第4話 刹那
それは、ほんの一瞬のことだった。
佐竹はすぐさま目を開けて、ことの成り行きを確認しようとした。
だが、不思議なことに、足を止めた通行人たちは、まるで何事もなかったかのようにそこから移動してゆくばかりだった。トラックは一旦は停車したようだったが、運転手が少し周囲を確認した後は、すぐにそのまま行ってしまった。
(…………?)
明らかな違和感を覚えて、周囲を見渡す。
佐竹は洋介をそこに残して、交差点に近づいた。内藤が歩いていた交差点の横断歩道も、普段と別段変わったところはなかった。事故の痕跡なども、勿論ない。
そしていつもどおりに、道行く人々が歩き続け、車が流れてゆくばかりだ。
いま佐竹が目にした場面のすべてが、まるで
(一体――。)
眉間に皺を刻んで、呆然と立ち尽くしている洋介のところへ戻ろうとした時。
ぽん、と後ろから肩を叩かれて、佐竹は振り向いた。
「あ……!」
先にその人物の顔を見た洋介のほうが、声を上げた。
「にいちゃ……」
が、そう言いかけてすぐに口を噤む。さすが実の弟である。その人物と自分の兄との雰囲気の違いに、ひと目で気がついたらしかった。
「…………」
佐竹も、思わず絶句した。
そこには、先日佐竹が内藤に譲ったピンク色のパーカーとジーンズを身につけた、内藤にそっくりの青年が立っていた。
◇
「やあ、こんにちは。直接会うのは久しぶりだね。サタケ殿」
内藤にそっくりだが、歳は少し上に見えるその青年は、佐竹を見てゆったりと微笑んだ。品といい物腰といい、絶対にあの粗忽者の友人とは違う。
「あ。……そちらがあの、ヨウスケ君かな……?」
自分の名前が聞こえて、洋介がぴくりと体を竦ませた。勿論、彼にはこの青年の使っている言語が理解できない。
「……陛下。いったい――」
やっと搾り出した声を、ナイト王は少し手を上げて止める素振りをした。そして「静かに」という意味のジェスチャーをして見せる。
「まあ、話はあとにしよう。……どうか、こちらへ」
そう言うと、ナイトは二人を案内してその場を離れ、狭い路地の方へと入って行った。
佐竹には、それが誰であるのかはひと目で分かった。彼のほうはナイトとはちがって、あちらの世界での装束、つまりいつもの軽鎧姿のままだった。
男は腕に、気を失っているらしい内藤の体を抱いている。その服装は、あちらの世界の夜着に変わっていた。
「おう。なにどん
いきなり、たいそうな悪罵である。
「手間ァ掛けさせんじゃねえわ、ったく――」
竜騎長、ゾディアスだった。
洋介はその姿を見て、肝を潰すばかりにびっくりしたらしく、もうぴったりと佐竹の後ろにはりついていた。
「ああ、怖がらなくていいからね? こんな顔はしていても、心の優しいお兄さんなのだから――」
ナイトは洋介の傍に膝をつくと、いつもの優しい声でそう言った。
言葉は分からないなりに、洋介もナイトの優しい物腰に、ちょっと安心したようだった。
が、当のゾディアスは完全に半眼である。
「ひっでえな。『こんな顔』ってなんスか、陛下。……そらよ」
ゾディアスはそのままの顔でくるりと振り向いて、有無を言わさず、抱いていた内藤の体を佐竹に渡して寄越した。見たところ、彼に外傷などはないようだった。
「陛下、これは――」
内藤を受け取ってナイト王に目をやると、かの青年王はにっこり笑って、ここまでの顛末を説明してくれた。
来月、十二月の
その時点で内藤がどうなっていたのか、それを訊くことすら憚られたが、それでも佐竹は、一応の腹を据えてから訊いてみた。
「内藤は、その時……いったい」
だが、ナイト王はいかにも沈痛な顔をして、黙って首を横に振っただけだった。
「…………」
佐竹は、絶句した。
(……まさか――。)
