第6話 傷

 校門から出て、最寄り駅までの歩道を足早に行きながら、佐竹は先ほど、ちらりと耳にした今井翔平と内藤との会話を反芻していた。


『《お嬢様の落とし方》まではわかんねえけど』――

『みんなに絶対言うなよ』――


 勿論、あの場では言葉の端々しか聞こえなかったが、それだけでもう、大体のことは想像がついた。後ろで自分が聞いていたことに気づいてからの、あの内藤の慌てようと、真っ赤になった顔をふと思い出す。


(……そうか。)


 そういうことなら、それでいい。

 ただそう思って、その場を後にした。

 勿論相手のあることなので、向こうの少女がどう言うのかは知らないが、それもこれも、別に自分が口を出すような話ではない。

 むしろ内藤が、ようやくこちらの世界へ戻って、彼が本来生きてゆくべきこちらの世界での人生を歩みだそうと動き始めたということなら、それはただ、喜んでやるべき場面なのだろう。佐竹はそう思うだけだ。

 そして何か、何となく覚えるこれは、確かに安堵でもあった。


 内藤とは、「友達」でいる。

 そのことが、これで決定付けられたような気がしていたからだ。


 駅の構内に入ると、すでに前の電車は発車した後で、内藤の姿もホームには無かった。次の電車を待つ間、佐竹は彼の携帯に電話を掛けた。

 やはり、出ない。


(……なんなんだ。)


 何か、奇妙な違和感がある。

 先日、こちらが不自然に距離を取ったとき、内藤は明らかに挙動が少しおかしくなったが、その後もとに戻ってからは、以前と同様に過ごしていたはずではなかったのか。

 先日の一件以来、事態が落ち着くまでは単独行動は控えろと言って来たにも関わらず、先ほどのメールといい、こうして勝手に一人で帰ることといい、やっていることが矛盾しすぎてはいないだろうか。

 勿論、いついかなる時でも自分の言うことを聞けなどと、傲慢なことを言うつもりはない。内藤は内藤、一個の立派な人格だ。彼が何を選択し、またどう生きるのか、それは彼自身が決めることだし、それをどうこう言う権利など自分にはない。

 だが、ことは彼自身の身の安全に関わる問題だ。あまりないがしろにするのもいかがなものかと思うのだが。


 スマホの時計では、そろそろ七時が近づいている。

 洋介の通う学童保育は、基本的に五時が解散時刻だが、親の都合がどうしてもつかない場合のみ、多少の延長は可能らしい。それでも、確かデッドラインは七時だったはずだ。

 本来なら、もう内藤はそこへついている必要がある。

 佐竹は少し考えてから、学童のほうへ電話を入れてみた。

 電話には、すぐにあの職員の女性が出てくれた。手短かに用件を伝えると、彼女はすぐに返事をした。

『洋介くんのお兄さん? ああ、それが、まだ来ないのよ――』

 女性は困った声でそう言った。

 仕方なく、先ほど父親のほうへも連絡を入れたらしい。

 佐竹は女性に無理を言い、もし内藤がやってきても、自分かその父親が到着するまで、学童の建物に二人を留め置いてもらえるように頼み込んだ。女性はちょっと驚いたようだったが、事情を聞いて、最後には了承してくれた。

「有難うございます。どうぞよろしくお願いします」

 佐竹は礼を言って電話を切った。


(……やはりか。)


 ちりちりと、先ほどから首の後ろあたりに違和感を覚える。

 いやな予感は、残念ながら的中しているのかも知れない。


 佐竹はようやくホームに滑り込んできた電車に乗りこみ、窓外を眺めながら、いくつか想定される場面と今後の対応について一応の考えを纏めておいた。



                ◇



 自宅の最寄り駅で下車した時、時計はすでに六時半を回っていた。


(うわ、急がなきゃ……。)


 スマホをちらっと見ると、先ほど入っていたらしい佐竹からのメールが目に留まった。


『 すぐに追いつく。駅から出るな 』 


「…………」

 内藤はしばらく、そのいつも通りの端的なメールをじっと見ていた。


(これはやっぱり……、もろばれだよな。)


 ちょっと溜め息をつく。「翔平と一緒に帰るから大丈夫」だなどと適当なことを書いてさっき送ったメールは、あの佐竹にはとうに噓だとばれてしまっているのだろう。

 「駅から出るな」とは言われても、ここから出ずに学童に行く事はできない。

 駅の周辺はこの時間でもまだ十分人通りも多いことだし、すぐ近くに派出所もある。そんなに危ないことはないのではないだろうか。

 第一、あれから今まで佐竹と一緒に歩いた分には、あの男たちの姿を一度も見かけたことはなかった。きっともう、彼らは内藤のことなど気に掛けてはいないのではないだろうか?

