!!」
「どういうことだ」
「だっ、だからこれが手管だということです……!! あ、ああ……っ!?」
それからしばらくの間、レナスは嬉しそうに喘いでいた。
ただ、いくら関節をねじり上げても自分から音を上げることはなかったため、結局アレクの方からやめなければならなかったが。
「はあっ、はあっ……さすがの怪力ですお嬢様。本当に腕が折れるかと思いました。あなたを組み敷くのは容易ではなさそうですね、勉強になりました」
「御託はいい。今のは何だったんだ」
ねじり上げられた左腕を、レナスはまだ痛そうにさすっている。
「お嬢様はご存知ないかもしれませんが、貴族の恋愛は遊戯。相手との駆け引きを楽しむものなんです」
「ほう」
「大抵の場合、そこに愛やら真実やらは存在しません。愛人はただ相手を楽しませればいいだけなのです」
だからアレクにも可能、と言いたいのだろうか。
だがそれは少々強引な論理だ。
「そうだとしても、私は女だ。それがばれたら報酬どころか、夫人を侮辱したとして首をはねられてもおかしくないんだぞ」
「ですから、ばれないように夫人を楽しませて差し上げればいいと言っているのです」
「そんなの無理だ。できるわけがない」
「いいえ、できます。さっきから言っているではありませんか、手管を使えと」
説得するように言ったのち、レナスはなぜか熱っぽい瞳でこちらを見つめた。
そしてそののちこちらへ手を伸ばしたかと思うと、彼は長い指でアレクの金髪を梳く。
さわさわとした感触がくすぐったい。
やがて鬱陶しくなったアレクはレナスの手を払った。
「……やめろ、何だ今の」
「今、ドキドキしたでしょう」
「いや、全く」
「女性など簡単なもの。今のように、抱かなくともただ満足させてあげればそれでいいのでございます」
「話が噛み合ってないな……」
正直、レナスの言う手管云々はアレクにはよく分からない。
なにしろ今まで恋愛などしたことのない彼女だ。
ぼんやりとした想像はついても、実践経験がないのでいまいち理解できないのである。
そりゃあ、本当に乗り切れるのなら確かに好条件の仕事とは言えるだろう。
なにしろ伯爵夫人から直々にもらえる報酬だ。
きっと大層な額に違いない。
「お嬢様は、私が自腹を切ることを嫌がっておられましたよね」
アレクが考え事をしていると、ふとレナスがそんなことを言う。
「え? ああ……」
「今日、ここへ来るのに馬車を使いました。酒場で二杯酒を頼みました。そして今、こうしている間にも宿代が発生しております」
そう言いながらレナスはにっこりと微笑む。
甘ったるい笑みだが、その甘ったるさが却って妙な威圧感を生んでいた。
「お嬢様がこの仕事をやらないとなると、全て無駄な出費になりますねえ」
アレクは言葉を失った。
確かにそうだ。
無駄に馬車に乗り、無駄に酒を飲み、無駄に宿に泊まったことになる。
それはさすがに少し心が痛い。
「……レナス」
やがて諦めと共にアレクは口を開く。
「本当に……私にできるのか」
「ええもちろん。できますよ」
さらに笑みを濃くするレナス。
もう、この笑みを信用するしかないのだろう。
「分かった。では私に教えてくれ」
「何をでしょう」
「女性を抱かずに満足させるための手管とやらを――私に」
先祖が聞いたら草葉の陰で泣きそうなセリフだ。
しかし残念ながらアレクはいたって真剣である。
その様子を見てレナスもまた、満足そうに頷いた。
「……かしこまりました、我が主」
◆◆◆
差し込む朝日で目が覚める。
寝台と机、椅子だけが置かれた簡素な部屋だ。
窓の外からはすでにせわしなく働く人々たちの声が聞こえてくる。
そういえば昨日はバルタールの宿屋に泊まったのだった。
そんなことを思い出しながらアレクは寝台の上で身体を起こし、伸びをしてから部屋をぐるりと見渡した――。
その瞬間。
「………」
室内に置かれた奇妙なオブジェを見て、アレクは目を細めた。
人間一人が丸々入りそうな大きな花瓶と、そこに飾られた色とりどりの花。
花は赤や黄色、オレンジや青など色々なものがあり、そしてその中に――ぼんやりと白い顔が浮かんでいる。
紛れもなく、人間の顔だ。
「おはようございます、お嬢様」
やがて花の中に混ざっている顔が喋った。
改めて説明するが、そのレナスそっくりの顔は大量の花の中に混じっている。
まるで花瓶に飾られた花の一輪のように。
正直、寝起きの頭では全く理解できない。
いや、寝起きでなくても理解はできないかもしれないが。
「さあ、起きて支度を整えてくださいませ。よい朝でございますよ」
