男装令嬢とどM執事の無謀なる帝国攻略/一石月下
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第一章 没落貴族令嬢
第1話 再会(改)
腹が減った。
猛烈に……腹が減った。
あまりの空腹にふらつきそうになるのをこらえながら、アレクシアは喧騒の中を歩いていた。
湖畔の街エスタバは賑やかな街だ。
地方都市だが人口は多く、一年を通していつでも活気に満ち溢れている。
大きな湖のほとりにあるため交易も盛んで、遥か北方の雪水晶から東方の美人絵画、西方の導力器に南方の装飾品など、金さえ惜しまなければ珍しい品がいくらでも手に入るという。
そう――金さえ惜しまなければ。
アレクシアは修道服の懐に潜ませた財布代わりの革袋のことを思い出し、思わず自虐の笑みを浮かべた。
彼女の手持ちはわずか鉄貨二枚。
珍品を買い漁るどころか、パン一個すら買えない有り様だ。
しかも今朝まで三日間歩きづめだったから身体はふらふらだし、修道服は土と汗ですっかりどろどろ、昨日の晩から何も食べていないからお腹はぺこぺこである。
「はあ……」
人混みを抜けると、アレクシアは大きなため息をつきながら、湖の岸辺に座り込んだ。
そして何か食べ物が余ってはいなかったかと荷袋の中を漁る。
しかし出てきたのはランチボックスの底に溜まっていたパンくずと、干からびたオレンジの皮のみ。
とりあえずそれらを一気に喉へと流し込んでみたものの、その直後、満たされない飢えを訴えるように彼女の腹はぐるると鳴った。
「はは……」
もはや乾いた笑いしか出てこない。
ああ、一体どうしてこんなことになったのだろう。
アレクシアは湖畔を吹き抜ける風に目を細めた。
理由など考え出したらきりがないが、それでも一つ挙げるとしたらそれは彼女が没落貴族なせいだろう。
身寄りがなく、財産も城もない、哀れで惨めな没落令嬢。
修道院に身を寄せることでなんとか命を繋いではいるものの、収入はほとんどなく、毎日生き延びるのがやっとのことだった。
元凶は八年前の陰謀だ。
アレクシアの生家ローゼンバーグ家は今から八年前、陰謀によって陥れられた。
あの日、突然城から火の手が上がり、数時間もしないうちに全てが炎に呑まれ、アレクシアは家族も城も財産も失ったのである。
陰謀の原因は他家からの妬み。
パラキア帝国では力ある十二の貴族に十二騎士という地位が与えられるのだが、その十二騎士の中でも最も強力だったローゼンバーグ家は隆盛ぶりを他の貴族たちから疎まれ、反逆者の汚名を着せられて陥れられたのだ。
そして今、十八歳になったアレクシアは家を建て直すため奔走していた。
修道女として修道院に勤める傍ら、時間を見つけては親戚やかつての父の支持者に援助を乞うため、方々へ足を運んでいるのだ。
しかし世間の風当たりは厳しい。
すでに数十軒は回ったにもかかわらず、手を貸してくれる者は一人もおらず、つい先ほどもこの辺りを治めている伯爵に追い返されたところだった。
しかも伯爵家の屋敷の門をくぐったときに門衛に謁見料として銀貨三枚を要求されたため、食費と帰りの旅費がなくなってしまった。
支払わなければ伯爵には会わせないと言われて仕方なく払ったのだが、今考えるとあれは多分ぼったくりだった。
謁見料など聞いたことがないし、きっと門衛が着服するために騙したのだろう。
「疲れた……」
アレクシアはうなだれ、湖を覗き込む。
凪いだ湖面には自分の姿が映っていた。
普通の成人女性より頭一つ分は高い身長に、無駄に広い肩、普通よりやや薄い胸、鋭すぎる顔の造形。
その外見は美しいか醜いかでいえば美しいのだが、女性的な美しさではなくどちらかというと男性的な美しさに近い。
修道服の地味なドレスも、いっそ華奢な男に着せた方が似合うのではないかと思えるくらいには似合っていなかった。
そういえば、誰も手を貸してくれない理由の一つにはどうやら彼女の外見のことがあるらしかった。
アレクシアは精一杯しおらしくしているつもりなのだが、この外見のせいで彼らには不遜にしか見えないようなのだ。
だが外見なんて今更変えられるものでもないし、一体どうしろと言うのだろう。
「見た目のことは放っといてくれ……」
まさに人生、八方塞がりである。
金もなければ食料もなく、今夜泊まる宿もない。
助けてくれる知り合いもいなければ、修道院まで歩いて帰れる元気もなかった。
こんな状況で、一体どうすればいいというのだろう。
現実逃避をするかのようにアレクシアは岸辺に寝そべり、遥か青い空を見上げた。
空はどこまでも澄んでいて、その清々しさが却って悲しくなるような気がする。
もしかして、このまま餓死するのだろうか。
ローゼンバーグ家の汚名をそそぐこともできず、家族を陥れた者たちへの報復もできないままに。
だとしたら、なんと無様な人生なのだろう。
「もし餓死するのなら……せめてあの人には礼を言っておきたかった……」
目をつむると今でも蘇るあの日の炎。
陰謀により城が燃えたあのとき、アレクシアは燃え盛る炎に絶望し、死を覚悟しようとしていた。
だがそんなとき、彼女に手を差し伸べ、彼女を抱き上げて外へと連れ出してくれた人物がいたのだ。