佐竹はその時、真っ黒くて冷たい何かが、心底に広がって行くのをどうにもできなかった。ぎりぎりと、血の出るばかりに奥歯を噛み締める。そして、内藤を抱いた手に力を籠めた。
が、佐竹のその暗澹たる思いを打ち消すように、ナイトは努めて優しく、明るい声で説明をしてくれた。
「ともかくも。私はすぐ、サーティーク公とご相談した」
そして、サーティークはこう言ったのだという。
『ナイトウ殿がこのような仕儀になったのは、そもそも《鎧》によって、われらがあちらの世界へ干渉したことが原因だ。この度、ナイトウ殿がご体調を崩されたのも、おそらくナイト公と体を交換されたことが理由だろう――』
ナイトは言葉を続けている。
「だから逆に、われらはこの事態に干渉することに決めたのだよ。そもそも《鎧》によって引き起こされた仕儀であるならば、それを《鎧》によって収拾することは、あるいは許されるのではないか、とね……」
「…………」
佐竹は黙って、その一連の話を聞いていた。
実際、あの事故の瞬間にどのように介入するのかは、サーティークとナイトとで相当の相談をする必要があった。
あの《鎧》によって作り出される《門》は、その入り口を開閉するのに、ある程度の時間を必要とする。この場所のようなひと目のない所ならいざ知らず、あのようなひと目の多い場所にその《門》を開き、内藤を止めるのは相当難しいことのように思われた。
また、《門》によって歴史を改変するのだとしても、その時間帯はなるべく短いものであるのが望ましい。その時間が長ければ長いほど、歴史に影響を与える確率が上がっていってしまうからだ。
ナイトはサーティークとも協力し、実行者として、素晴らしい判断力と膂力の持ち主であるゾディアスを選んで王都から呼び寄せ、十分な準備をしてからことに当たった。こちらの世界の街中で、変に人の注目を集めないために、内藤の部屋のクローゼットから彼の衣服を拝借したのも、その一環らしかった。
ぎりぎりの判断ではあったが、サーティークはそのトラックの目前に、内藤に向けて《門》を開くという選択をした。できればトラックが内藤に接触するその一瞬前に、彼をこちらに引き込もうとしたのだ。
「しかしそれは、やはり上手くはいかなかった。……申し訳ない」
ナイトは心から済まなそうな声でそう言った。
ほんの少しのタイミングのずれではあったのだが、トラックは内藤の体を跳ね飛ばしたあとだった。ゾディアスは彼の体を空中で素早く抱きとめて《門》に戻り、《門》はすぐに閉じられた。周囲の人間は、佐竹を含め、だれもその《門》を見ることはなかっただろう。
「ナイトウ殿は、酷い怪我をされてはいたが、まだ息はおありになった。それでそのまま、かの《白き鎧》にて、十日ばかりの間、治療を行わせていただいたのだ」
佐竹は、愕然とした面持ちのまま、ただ沈黙していた。
ナイトは少しそこで言葉を切って、じっと佐竹の顔を見つめた。
「……サタケ殿」
静かな、深い声で名を呼ばれる。顔を上げると、佐竹の目は、いつもの柔らかで優しい視線と出合った。
「なんと言うか……。あまり、差し出がましいことは申し上げたくないのだけれど」
そして、本当に言いにくそうに、青年王はちょっと逡巡したようだった。しかしそれでも顔を上げ、再び口を開いた。
「あの時のそなたの様子……。とても、とても……、私の口から申し上げることはできないほどのものだった――」
それは恐らく、「事故」が起こってから後の、十二月朔日のことだろう。
「…………」
佐竹は奥歯を噛み締めたまま、じっとしていた。
その言葉は、想像するに余りあるほどのものを含んでいた。
それはそうだろう。
ことは、人ひとりの、命の問題だったのだから。
しかも。
……この、自分にとって掛け替えのない人のものだ。
佐竹は抱いている内藤の顔を、じっと、穴のあくほどに見つめた。
