第二章 月見れば

第1話 真綾

 科戸瀬真綾しなとせまあやは、名門、白桜女子学園の一年生だ。

 兄の慶吾は私立の男子校、東鷹とうよう学園の三年生で、幼い頃から文武両道、勉学と剣道に邁進してきた努力の人である。

 妹の自分が言うのもなんではあるが、長身で、見た目もすこぶる爽やかであり、男子校の生徒であるにもかかわらず、女性からお付き合いを申し込まれる頻度といったら半端なものではない。

 それでいて、浮わついたところは少しもなく、ごく真面目で謙虚な兄は、長らく真綾の自慢の兄でありつづけてきた。学校の成績も常に上位をキープしている上に、剣道の強豪校として知られる東鷹学園の剣道部、その主将を務めるほどの実力者である。

 もちろん勝負の世界には、常勝などという言葉はありえないけれども、それでも兄は、相当の確率で、これまで相対してきたライバルたちから勝ちをもぎ取ってきたと思う。そしてなおかつ、そのことに決して慢心するような兄ではなかった。


(……それが。)


 今年のあの九州での大会だけは、いつもと様相が違っていた。

 剣道の世界では全く無名と言ってもよかった普通の公立高校に、彗星のように現れた一人の剣士が、それは凄まじいまでの剣勢を見せて、瞬く間に優勝杯をもぎ取っていってしまったからだ。


 佐竹煌之さたけあきゆき

 「少年」と呼ぶにはあまりにも静謐な佇まいを見せるあの剣士を、その会場にいたほとんどだれも、それまで知らなかったのだという。 

 ただ、ごく僅かだったが、中には中学剣道の大会で見たことがあるという人もいた。

 しかし、その人の弁によるならば、それ以来何年も、彼はこうした大会には参加していなかったはずだというのだ。


(……いったい、どういうことなの。)


 そんな風に何年も剣の世界から離れていながら、いきなり全国大会に出場などして、あんな剣技を披露できるものなのだろうか。

 兄を応援するために会場の隅で試合を見ていた真綾は、彼の剣捌きを見た瞬間、息をするのも忘れた。はたで見ていてすらそうだったのだから、実際に相対している選手たちにとっては、その衝撃はいかばかりのものだったろう。


 佐竹の剣は、とても十七歳のそれとは見えなかった。

 静かで、ただ静かで、熱さなど微塵も感じさせないというのに、相手はもう試合の初手から竦みあがって、動きを封じられているようにさえ見えた。


 実際にあいまみえた兄の言葉を借りるなら、

『――背筋が凍った。あいつは、凄いよ』。

 と、そういうことになるらしい。

 その凄まじいまでの剣気はもはや冷厳そのもので、どこに打ち込んでも到底無駄だと、心底から思わされてしまうのだという。

 竹刀など触ったこともない真綾には、そこまでの域のことは正直わからないのだが、確かに遠くから見ているだけでも、その剣勢の凄まじさは肌で感じた。


 兄を破り、優勝を決めて面をはずした佐竹は、周囲で大喜びしている他の部員たちとはまるで違って、やはりただ静かだった。そして、最後に敗者たる東鷹学園高校の面々に、きりりとした美しい礼をして、すぐに会場から去ってしまった。


(……会ってみたい。)


 心が震えるようにして、そう思った。


 別に、大したことではないのだ。

 ただ、ほんの少しでいい。

 真綾は、直接彼の顔を見て、話をしてみたくなったのだ。


 だから、下校後、運転手の遠山に少し無理を言い、あの公立高校前で彼を待ち伏せるようなことをしてしまった。

 最近では、未成年のプライバシーに鑑みて、たとえ学校に連絡しても、そうそう生徒の連絡先など教えてはもらえなくなっている。夏休み中では生徒も登校しては来ないため、やむなく二学期が始まるまで、真綾はじっと待っていたのだ。ああする以外、彼に会う方法などなかった。

 そうして、やっと会えたというのに。


(わたくしったら……。)


 あの試合を実際に見ていたのだから、真綾自身、試合の成否そのものに異論などあるはずもなかった。なによりも、他ならぬあの兄が、自分の負けを認めているのだ。

 彼は強かった。あの勝負について、真綾が口を挟めることなどひとつもない。


(……そう、思っていたのに。)


 実際に彼に会ってみれば、やや古風な風情ながらも、彼もあの兄に負けず劣らず、相当に姿の美しい青年に見えた。長身で、態度に非常な落ち着きがあり、なにより身のこなしが美しい。それはまるで、彼の心の清廉さを表しているようだった。


