五 神の残したもの

 しばらくして駆け込んできたのは喜一郎でした。先生はそれを予期していたのでしょう、次のように言いました。


「喜一郎くん、何も見えないのは君の責任ではありません」


「どういうことですか、先生!」


 私が混乱の中叫ぶようにそう言うと、先生はここに至ってようやく、それまでに調べていたことを教えてくれました。


「実はわたしは『神の足跡』の土を採って顕微鏡にかけていたのです。あんなものは見たことがありませんよ。土に細菌がいないのです。それから…」


 土の中に細菌がいないことなど考えようがありません。当時ならば人の腸内に細菌のいないことは多少信じられておりましたが、しかし先生のその指摘によって、千代さんの体の中に細菌がいないということはまったく別の意味を持ったのでございます。


「お二人の記憶には薄いようですが、この土地には白い蛇の神が伝わっているようではありませんか、山までの往来で『白蛇の祠』なるものを見つけ、馬渕さんとひと口論を演じてまいりました」


 その言葉に一番ぎょっとしたのは喜一郎でありました。ただの蛇に怖気付いたと思っていた喜一郎は、いよいよ本当の神にまみえたということになってしまいます。


「そ、それでは…先生…」


 私は恐る恐る結論を急がせました。しかしこれまでの話で先生が言わんとしていることはよくわかっておりました。まったく非科学的な話でございますが、それ以外にこの病を論じる術はございません。


「白蛇の神が細菌を含めた生物の力を吸って、あの山とこの村を徘徊はいかいしていると考えるほか、合理的な説明はありません。いよいよ私たちは馬渕さんに頭を下げるべきときがきたのかもしれませんね」


 この言葉は私と喜一郎にとってたいへん苦い言葉でありました。豊かなる智嚢ちのうをお持ちの先生と違って、私と喜一郎は科学の学徒としてはまだ駆け出しでございました。そんな折にその科学では解決しえぬ問題のあることを、ほかならぬ学問上の師から聞かされたのでございます。


「先生、そう断じるのはお早うございます。『神の足跡』が本当に神によるものと決まったわけではございません。私を伴って今一度『神の足跡』に赴き、その絡繰からくりを明かしてみせましょう」


 私は無知ゆえの勇み足でそのように申し上げました。もうすっかり日も暮れかかっておりました。今から向かうのでは山間の暗がりを歩むことになりましょうが、私はがんとして譲りませんでした。先生は渋々それを承諾し、夕闇に紛れて御岳に残る『神の足跡』に向かうこととなりました。


 私はこのときひとつの決意を胸にいたしておりました。すなわちたとえ白蛇の神と邂逅かいこうを果たしたとしてもそれを野生の蛇と考え、携えたメスでひと刺しに首を貫き、その体を剖検ぼうけんにかけてしまおうという決意でございます。なんと不敬でおそれ多きことをとお嘆きになる方もいらっしゃるかもしれません。しかしそれこそが、この病の解決へと道を拓く唯一の方法でもございました。


 行燈あんどんに火を入れて、私と先生は御岳山に向かいました。夜に山に入るとは、まさしく異界へ入るということにございます。あたりには秋口の虫の鳴くりりりという声が響き、ときに吹き付ける風はざあざあごうごうと木々を唸らせます。

 かつて修験道しゅげんどうの修行僧たちが進んだという道は、まさしく山の霊力と出会う修験の道というほかありませんでした。いくら科学を学んだ私とはいえ、暗がりの山道で鬼や天狗、山姥の類を想像せずに歩くことはできません。ましてや我々は神の元に向かおうとしていたのでありました。

 やがてあたりに立ちこめ始めたのは異様な腐臭でございます。先を行く先生が手招きをして、私たちはやぶの中に歩み入ります。その先で私たちを待っていたのは、黄色の葉舞い散る銀杏イチョウの園でございました。

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