「サタケ殿……。ひとつだけ、いいだろうか?」
ナイト王の優しい声が、そっと耳に届く。
佐竹は、落としていた視線を再び上げて、王のその瞳を見つめた。
「勿論、私には、そなたたちに何かを強制する力などは何もない。……けれども」
訥々と、王は言葉を紡ぐ。それはまるで、頑是無い子供に噛んで含めるような声音だった。
そして、ひとつ息を吸い込んでから、こう言った。
「どうか、悔いのない人生を生きてもらいたい。……人の命は、いつ、どうなるとも知れないものなのだから――」
佐竹はただもう、絶句したまま、その王の言葉を聞いていた。
ゾディアスも、ただ黙って腕を組み、そんな佐竹をじっと見つめていた。
「……ともあれ」
そこまで言うと、ナイトはにっこり笑って、改めて佐竹を見た。
「もう心配はいらない。ナイトウ殿はご無事だ。あとは、折に触れてあの薬湯を役立てるようにしてほしい。あの薬は、こちらの世界の病から、そのお体をお守りしてくれるはずだから」
「……了解しました」
佐竹はもう、それだけ言うのがやっとだった。そんな佐竹を見て、ナイトとゾディアスは少し目を見合わせると、ちょっと笑ったようだった。
「どうか、ゆっくり休ませて差し上げて欲しい」
そう言うと、ナイトはあちらに残しているらしいディフリードに向かって何事かを申し付けたらしかった。途端、彼らの背後に再びその《門》が、あのプラズマ音を立てながら口を開いた。
「……ではな、サタケ殿。ヨウスケ殿。どうか、健やかに過ごされよ――」
ピンク色のパーカーとジーンズ姿のまま、ナイトが《門》へと戻ってゆく。ゾディアスも、すぐにその後に続いた。
「陛下、竜騎長殿。この度は、誠に、……まことに」
あとは、さすがの佐竹も言葉が続かなかった。語尾が震えてしまいそうになるのを、どうにか堪えるのがやっとだった。
そして内藤を抱いたまま、なるべく低く頭を下げた。
と、ひょいとゾディアスが踵を返してこちらに戻ってきたかと思うと、べしっと、下げている佐竹の後頭部を平手ではたいた。結構な強さだった。
「ばっきゃろーが。これに懲りたら、大事な奴ぁ、てめえの両手できっちり守れ。……いいな」
そう言って、最後にまた軽く片目をつぶって見せると、巨躯の男もナイトに続いて、その《門》に飛び込んで行った。
◇
再び、内藤の部屋。
内藤は呆然と、佐竹のする一連の話を聞いていた。
空になったマグカップを持ったまま、信じられない気持ちでただ沈黙している。
(そっか……。俺、そうでなかったら――。)
自分は、母の亡くなったあの同じ交差点で、それとまったく同じ憂き目に遭うところだったのだ。
「…………」
そう考えると、今更のように、かたかたと体が震えてきて、内藤は困り果てた。止めようと思うのに、どうしても、それは止まってくれなかった。内藤は膝の上にカップを置いて膝を立て、自分の体を抱きしめるようにした。
「……内藤」
そんな様子を見て、佐竹がこちらに手を伸ばし、再びしっかりと抱きしめてくれた。
内藤は彼の肩口にまた頭を埋めた。佐竹は子供にするようにして、静かに髪を撫でてくれた。
佐竹にそうしてもらっていると、何か本当に安心して、次第に震えが止まってくるのが分かった。
「……お前が、生きていてくれて良かった」
いつもの、静かで深い声が耳元でそう言った。
そしてまた、佐竹の手に力が籠もった。
(………!)
内藤は、目の奥が熱くなるのを止められなくなった。
だけど今は、それは決して、悲しいからでも、つらいからでもなかった。
「……うん」
内藤も、ただひと言、そう言った。
言った拍子に転がり落ちた熱い雫が、
佐竹のカットソーの肩を静かに濡らした。
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