四 悪魔の契約

 叩き割られた石櫃せきひつは、なおもそのままの姿で残されておりました。馬渕はその割られた片割れを剛力で起こすと、石櫃せきひつに立てかけます。


「やはりアクロ語でございます。蛇人間の時代後期の文字です」

よろしく訳すべし」


 そう言いながら、馬渕はもう片割れに用意してきた梃子てこを差し込んでおりました。私は早速、書かれたアクロ語を翻訳し始めました。


「後代の者へ自らの手で記す。我、冒涜ぼうとく的にも神をして統治のすべとせり。五つの郷と契約の御石をして、神の国と結ばれた山を築き…」


「なんと。御岳山そのものが作り物とは」


「残りの石を早う」


 石櫃せきひつふたただちに持ち上げられ、そのまま横向きに立てかけられました。私は地に這うように首を横にしてそれを読み続けます。


「…神狼の鎖となす。神を治めるの技により、我こそ神と成りかわり…この地に永年の魔術の郷を築けり」


「やっかいな遺産を遺してくれたものだ」

「まったくにございます」


 しばらく文字を読み進めると、ついに私は最も重要な言葉を見つけました。


「ありました。帰れよ紅播牙、全て契約は果たされたクディリ・ヴェ・クウルパングア・ユフデラス・ノス・ダアルグエア・ウェ。術の場所は…山頂でございます」

「なればいざ参らん」


 私はこのときまで馬渕という男を見誤っておりました。ただのいけ好かぬ詐欺の陰陽師風情おんみょうじふぜいと思っておりましたが、彼は私の言葉や夜目など、様々の異変を前にしてもまったく動じることがございませんでした。言われてみればついぞ神に対しておそれなるものを抱いてはおらぬと申しておりました。私は洞窟どうくつの帰路に至ってその秘密をようやくと尋ねる気になったのでございます。


「なぜ馬渕さんは神をおそれず、これほどの怪奇を前にしても飄々ひょうひょうとしているのでございましょう」


「なお解剖学者の死者を前にすると同じ。怪異こそ我が領分なれば、好奇に惹かれることあれど恐怖におののくことなし。またおそれは万物ばんぶつに神を見出すのなり。すべて神は人の無知とおそれに宿るものなり。まことの神に見えたくば、よろしくすべて無知とおそれを捨て去るべし」


 馬渕はまるでその言葉を暗唱していたかのように、一呼吸の滞りもなく申し上げました。


「人の無知をえて明かす。それはほかならぬ科学にございましょう」


 私がそう申し上げると、馬渕さんは顔に行燈あんどんを寄せてニッと笑ってみせました。その晴れ晴れとした笑顔はやはり不遜ふそん威丈高いたけだかでありましたが、いくぶんか馬渕という人間の人間らしい様を見ることができたように思いました。

 片や私はと申しますと、このときすでに自らの数奇なる運命をよくよく理解しておりました。この先にこのような人間らしい笑みを浮かべて何かをなすことがあろうかと、どこかに暗く沈んだ不安を抱えていたのでございます。このとき私はすでにあまりに人間離れしてしまっていたのでございますから。


 洞窟の外に出ると、改めて秋の到来を思わされました。もう夕日は西に傾き、肌寒い風が私たちの肌を撫でました。馬渕と二人、黙々と山を登ってみれば、山の上の方の木々は神の足跡に限らずともすっかり紅葉が始まっておりました。

 山頂に辿り着いた頃には夕焼けは赤々と西の空を染め、辺り一帯の山々に覗く紅葉とともに世界を赤黄に染め上げておりました。もし私が科学を知らなければ、その景色こそくれないく牙と名付けられた神狼がもたらした美しき景色と評したことでありましょう。しかしいまやその光景は神の光景ではなく自然現象のあつまりでございました。


「美しさに神を見ることを忘れれば、人はどこに向かうのでありましょう」


山頂に切り立った大岩の上に立って、私は見下ろした馬渕に尋ねました。馬渕は腕を組んだまま、次のように返しました。


「それこそ洋服と汽車と工場の織りなす文明国日本でござろう」


「しかし神はおりまする。紅を播く牙、クウルパングアがおりまする」


私がそう声に出すと、山のすべての木々が秋風にざわめきました。

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