五 科學者かくあるべし

 馬渕さんの言ったその不吉な予言を頭のどこかに残しながら、私たちの科学調査が幕をあけることとなりました。当時の科学調査というのは概ね三つのことを行っておりました。


 ひとつには中毒を疑うことができました。当時すでにいくつかの有機化合物が知られておりました。むろん無機化合物もよく知られておりました。それらの物質が人体に善悪の諸効果をもたらすことも研究によって明らかにされておりました。したがって私たちはこの地に独特の物質がなんらかの理由で生じており、それにより中毒を発症したのではないかということを試す必要があったのです。

 しかし私たち解剖医学者にとって有機化合物は明らかに専門外でありました。こればかりは先生の智嚢ちのうに頼るほかありません。私も抗生物質が医療を飛躍的に変えたのちにこれを学びましたが、当時には医学と有機化合物はまだまだ隔たりのある世界でございました。


 もうひとつには細菌の調査を行う必要がありました。19世紀は病の原因として感染症が広く知られるようになった時代でございます。病と聞けばまず病因となる細菌を見つけることが急務とされました。当然私たちも光学顕微鏡を持ち込んで、次から次に土や水を採取してはそこに特殊な細菌がいることを願って調査を続けておりました。

 たとえ実際に特殊な細菌がいたとして、それが本当に病と関わりがあると確言するまでには多大な労力と月日を必要とします。この村で失われゆく人々の命をこそ守ろうと思えば、私たちは一刻も早く細菌を知る必要がありました。その点もしもすでに知られている細菌が見出されればいくらか早く済んだことでしょう。しかしその代わりに学術的な成果は得られなくなってしまいます。科学者というのはなんとも歯がゆい二律背反ディレンマにさらされているのです。


 二律背反ディレンマの最たるものは私たちの本業たる解剖学にこそ現れております。解剖学は人の死体を切り開いてその体の異常を探す、剖検ぼうけんという手法を用います。つまりは誰か人死ひとじにの生じてこそ仕事の始まる医術なのです。私たちは村の奇病による死者をださないためにも、一人目の死者を待ち望んでいたことにもなります。

 おそらくは病について最も多くを知ることのできる方法ではございましょうが、自ら故郷の知人を剖検ぼうけんにかけるというのはやはり心苦しい思いのするものです。できることならそれより早く、この病の原因を何かひとつでも突き止めようと考えて、私と先生は調査に打ち込みました。


 来る日も来る日も畑や井戸から土や水をとっては顕微鏡で覗く日々でございました。先生は私の不得手な化学の手法で様々の色をした液体を滴下しては、その土や水の性質を解き明かしておりました。

 しかしそのいかなる調査もかんばしい成果を上げることはできません。むしろ土中や水中の微生物はほかの土地よりも少なく、汚染の少ない環境であることもわかりましたし、その水質にもなんの金属や妙な有機物も含まれてはおりませんでした。


 この調査の間、喜一郎も随分と調査の腕を上げたことも申し上げておくべきかもしれません。喜一郎はいつも私たちの調査本部にやってきては、私たちの仕事を手伝っておりました。最後の方には自らも顕微鏡を覗いて焦点ピントを合わせるようなこともやるようになり、あとは細菌の種類を覚えれば独自に調査もできるようでありました。

 自ら述べるのも恥を知らぬかと笑われそうでございますが、この村には時折こうした優れた智慧ちえのある者が生まれます。思えば私にしても喜一郎にしても、やはり田舎村に残って畑を耕すだけで生涯を終えるには、いくらか智の器が大きかったのでございましょう。


 かような優れたる3名の志士をもってしても、この奇病を解き明かすことは至難の技でございました。先生がいよいよこの難題には別の考えが必要だと口にしたのは、村の中央にそびえたる御岳の山肌に、ぽんとひとつの紅葉が現れたときでございました。

 大きなカンバスに一筆だけちょんと下したような紅葉でございます。それは山を巡りながら一晩明けるたびにひとつずつ、ちょん、ちょん、と紅葉の足跡を残していくのです。私どもはそれを御岳山の紅播権現くばんごんげんと結びつけ、『神の足跡』と呼び習わしていたのでございます。それはまさしく、秋の訪れを告げる風物詩。そしてなによりも病の季節の到来を意味する物悲しい光景なのでありました。

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