闇夜のような、黒い瞳をした男性。
自分を絶望から救い出してくれたあの人にだけは、せめて一度礼を言いたかったのだが――。
きっともう、それも叶わない。
アレクシアは諦めるように目をつむり、息を吐く。
少しずつ世界が遠くなっていくような気がした。
「……ああ、哀れなるお嬢様」
――そのときだった。
ふと頭上に、影がかかる。
アレクシアは驚いて目を見開いた。
「……誰に顧みられることもなく、こんな風に空腹にあえいで」
濡れるような黒々とした瞳。
それとは対照的な、病的なまでに白い肌。
見知らぬ男がなんともいえない悩ましげな表情で、こちらを見下ろしていた。
「お可哀想に……今、わたくしが助けて差し上げます」
黒のフロックコートを着た、すらりとしたその姿。
長い前髪は軽く目元にかかっており、その奥から黒い瞳が覗いている。面は白く、黒い髪や瞳とのコントラストのせいで、どこか人形のような印象があった。
年齢は分かりづらく、二十代前半なのか、はたまた三十代後半なのか、さっぱり見当がつかない。
ただ、紛れもない美男子だが、その美しさは少し妙だ。
やや病的に見えるというのだろうか。まるで精神が不安定に傾いているかのような、半ば闇の淵に堕ちかけてしまっているかのような――そんな翳りが見て取れた。
一体、何者なのだろうか。
「さあどうぞ……こちらはほんの差し入れでございます。ぜひお受け取りくださいませ」
ふいに男は何かをこちらに差し出してくる。
何かと思って見てみるとそれは白い紙に包まれたバゲットで、真ん中の切れ込みに揚げたてほかほかの魚のフライが挟まっており、その上からたっぷりとタルタルがかかっている。
もしかして、これは。
「こちらはエスタバの名店、リリアン・ベックの揚げ魚サンドでございます」
「……っ!?」
アレクシアは飛び起き、ごくりと喉を鳴らした。
エスタバに来たら一度は食べたいと評判の名物、エスタバ名物リリアン・ベックの揚げ魚サンド。
それが目の前にある。
しかもアレクシアは空腹の極み。
本当なら今すぐ手を伸ばしてがっついてやりたい――が。
「……あなたは、一体誰なんだ?」
心の底から湧き上がる欲求を理性で捻じ伏せ、抑えつけ、アレクシアは震える声で尋ねた。
「突然目の前に現れて食べ物を差し出すなんて、一体何のつもりなんだ」
確かにどうしようもないくらい腹は減っている。
しかしそれでも突然現れた得体の知れない人物に施しをもらうほど、落ちぶれてはいないつもりだった。
……いやまあ、本音を言えばものすごく欲しいのだが。
「おや、もしかしてわたくしのことを不審に思っておいでで?」
「……ああ」
すると男はうやうやしい仕草で頭を下げ、こんなことを口にする。
「私は執事でございます、お嬢様」
「執事?」
アレクシアは眉をひそめた。
もちろんアレクシアは執事など召し抱えていない。
確かに没落貴族となる前は大量の使用人たちに囲まれていたが、あの陰謀以来彼らはみな散り散りになってしまったのだ。
「今の私は執事など召し抱えていない。悪いけれど、もう行ってくれないか」
なるべく揚げ魚サンドを視界に入れないように気を付けながら、アレクシアは男を追い払った。
これ以上は我慢ができそうもないし、無様に物乞いをしてしまうようではローゼンバーグ家の誇りに傷を付けてしまう。
だから、このまま傍にいられては困るのだ。
しかし男はアレクシアの混乱をよそに、思わぬことを言った。
「おや、これはおかしなことをおっしゃいます。アレクシアお嬢様はローゼンバーグ家唯一の跡取りではありませんか。そして私はローゼンバーグ家の執事。知らないなどと言われるのは心外でございます」
アレクシアはぴくりと眉を動かした。
今、この男は……ローゼンバーグ家の執事と名乗ったのだろうか。
「なんだって? ローゼンバーグ家の執事……?」
「はい、そうでございます」
男は微笑みながら頷くが、アレクシアはにわかには信じられない。
だって今までどれだけ探したって、かつての使用人には会うことができなかったというのに。
驚愕しつつもアレクシアは男からさらに詳しい話を聞こうとした――その瞬間だった。
ビシャアアアアアッ!!
突如として泥水が跳ね上がる。
その勢いにアレクシアは驚き、咄嗟に目をつむった。
そして一体何が起きたのだろうと思いながら再び目を開けたとき、アレクシアは自らの視界に入ったものに唖然とした。
地面に膝をついている男。
その身体は地面にひれ伏しており、頭は低く下げられていたのだが――なぜか頭が地面にめり込んでいる。
「……わたくしは間違いなくあなた様の執事。信用できなければ、蹴るなり殴るなりお好きにしてくださいませ。さあ」
男は頭が半分地面に埋まったまま、そんなことを言った。
しかも口元が湖に浸かっているせいで、声は若干ブクブク言っている。
男の着ているフロックコートもまた盛大に泥が跳ね返っていて、なんというか尋常ではない光景だ。
この状況は……一体何なのだろうか。
あまりに異様すぎるその光景をじっと見つめながら、アレクシアはただただ呆然としていた。
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