二 去れよ紅播牙

 死者の声だけに包まれた暗闇に銃声がひとつだけ響くと、それがどれほど悲しげに聞こえるのか、皆様にも聞かせてあげたいほどでございます。いったい先生はどうやってこの暗闇の中で怪物、いや神と戦っておられたのでありましょう。私は廃墟と死の村と化したB郷の只中で、紅播牙クウルパングアと先生を探してなおも進み続けておりました。


 ちょうど御岳神社のあたりまで進んだ時でございました。私の進む道の先の方で、赤い炎が瞬く間に立ち上ったのであります。私は思わずその眩しさに目を覆いました。その罠が何のためのものかなど考える必要もございませんでした。赤々と燃え上がった炎の中から、再びけたたましい吠え声が轟いたのであります。

 うつつの世に肉体を持って降り立った紅播牙クウルパングアの声量は、人知をはるかに凌いでおりました。やはり大地そのものが揺れたような脳震盪のうしんとうにも似た衝撃を覚え、私は思わず片膝と手をついて体を支えねばなりませんでした。しかしそこにじっとしているわけにも参りません。身体中を赤く燃やした紅播牙クウルパングアは、その燃え盛る炎の中に輝く二つの青々とした瞳をはっきりと私に向けたのであります。

 しかし私の体はまだ言うことを聞きません。ようやく両足で立ってみても、あの脳を揺さぶる吠え声の後では空気が私の体を左右に好き勝手引っ張り回し、足は思うように前に出ません。私は五歩と逃げぬうちに足をもつれさせて転倒してしまいました。慌てて後ろを見ればその背に炎をまとった大狼が憎き人間を食い殺さんと牙を剥き出しに地を蹴っておりました。

 そこにまた一つの銃声が轟きました。私を睨みつけていた真っ青な瞳が一つ輝きを失ったかと思うと、紅播牙クウルパングアは右肩から勢い余って轟音とともに崩れ落ちました。すぐに道に飛び出して私の肩を引き上げたのは、先生でありました。


「次の射撃位置に移ります。早く」


 それだけを言って私が立ち上がるのを確認すると、銃の遊底ボルトを引いて薬莢をはじき出しながら、崩れ去った家々の間を抜けて茂みに駆け込みます。置いていかれては命がないと悟った私も、すぐに先生の後を追いました。しばらく進むと、先生は茂みの中に伏せて紅播牙クウルパングアの燃え盛る姿を照準越しに睨みつけておりました。


「馬渕さんの言う通りですね。燃やせば狙いやすい」

「先生、どこで銃の扱いを」


 私に答えるより先に、先生はまた引き金を引きました。私は右の鼓膜が裏返るほどの爆音に思わず耳を押さえましたが、すでに遅く右耳は何も聞こえなくなっておりました。月明かりに見れば、先生は耳に栓をしているようでございました。なるほど吠え声の後もすぐに動けるわけでございます。

 しかし感心している時間はございませんでした。一発を放てば音でそれと察した紅播牙クウルパングアはたちまちこちらに踊り出ます。先生は撃つが早いかまた茂みを抜けて走りだしました。私も大慌てでそれに続きます。こうして何度もなんども撃ち続けていたのでございましょう。先生の息は全く上がってしまっておりました。


「先生、神を相手に根比べをしても勝ちようがございません! 相手は太古から…」


 私は口々に先生に他の策を求めましたが、何を言っても今の先生は聞く耳を持ちませんでした。もし相手がたった一度でもこちらを見失わずに追いかけて来られれば、たちまち私たちの命はございません。相手はいつ倒れるとも知れぬ神でございます。たとえ先生の諦めが神か悪魔の如く悪かったとしても、体の疲れには逆らえません。


 先生はまた次の一発を放ちました。いよいよ残りの弾も少なくなってきたのか、先生は苦い顔で遊底ボルトを引きました。私たちが走りだしたとき、私は視界の隅にこれまでと異なるものを見ました。ただ一つだけ輝いているはずの青い瞳が、二つ揃って輝いたのであります。そしてその両目は、私をしっかととらえておりました。

 私はすぐに翡翠ひすいの宝玉に腕を伸ばしました。呪文の文言など、あるいはどのように発音するのかなど、つゆほども覚えておりませんでした。しかし今はそれの他に策がございません。私は立ち止まって宝玉を掲げ、一声叫んだのであります。


「去れよ紅播牙クウルパングア!」


 しかしその獰猛どうもうなる牙はなおも勢いを殺さずに私の元に迫ります。いよいよ観念する他ないかと目を瞑ったとき、私の肩にぶつかるものがありました。次の瞬間、私と先生は共々、牙を噛み締めて駆け抜けた紅播牙クウルパングアの横に倒れ伏したのでございます。


 一命をとりとめたかに思われましたが、このとき先生の右腕は噛み抜かれ消え去っておりました。そしてまた直ちに紅播牙クウルパングアは私たちへと向きを変え、廃墟の只中に君臨したのでございます。

 いまや先生の銃も残されておりません。ただここには疲れ切った二人の人間と、古に伝わる宝玉とがあるばかり。どうして獣に対抗などできましょう。私を置いて逃げなさいと命じる先生を今度はこちらが無視して、私は翡翠ひすいの宝玉に刻まれた瞳を見ました。そのとき私は唐突に、自らのなすべきことを理解いたしました。


 私はとっさに先生の洋服の内ポケットにメスを求め、紅播牙クウルパングアが駆け出すより先に刃を取り出すと、躊躇ちゅうちょなく自らの左目を貫きました。先生はその様を見て何かを絶叫していたかもしれません。しかし私にとってそれは他に選択の余地のない行動でありました。

 駆け出した紅播牙クウルパングアを前に、私は左目のメスを引き抜き、プロビデンスの目を左手に掲げました。


去れよ紅播牙。永遠の契約に基づきバス・タギィリ・クウルパングア・ノス・ダアルグエア・エダビサス


 私は迷いなく、喉を擦らせるようなあの奇怪な声を上げておりました。宝玉が怪しく輝くと、私に食らいつこうとしていた紅播牙クウルパングアは再びかすみとなって湿った血なまぐさい風とともにその姿を霧消むしょうさせたのでございます。

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