四 怪奇の剖検

 先生はどこまでも解剖学者でした。また始まった念仏を背に部屋を出ると、ようやく落ち着きを取り戻した私にいつもと変わらぬ穏やかな調子で言いました。


「亡くなるまで待ちましょう。剖検ぼうけんして症状を確かめます」


 片や私は治すことはできないのでしょうかともう一度すがってしまいました。そのときの先生のお答えの冷徹さといったらありません。


線維束性収縮せんいそくせいしゅうしゅくがありませんでした。神経の病でないということは、治せるかもしれません。生理食塩水と流動食で栄養を補給して、それを誤嚥ごえんして肺炎などを引き起こさなければという条件がありますので、それでも助けられるのは2割程度でしょうか」


「なら!」


 そう言いかけた私を、先生は冷たい視線だけで制してしまいました。先生には何かお考えがあったのかもしれません。しかし目の前の老女を見殺しにするだけの考えなどこの世にあるのでしょうか。

 しかしそのときの私には、それ以上先生に楯突たてつく勇気はありませんでした。私は惨めにもうつむいて口を閉ざし、なにも言わずに千代さんの亡くなるまで待っておりました。このときほど自らの無力を嘆いたことはありませんでした。人は力を身につけた後にこそ、自らの無力を知るのかもしれません。


 結局、千代さんはそれから1日とたずに亡くなってしまいました。そのご遺体は私たちの手で剖検ぼうけんにかけられることが決まり、調査本部に運ばれました。

 すべてのあばらを数えられるほどに痩せてしまった千代さんの体には、今や解剖を妨げるだけの脂肪や筋肉は全く残されておりませんでした。腹を切り開き、いまだ潤った内臓を目にしたとき、私と先生はすぐにある異常に気づきました。


「内臓内容物がないね。匂いも異常に少ない」


 消化にかかる時間は1日以上とも言われております。よもや千代さんが死に向けて1日以上なにも口にしなかったとは考えられません。小腸、大腸、そして胃を確かめた私たちは、喜一郎にその違和感を記録しておくように指示します。


「通常は行いませんが、気になることがあります。君はエッシェリッヒ医師の論文を読んだことがありますか」


「いえ、申し訳ありません、不勉強で」


「エッシェリッヒ医師によれば、人の腸内にもバシラス属の細菌が生息しているようです。私もそれを観測してみようと思います」


 先生の指示に従って、腸内の粘膜をこそぎ落として採取しました。ここまで処置をしたところで、先生は先の診断を捨てることを明言しました。


「やはり側索硬化症そくさくこうかしょうではありません。線維束性収縮せんいそくせいしゅうしゅくが見られなかった以上、これは間違いないでしょう。つい先日ワグネル教授がポリミオシテスという奇病を報告しました」


 多発性筋炎たはつせいきんえんという膠原病こうげんびょうの一種がどの程度知られているでしょうか。これは細菌感染をともなわない全身筋肉炎症という奇病で、当時世界各地で報告が相次いでおりました。細菌感染していないにもかかわらず炎症が起こることに首をかしげる方もいるかもしれません。これは自らの免疫が自らを攻撃するものと今日では知られております。とはいえ今でもなお治療の困難な病であります。先生はこのときその奇病の一種ではないかと推察なさったのでした。


「喜一郎くん、先ほどの腸の試料を顕微鏡に。君は筋肉の細菌をたしかめてください」


 先生はそう指示を飛ばすと、ほとんどただのすじと化してしまった筋肉にメスをあてがいました。


「たとえ多発性筋炎ポリミオシテスだったとしても、やはり突発性という点では特異な症状です。それに紅斑こうはんが…」


 先生はそこまで言うと筋肉を切除しかけた手を止めました。


「いや、違います。筋肉の中に血液の凝固が見られません…」


「では先生…?」


 私はそれでも先生の優れた能力を信じておりました。あの時代に世界各地の論文に通じた唯一の解剖学者だったのです。先生はメスを置くと口に当てていた布を取って、桶から水を掬って顔を洗いました。そして遠くを見ながら最後の診断を口にしました。


「私はこれに診断をつける能力を持ちません。これは新しい病です」

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