二 神の足跡

 神の足跡をはじめて見たとき、先生は短くこうつぶやかれました。


「奇なり」


 朝の肌寒さもいくらかこたえるようになった日。高く離れてゆく空が何か落し物をしたように、神の足跡は今年もポツリと姿を現しました。まだ他の山肌は青々として、葉先のわずかな黄味すら生じておりません。そんな中にまさしく紅一点。赤と黄色の晴れやかなる円が、まるで判でも押されたように一夜のうちに姿を見せたのであります。

 いずれ紅葉と名のつくものはこのように進むと思っていた幼少期とは、私もさすがに見る目が変わっておりました。およそ半間はんげん、メートル法なら直径10mほどの小さな範囲でのみ紅葉が進行するのは、まさしく以外の何物でもございません。


「あれが日毎夜毎ひごとよごと山を回りながら下るように動くのです。あれが始まるといよいよ秋の収穫と冬ごもりの用意の季節と伝わっております」


「決して神が病を致すと認めたわけではありませんが、あれが本当に神の足跡なのだとしたら、私はそこにいる神にお会いしてペトリ皿にすくってみたいものですね」


 私は先生の気の利いた冗談に笑わされました。神を顕微鏡で覗こうなどという大それたことを言い出すのは先生くらいのものでしょう。しかし先生にはそれをすることは許されておりませんでした。


「先生。残念ながら村のおきてであの足跡には寄るなと言われております。何か不浄のもの、あるいは本当に神がおわすかもしれないからと教えられております」


掟破おきてやぶりはいかなる目に遭うかね」


 先生は神の足跡を見上げたままそう問いました。まるでもうあそこに立ち入ることを決めたようなその口ぶりに、私は驚きとおそれを抱かされました。


「昔、山籠りした修験者すげんじゃで、ふもとに帰らなかった者が多かったと伝わります。以降掟破りの話は聞きません」


 そのような話をしていると、その日も同じ時間に喜一郎が姿を見せました。そして喜一郎は私たちに神の足跡についての思い出をひとつ語ってくれました。


「先生方、これは母をはじめ村の方には口外しないで欲しいのですが、僕は以前あの足跡の近くまで忍び込んだことがございます。そこでは平生へいぜいの山とは全く違った腐れた匂いがして、思わず鼻をつまみながら歩を進めました。木々の間に銀杏イチョウの黄色が覗いて、僕はいよいよ神を見るかとひとつの枝を手で払いました。そこにいたのは…白い蛇でございました」


「白い蛇?」


 思わず私と先生は声を揃えました。


「はい、真っ白な体に真っ赤な目を持った、蛇でございました。僕はその蛇にただならぬ宿命じみた畏怖いふとでも申しましょうか、子供心に神へのおそれを抱き、たまらずその足跡の内に入る前に両の手を合わせて念仏を唱えながら逃げ去った次第です」


私と先生はそれを聞いたはじめには、少し顔を見合わせて考えを巡らせました。


「それは喜一郎、ただ君が蛇を前に小心だったという笑い話と受け取っていいのかな?」


 少し考えて私がいうと喜一郎は安堵あんどの笑みを浮かべて、左様でございますと応じてから、今度はへらと笑って見せました。その笑い顔に自分たちが強張こわばってしまっていたことに気づいた私たちは、ひとつ伸びをしてその日の調査をはじめることができました。

 それにしても、神の足跡のもつ超越的な魅力と申しましょうか、それが神の名をって呼ばれているのも頷くだけの不思議な力を持っていたことは重ねて申し上げておきましょう。これまで平静を貫いていらした高倉先生までもが、喜一郎の笑い話をまるで神か何かとの邂逅かいこうの瞬間と聞き違えてしまっていたのですから。

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