五 明けぬ闇の始まり

 猟銃を放ったのは、先生でありました。先生は白蛇には飽き足らず、狼の神をも解剖せんとしたのであります。しかし今は私がそれをとがめるより先に、先生が私の肩を揺すって強い口調で疑問を口にされました。


「今の言葉はなんだね! どこでその発音を身につけたのですか!」


「先生、落ち着いてください。私にもとんとわからぬのです」


 このことで最も動揺したのは、ほかならぬ私自身でありました。自らの知っている限りの私自身とは異なる何かが、私の身を動かしたのでございます。その何かとは、明らかに蛇人間のそれに他なりませんでした。


「先生、よもやあの酒こそ悪魔サタンの酒であったなどということはございませんか。私の体は今しも蛇人間へと変貌しつつあるのでは…」


 私がそう口にすると、先生はそれをすぐに否定するだけの根拠を持ってはいないようでございました。しかし喜一郎は自らが奇妙な言葉を話したとは記憶していなかったことを理由にこの説に抗弁いたしました。


「しかし、このことは皆には秘密にしておいたほうがいいでしょう。もし自分が明日にも蛇人間に化けるやもしれぬなどと風聞ふうぶんが立てば、その毒を飲ませたる我々の首は繋がってはおれません」


 私たちは人の来るより先にそれだけを打ち合わせました。私が病に一時幻覚を見て思わず銃を放ったが、幸い体ばかりは元気に保つことができたといちいち笑い話にいたしました。次々に薬酒の効果を知りたがる村人たちを適当に追い返し続けました。その作り話を聞くにつけ、人々はついに病に対して打ち勝つ法を知ったと満足と安心を得て揚々と帰るのでありました。


 ただ喜一郎と馬渕だけは内に招き入れ、改めて喜一郎のときのことを問いただして確認をいたしました。喜一郎の答えを吉とするべきなのか凶とするべきなのか、なおも私たちには判断がつきませんでした。


「いえたしかに幻覚でそのような言葉を見聞きいたしましたが、それはかの紅播牙クウルパングアが去って吠え声をあげた時のことでございます。それまでにどうしてそのような奇妙な言葉を知ることができましょう」


 喜一郎の言葉と様子を見る限り、あの酒に毒があったとは考えにくいようでありました。もっともはじめにその酒を口にした喜一郎でさえも、蛇人間に化けゆく様子はありませんでした。そもそも蛇人間に化けゆく毒が神酒として伝わっているともとても考えられません。

 一方の馬渕は押し黙って一連の話を聞いておりました。そして何か物言いたげに私を見たのですが、口を開かずに懐からかの宝玉を取り出すと、静かにそれを私の前に差し出しました。


「昨日見つけたこのプロビデンスの目の宝玉、お預け申す」


「なぜ私に」


「もしかの呪文正しき発声を要するならば、いずくんぞく他の者これをなさんや」


 どうして他のものが正しく呪文を発声し得ようか、いやし得ない。馬渕がそう述べると、先生もこれに賛成しました。しかし私はというと、ただでさえ蛇に喉を操られた経験を持っております。これ以上かの蛇人間に近づくような真似はしたくありませんでした。


「すでに紅播牙クウルパングアとの決着は人間の勝利に決まっております。あとは我々調査団もこの薬酒の効能を調べに持ち帰れば全てが済むことにございましょう。いまさら古代の守り石などに頼らずとも、残るは顕微鏡と化学実験が解決するに違いありません」


 私はそう申し上げました。私は一刻も早くこのような奇妙奇天烈な理論や世界から離れたかったのであります。すでにこの村に帰ってきたころに比べれば、私は神だの悪魔だのと話過ぎてしまっておりました。もし東京に帰ってそのような話をすれば、これはまったく江戸の昔の怪談の世界に逆戻りと笑われることでございましょう。私の身にこびりついた蛇人間などという未開旧習の権化を少しも認めたくはなかったのであります。

 しかしその反対で、病が本当の意味で収束したなどとは思ってはおりませんでした。私たちが悪魔サタンあるいは紅播牙クウルパングアと呼んでいる者は、なおも生贄を求めて彷徨さまよい続けているに違いございません。

 皆の説得の末、私は渋々とその宝玉を受け取り、今や汚れきった洋服から着替えた和服の胸元にそれを忍ばせることにいたしました。

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