三 奇病のはじまり

 神の足跡が現れた翌日から、先生は私と喜一郎を残して一人で何処かへ調査へ赴くことが多くありました。先生が何を調べていたのか説明なさるのは、もう少し後のことになります。それを教えていただくきっかけになったのは、ほかならぬ奇病の訪れでございました。

 神の足跡はあれからも一歩また一歩と山を下っておりました。私は先生に言われて、六年ぶりに我が家の屋根をき替える作業に力を貸すことになります。なにやら先生一人で調べたいことがあったらしく、てい良く喜一郎と梅子共々調査本部から追い出されたと言った方がよろしいでしょう。


 そこで喜一郎を彼の家に帰し、私は梅子と父と3人で屋根をき替えました。それは久しぶりに訪れた懐かしくも愛おしい時間でありました。ちょうど母を失った年に失われた牧歌的な村の時間を再び得ようとしておりました。むろん、この度もその平穏は長くは続きませんでしたが。

 相変わらず下手な親子に代わって、梅子が茅葺かやぶき屋根の刈り込みをしようかと屋根に登る前に、一つの知らせが私たちの元に舞い込むことになりました。ついに病み村のC郷で今年も奇病が始まったというのです。わたしは梅子を先生のもとに急がせ、私だけでも診察のためと思いC郷に向かいました。


 その年の初めの犠牲者は千代ちよという老女でした。私がC郷に息を切らせてたどり着き千代さんの家に駆け込むと、すでに近所の者が数人で寝床を囲って念仏を唱えておりました。私はとっさに、まだ死ぬとは決まっていないのだと声を張りあげ、祈るばかりの人々を蹴り散らかすように分け入りました。

 寝床にあったのは、もはや人とは呼び難い姿に変貌へんぼうした千代さんの姿でありました。浅黒く変色した肌に覆われ、肉を失って陥没したまぶたに目玉ばかりはぎょろりと膨らみ、頬骨が耳のあたりまで鋭く骸骨がいこつの形を強調しているのです。ちょうど極限まで飢え、死にゆく人の姿に似ておりました。

 すぐに私は首に手を当て、頬を口元に寄せます。脈は弱く呼吸もすでに微かなものでした。おそらくそう長くは持たないことでしょう。続いて首から肩、腕を手早く触診します。私はこのとき村人たちの前にもかかわらず、はっきりと息を飲んでしまいました。そこにあったのは、すでに筋肉も脂肪も失われた、まさしく骨と皮ばかりの腕だったのです。これほどの衰弱は医学書でもまず見たことがありませんでした。

 そしてその指に手が触れたとき、私は胸の奥から消し去っていた恐ろしい記憶が蘇るのを感じました。血流も不確かなほど冷たく、ただ骨の硬さばかりが伝わるその細い指に、私は母の最期を思い出してしまったのであります。なんの遺言も述べられずに亡くなった母の無念と最期の苦しみへの共感が、一度に私の胸の中に激しい渦を巻き起こしました。

 私は思わずわっと声をあげて、そのやせ細った病人から飛び退きました。私の背を覆っていた念仏が止まり、視線は私に集まりました。その一人一人の顔が、今や病に怖気おじけ付いていた私に向けられました。まるで命を助けることのできぬ私の無力を、無念のうちに死んでしまった母ににらまれているような心地がして、私はそのまま立ち上がることもできずに人をかき分けて部屋を這い出してしまったのです。


 おそらく声をあげて泣いていたのでしょう。私が覚えているのは、聞きなれた声とともに肩を叩かれてなだめられたことでありました。息を整えて仰ぎ見れば、先生を連れた梅子が私の背をでてくれておりました。


「母上のことを思い出したのでしょう。病との戦いとは、苦しいものですね」


 先生はやはり冷静にそれだけを言って、ひとり颯爽と千代さんの眠る部屋に進み出ていきました。その背中は超然とした医学探求者のそれでありました。這いつくばって自らの心に苦しむ私と、毅然きぜんとした態度で病に臨む先生との間に大きな隔たりを感じた瞬間でもございました。

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