終章 世界の理を知る

一 落葉、落命

 本当の意味で私たちが怪異に直面しましたのは、そのまた次の夜でございました。それはあまりに凄惨せいさんで、語るのも苦しい夜となりました。


 これがこの秋の奇病の最後の夜になるだろうと覚悟はしておりました。だからこそ、私はあえて眠らずに梅子の元におりました。自らの力で呼吸をして、ようやく弱々しくも声を発するようになった梅子は、私が紅播牙クウルパングアうちはらったと聞いて、よかったと安心した声を漏らしました。

 今は私がいると思って安心して眠る梅子を見ながら、私は懐に隠した翡翠ひすいの宝玉を撫でておりました。その張り詰めた重みに、私は得体の知れぬ親しみを感じ取っていたのかも知れません。


 この夜も、またひとつの遠吠えが家々を揺らしました。三晩も続いた遠吠えであっても、やはり梅子は目を覚まして私を見ました。私はすぐに、吠え声のしたということは、紅播牙クウルパングアをまた下がらせたのでありましょうと梅子に伝えました。しかし梅子が安心してまた目をつむったとき、続けて響いたのは警鐘けいしょうでありました。


 ガランガランと響いた警鐘がすぐに鳴り止んだかと思えば、次には稲妻のようにあたりを引き裂く音が続きました。


「梅子、案ずるな、私が行ってしずめてくる。吠え声に驚いて火事でも起きたのやも知れん」


 私は梅子にだけは気休めを言いました。むろん梅子もそれをわからぬ娘ではございません。ただ小さくお気をつけてと言い残して、私の去るのをじっと見ておりました。


 私が梅子の家から飛び出たときには、またしても何かを引き裂くようなけたたましい音が響きました。私は二度目のその音の正体がわかりました。木々が、いや家々が押しつぶされて破壊される音に違いありません。そのような荒事を立て続けに二つも成せる存在がこの世にいるとすれば、それはただ一柱の神を置いて他にありますまい。

 私は村の反対側にあたるB郷に急ぎました。途中通り抜ける宿所には、やはりはありません。玄関扉が開いているあたり、先生も銃を持って飛び出たのでありましょう。続いて通り過ぎたのは喜一郎の家でありました。喜一郎は門のところから心配そうに西のB郷の方面を見つめておりました。


「喜一郎、先生を見たか」

「はい、銃を担いで先にB郷に向かわれました」

「決して家を離れるな、を落として忍べ」


 それだけを言い交わして私はB郷へと向かいました。B郷と申せば馬渕の宿もそこにございました。あの不敬者のこと、必ずや真っ先に襲われているに違いありません。先生が不必要に馬渕を助けんと発砲し、その身代わりとならねばいいのだがと思った矢先、闇の向こうから猟銃の音が聞かれました。


 既にいくつの家々が紅播牙クウルパングアに叩き潰されてしまったのでありましょう。またいったい幾人が噛み砕かれてしまったのでありましょう。私は相応の覚悟をして、ついに暗闇のB郷にたどり着きました。

 そこにあったのは、ただただむごたらしい光景でございました。初めに目に入ったのは細い腕でありました。誰のものなど知る由もございません。月明かりばかりを頼りに進めば、次には腹から下を失って内臓を垂らしたままにこちらを見つめる女の死体を見出しました。すぐ右にあったはずの家は粉々に打ち砕かれており、そこにただ銀杏イチョウの葉がり注いでおりました。

 またしばらく進めば、手放されて燃えている行燈あんどんあるいは草鞋わらじなどの痕跡はもちろん、食いちぎられた脚やときにはからだごと半分に裂かれた男の死体などが転がっておりました。

 しかしそのときの私には、無残な亡骸なきがらたちに手を合わせる暇はございませんでした。また一つの発砲音がどこからか鳴ると、それに応じる低く太いうなり声が聞こえました。まだこの暗闇のどこかで、先生と紅播牙クウルパングアが戦っているに違いありません。私はその音を頼りに、銀杏イチョウの葉のごとく死したからだが雑然と散らばった暗闇を歩き始めました。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る