四 人間の勝利

 その夜までに、村人にわずか一杯の蛇酒を飲ませて回りました。すでに立ち歩くこともできた喜一郎は、自らもこの酒を盗み飲んで病に打ち勝ったと言って回って村人の協力を仰いだのであります。


 しかし酒を配ることにたった一人だけが不安を申し上げておりました。それはかの御岳神社の神主にございます。なにかの確信を持って不安としていたわけではございませんが、ただ神酒とされるものをすべての者が口にすれば、何事か凶事がおきまいかと不安を口にしていたという程度のことでございます。

 このような不安については先生が化学物質のことを申して納得させる次第でありました。すなわち神酒とて化学物質の集合にすぎぬものであり、なんぞ神の怒りを招くことがあろうと言いくるめたわけでございます。

 しかし平静にもなってみれば、これはたしかに必ずしも円満な解決を招く方法とは言いがたくありました。もしかの蛇人間が実際に悪魔契約を果たしていたとすれば、その契約そのものを断ち切ったわけにはございません。あくまで人間がかの神に抗う術を身に付けたのみであって、畢竟ひっきょう急ごしらえの対処療法にすぎませんでした。


 とはいえその夜にこの酒が見せた効果は、いよいよ先生と私の勝利の心地を強くしたのでありました。

 なお病の訪れていない集落はB郷とF郷を残すばかりでございましたから、私は今夜にも紅播牙クウルパングアが現れるかもしれぬ宿舎の方に寝泊まりすることと致しました。夕刻訪れた梅子がさらに生気を取り戻しつつあったこともこれを後押しいたしました。私と先生は、もし可能なら身をってその薬酒の力を示そうと考えたのでございます。


 幸運というべきなのか、それともそこには何か運命的な結びつきもあったのでありましょうか。私たちはその夜、ついに紅播牙クウルパングアを目撃することとなったのでございます。


 その夜私はすぐに寝付いてしまっておりました。それもそのはず、前日からほとんど眠れていないことに加えて、慣れない人と慣れない洞窟を探索して、今度は村中を走り回って酒を配っていたのでございます。それは当然、暗くなるが早いか、私は寝床に倒れこんですぐにめまいを抑えながら眠りについたのでありました。しかし私には不思議な予感がございました。すなわち、私の元に紅播牙クウルパングアが訪れるに違いないとする予感でございます。

 私が何かの殺気に目覚めたとき、あたりは夕日の差し込んだように赤い空気に包まれておりました。恐る恐る布団から体を起こせば、人の足ほどの太さはあろうかと言わんばかりの大きな牙が初めに目に入りました。それを見て、私は紅播牙クウルパングアに違いないと考えるほどには、落ち着きを保っておりました。

 すぐに布団を離れて後退ると、果たして喜一郎の申した通りではありませんか。毛のない皮膚は赤黒く焼けただれ、その中に真っ青な目が奇妙に光って、裂け切った口に不必要なまでの数の牙が立ち並んでおりました。その鼻が一つ息をするたびに湿った空気が私の肌を伝い、その牙からは不潔きわまる粘液が滴ってもおりました。

 その姿は全く恐ろしいものでこそございましたが、それでも今や病に打ち勝つ確信を得た私はひるむこともありませんでした。話に聞く力を奪われるという作用も感じることなく、私はただ毅然きぜんとこの醜い狼に言い放ったのであります。


「去れよ、紅播牙クウルパングア。永遠の契約に基づき」


 しかし私の口から発された音は、これとは全く違うものでございました。その音は、私の喉をすり潰すようにして発されたのであります。


「バス・タギィリ・クウルパングア・ノス・ダアルグエア・エダビサス」


 その音が結ばれると、私の中に二つの瞳が輝いたのを感じました。赤く鋭いその瞳は、私がいつぞや神と見違えたあの白蛇よりもさらに力強く、たくましいものでございました。

 紅播牙クウルパングアがその首を穏やかに引き抜こうとしたとき、一つの銃砲が鳴りました。しかし霞となって去りゆく紅播牙クウルパングアの体に弾が突き刺さることはなく、それはただ壁に穴を開けたばかりでございました。


 そうして再び、あの恐ろしい吠え声が響いたのであります。それは今や獲物を失った狼の苦しみの声にも聞こえました。

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