レナスの言葉と共に丸い花瓶がぐらぐら揺れる。
あまりの状況の奇妙さにアレクはただ固まることしかできない。
「………なんで君が私の部屋にいる」
あらゆる疑問を呑み込み、やがてアレクは端的にそう尋ねることにした。
するとレナスは花に紛れたまま、こう答える。
「一夜を共に過ごしたのち、女性のフォローをするのは紳士の務めでございますから」
「………」
「実は私、遊ばれていたんじゃないかしら、朝になったら私のことなんかどうでもよくなってるんじゃないかしら――そんな不安を覚える女性も多いはず。ですからわたくし、そんな心配は必要ないのだとお嬢様をご安心させるため、こうして美しい花になってみたのでございます」
そういえば昨日、夫人の愛人候補に名乗りを挙げるかどうかという話をした後、レナスから色々訳の分からないことを吹き込まれたのだった。
女性を落とすための口説き文句に始まり、仕草、話し方、物腰……その他もろもろの怪しい技術を、全て実践という形で。
今もまだレナスの異様に甘ったるい声が頭の中に残っていて、思い出すだけで気分が悪い。
「……頭が痛くなってきた」
アレクは額を押さえながら立ち上がり、机の上に用意してあった桶の水で顔を洗った。
「とりあえず着替えたい。外に出てくれないか。ついでにそのまま自分の部屋へ帰ってくれると嬉しいんだが」
しかし返事はない。
「おいレナス、聞いているのか」
仕方なく彼の方を見ると、彼はなぜか黙ったまま目を閉じている。
今度は一体何なのだろう。
「おい、レナス――」
「わたくしは今、花でございます。ですからどうぞお気になさらず」
「…………は?」
「お嬢様はお好きにお着替えください。わたくし何も見えておりませんので」
「………」
「さあさあ早く、存分に脱いでいただいて構いませんよ。さあ」
などと言いながら、彼はチラッチラッと薄目を開けてこちらの様子を窺っている。
アレクはその奇妙奇天烈な姿を見つめたまま考える。
成人男性一人がすっぽり収まっているあの花瓶はどう考えても重い。
一人で部屋の外までは運ぶのは力自慢のアレクでもさすがに困難だ。
だとしたら――。
やがてアレクはあることを思いつき、テーブルの上に置かれている水差しを手に取った。
「さあお嬢様、早く。私は花ですからどうかご安心して――」
「なるほど、君は花なんだな。いいだろう」
「え」
アレクが手に持っている物を見て、レナスが一瞬驚く。
しかしもう遅い。
直後、アレクはレナスの顎を掴むと、彼の口の中に水差しの水を流し入れた。
「――ご、ごふっ!!」
たちまちレナスが喉を詰まらせたような声を出す。
しかしすぐに彼は喋れなくなった。
いや、それどころか呼吸も難しい様子である。
まあそれも無理のないことだろう。
口の中に水を注ぎ続け、相手を溺れさせるというのは拷問の一種である。
一見なんでもないことのように見えるが、今のレナスは相当きついはずだ。
「お、おじょ……ぶはっ!!」
「おかしいな、花なら水を掛けられて喜ぶはずなんだが」
「ああっ、これでは本当に死んでしまいま――がはあっ!!」
「そもそも花が喋ることからしておかしいんじゃないか、なあ?」
アレクは今までの仕返しとばかり、レナスの口の中に水を注ぎ続ける。
やがてレナスが本格的に溺れそうになる直前、ようやく注ぐのをやめてやった。
「……はあっ、はあっ、はあっ……!!」
「少しは懲りたか?」
ここまですればさすがに大人しくなるだろうと、アレクはわずかな期待を込めて聞いてみた――のだが。
「いえ、お嬢様の望みとあらばあと一時間はいけます……ふふふふ」
アレクの予想に反し、頬を染めて自慢げに言うレナス。
虚勢かと思ってアレクが再び水差しを掲げると、レナスはさらに頬を赤らめ、自ら口を開けてみせた。
目の前に好物を出された犬のような表情である。
嘘だろうと、しばらく信じられない気持ちでアレクはそれを見つめていた。
午後になると、通信機でレナスに呼び出されたフラヴィがバルタールの宿へと到着した。
そして彼も加わり、三人での作戦会議が始まる。
問題は大きく二つ。
一つ目はどうやって外壁から塔を登るか。
二つ目はどのような変装をするか。
アレクたちはそれらについてしばらく話し合ったのち、実際にフラヴィに塔を偵察してきてもらったり、もろもろ必要な物品を入手したりして、三日後にようやく全ての準備が整った。
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