 そもそも普段、このあたりで見かけるような連中でもなかった。あの時はたまたま、この界隈にやってきたというだけで、普段たむろしているのは全く別の地域なのではないのだろうか。

 いや、できればもう、そうであって貰いたい。


(ほんっと……、頼むよ。)


 内藤はちょっと祈るような気持ちになりつつ、それでも駅の改札を出てから、駅構内の柱の傍に身を隠すようにして、しばらく駅の中や外を窺っていた。


 洋介のいる学童は、ここから歩いて五分ほどの所にある。

 途中までは明るくて、人通りも多い道だ。周囲をしっかり見ながら歩けば、佐竹が心配するほどの危険は冒さずに、目的地まで辿りつけるはずだと思う。

 ただ問題は、その先かも知れなかった。

 あの小さな洋介をつれて、ぐっと人通りの少なくなる住宅街へ入ってから、またしばらくは歩かなくてはならないのだ。そこで万一、彼らに出くわしてしまったら、自分などにはとてものこと、あの洋介を守りながら事態を何とかするすべは無いだろう。

 内藤はつくづく、自分が今まで、どんなに佐竹に助けられてきたのかを痛感した。


 自分が佐竹と顔を合わせづらいからといって、こんな風に洋介の身まで危険に晒す、それはやっぱり、兄のすることとして間違っているのかもしれない。

「…………」

 内藤は、バッグの肩紐をぐっと握り締めて視線を落とした。


(どうしよう……。)


 やっぱり、佐竹の言うとおり、ここでしばらく待っていようか。


(でも……会いたくない。)


 今日はもう、佐竹のあの目を見たくない。

 きっともう、心の奥底まで見透かされてしまうから。

 いや、もちろん今までだって、ほんの僅かの隠し事だって、できたためしはないのだけれど。


 内藤は、俯いたまま逡巡する。

 実際、何かが起こってしまってから後悔したって遅いのだということは、自分だって身に染みて感じてきたことだ。

 母の交通事故は、その最たるものだった。

 あの日、自分がこうしていたら、ああしていたらと、あれ以来内藤自身、どれだけのことを考えてきたことか知れない。

 バスケ部の朝練で、朝早くから家を出て行く自分のために、まだ暗いうちから起きだして弁当の用意をしてくれていた母。

 あの日は確か、少し風邪気味で、体調だって良くなかったのに。

「育ち盛りの男の子って、本当によく食べるわね」

 なんて笑いながら、ちょっと咳をしてマスクをしていた。


 みんなが出かけて、スーパーへ買い物に出た母は、飲んでいた市販の風邪薬のせいでちょっとぼんやりしていたのかもしれない。

 信号が赤になっていたのに気づかずに、信号を無視して渡っていった隣の若い学生か誰かに釣られるようにして歩き出して――


 やってきたトラックにはねられた。

 即死だったのが、たったひとつの救いだった。



 この世には、「取り返しのつかないこと」なんて山ほどある。

 「人生にはやり直しが利く」なんて、それはあちこちでよく耳にする言葉だけれども、だからといって、すでに起こってしまった事や、失われてしまった命は替えが利かない。心や体にできてしまった傷だって、まったく無かったことにできるはずがない。

 たとえ命が無事であっても、その「傷」が理由で死を選んでしまう、そんな人たちだって確かにいる。事件が解決したから、犯罪者が捕まったから、そしてそいつが「反省」しているから――だから終わりなわけではないのだ。

 できてしまったその「傷」は、誰が癒してくれるというのか。


 先日、あのナイトが未来から助けてくれなかったら、自分だって今頃どうなっていたか分からない。あの緊張した佐竹の表情から考えても、あのまま佐竹が来てくれていなかったら、それこそ自分は、どんな「傷」を負うことになっていたことか。


(俺が今やってることって……、もしかしてその、『取り返しのつかないこと』を、自分から呼び込んでる……?)


「…………」

 そこまで考えて、やっと内藤は心を決めた。

 そしてスマホを取り出し、学童の連絡先を探し出した。

 もう、七時は目前だ。

 先に職員さんに連絡を入れ、もう少しだけ待ってもらうようにお願いしよう。

 そして、佐竹がここへ来るのを待って、それから二人でそこへ行こう――。


 と。

 持っていたスマホを、誰かの手がひょいと取り上げた。

「あ」

 と声を出したあと、内藤はその場で戦慄した。


「……よお。やっと会えたな、お兄ちゃん」

 下卑た楽しげな声がする。

「………!」


 全身の血が、凍りついた。

 目の前で、あの「毒蛇の刺青タトゥー」が、揺れていた。


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