五 紅を播く牙

 招かれて上がってみると、喜一郎はほんのわずかにやつれておりました。しかしかの奇病というには程遠く、座って自らの手で白湯さゆを飲んでおりました。


蝋燭ろうそくばかりで暗うございますが、お早い方がよろしかろうと存じます。今一度頭から申し上げます」


 喜一郎はそう断ると、にわかには信じがたい話をはじめました。しかしその口ぶりはあまりにも確信に満ちておりまして、まさしく自らの目でこれを見たという自信が感じられました。


「先ほどのお話の通りなら、すでにみなさま病を運ぶのが狼の神であるということはご了解いただけているものと存じ上げます。そして現に僕が見たものも、狼の神でございました。それはこの部屋ほどの大きさの首を持つそれはそれは大きな狼でございます。口はただの狼よりも一層深く裂け、そこには無数の鋭い牙が生え揃っておりました。瞳は青く、肌はただれたような赤黒で、見るも恐ろしい姿をしておりました。

 なぜ僕がかくもつぶさにこれを申し上げられるかと問われますと、他ならぬこの部屋にて私はその紅播牙くばんがなる神にまみえたからでございます。否、僕はかの神の正しい発音を知りました。それはクウルパングアという神にございます。

 それが僕の部屋に現れたとき、僕はすぐに死を覚悟いたしました。たちどころに力の、いえ筋肉と脂肪の失われていくのを感じ、これぞ奇病の原因と思い知ったのでございます。さらにはかの神を直視した僕の頭には不思議と一つの言葉、すなわち紅播牙クウルパングアなる言葉が結ばれました。それを神の御業みわざと言わずしてなんと申しましょう。

 僕は間違いなく死する定めにおかれました。それでもなおこうして先生方にお伝えできますのは、これは蛇神の守りがあってこそなのでございます。僕がいよいよ立ち上がることも声も出すこともできずにただ死をのみ待っていたそのとき、僕の体の底から二つの赤い目が輝くのを感じました。それは何時ぞやにお話しました白蛇の赤い目に違いありません。

 その二つの赤い目がぎらりと紅播牙クウルパングアを睨みつけると、かの神はまるで霊かかすみのごとくその首を透かしてこの部屋から引き抜き、みなさまも知るけたたましい吠え声を上げたのでございます。

 僕はそのとき一つの幻覚を見ました。何か大きな石積みの山にかの紅播牙クウルパングア君臨くんりんし、そのふもとには服を着た白蛇が何かの印の刻まれた宝玉を持って立っておりました。紅播牙クウルパングアが山から舞い降りると、白蛇の前に並べられた五人の人間が瞬く間にしぼんでゆきました。それはまさしくかの奇病と同じ姿であったように思います。そののち、手足をもった白蛇は宝玉を掲げて全く意味のわからぬ言葉を叫びます。


 バス・タグィリ・クウルパングア・ノス・ダアルグエア・エダビサス


 その喉をすり合わせたような奇妙な声を聞いた紅播牙クウルパングアは踵を返して山に向かったのであります。おそらくは、これこそ退魔の術に違いありません。

 この幻想から目覚めたとき、僕の前にはただ真っ暗な部屋だけが残っておりました。まるで全てが夢だったのではないかと思いましたが、手足はたしかにわずかに細くなっていたのでございます。おそらくはこれは現のことに違いないと確信したときに、母が現れ、追って先生方が現れた次第でございます」


 喜一郎の話をすべてそのまま信じるわけにはとても参りませんでした。しかし今の私たちにはそれを信じるほかに術はないように思われました。全員が顔を見合わせて態度を決めあぐねていたときに、はじめに口を開いたのは馬渕さんでございました。


「そろそろ私も諸氏に我が理論をお話しすべきときかと存知あげる」


馬渕さんはもったいぶってそでを振り、ふところから一枚の図面を取り出したのでございます。いよいよ私たちの調査は、科学と程遠いところに進もうとしておりました。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る