 ……しかし。

 彼の態度は、真綾が思っていたのとは随分違った。

 真綾が何か、彼の機嫌を損ねるようなことをしてしまったのかもしれなかったが、ともかくも、あの兄とは打って変わって、彼の口ぶりは辛辣だった。


『未成年者略取及び誘拐罪に当たる、立派な犯罪行為』――。


(あんな……、いきなりわたくしを犯罪者扱いして。)


 真綾は思わず、膨れっ面になる。

 少し乱暴に、持っていた紅茶のカップをソーサーにがちゃりと戻した。

 あの時、なにか立て板に水のごとくに法律用語で畳み掛けられ、真綾は瞬間的にかあっとなって、気がつけばもう、思ってもいなかった愚かな言葉を、彼に向かってぽんぽん投げつけてしまっていた。

 あとで死ぬほど後悔したけれど、それはもう、あとの祭りというものだった。


「…………」

 はあ、と情けない溜め息が漏れる。

 あれから、どれだけ自分はこんな溜め息をついたことだろう。


 連絡もなしに少し帰宅の遅くなった真綾に、両親は理由を尋ねた。

 真綾は誤魔化そうと試みたが、両親も兄も、あっというまに運転手の遠山から、事実を聞きだしてしまったのだ。


 兄は、猛烈に激怒した。

 真綾に対しては、普段あれほど優しい兄が、本当に珍しく声を荒らげてこう言った。

「愚かなことをしたな、真綾。いずれ俺も、直接謝りに行かせて貰う」

 自身が主将であるために、部を放り出してすぐに出かけるわけには行かず、兄はひとまず、真綾自身が彼に謝ってくるようにと、最後はそう言ったのだ。

 そして、一枚のメモを真綾に託した。

 真綾は今、ポケットからそっと取り出したそれを、じっと見つめて待っている。



 と、喫茶店の入り口のドアにつけられたベルがかららんと軽い音を立てて、真綾はそちらに目をやった。

 待ち人、来たる。

「あ。こんにちは……」

 それは先日、その小さな可愛らしい弟とともに我が家に招待した、内藤祐哉という高校生だった。下校途中らしく、まだ高校の制服姿だ。冬服はグレーのブレザーのはずだったが、今はまだ夏服のため、半袖のカッターシャツに、細い臙脂色えんじいろのネクタイ姿である。

 真綾はにっこり微笑んで、テーブルからさりげなく手を振った。

 内藤は、あまり下校時にこんな店に入ることがないのか、少しおどおどしながらこちらへやってきた。そして真綾の正面に座り込む。

「あの、えっと……お待たせしました」

 ぺこりと頭を下げる。あの佐竹の友達にしては、随分と雰囲気の違う少年だ。何より彼には、「少年」という形容が、まだ十分にあてはまる。

「いいえ。こちらこそ、お呼びたてしてしまって申し訳ありませんわ、内藤さま」

 真綾は笑顔を崩さないままそう言って、一度居住まいを正した。

「まずは、お詫びをさせてくださいませ。先日は本当に、ご迷惑をおかけしてしまって申し訳ありませんでした」

 言って、深く頭を下げる。

「あっ、いえいえ……!」

 内藤は目の前でぱたぱたと手を振った。

「あれは、俺も色々考えが足らなくて……。真綾さんには、可哀想なことになっちゃって、本当にごめんなさい……」

 心から申し訳なさそうに、内藤がそう言った。

 実のところ、あのごたごたがあったせいで、真綾は内藤に兄からの預り物を託すタイミングを失ってしまったのだったが、それは勿論、目の前の彼の責任ではない。


 その時、ウエイトレスが注文を取りに来て、内藤はアイスコーヒーを注文した。そして改めて真綾のほうを真っ直ぐに見た。

「佐竹には真綾さんのこと、ちゃんと話してはおいたんだけど。……なんか、うまく伝わってないかもしれない。ごめんね、ほんとに……」

 真綾は頭をあげて、自分よりひとつ年上であるはずの、目の前の少年をじっと見つめた。内藤は所在なさげに頭を掻いて、椅子の上で小さくなっている。

「いいえ。そのことは、もう……」

 なんだか、自分よりも年上の男の子なのに、「可愛い」という形容がぴったり来るような雰囲気の人だ。

 兄やあの佐竹とは、まるで違う人種のようにも思われる。顔立ちや立ち姿は、特に素晴らしい美形だというほどではないが、なんとなく醸し出す雰囲気が、柔らかくて優しい感じがするのだ。

 そういえば、あの弟だという少年に対する態度から見ても、彼はとても優しい兄であるようだった。


(……なんだか、不思議。)


 この人とあの佐竹が非常に仲のいい友達だというのも、言われなければまったく想像がつかない。

「内藤様こそ、あのあと、大丈夫だったのですか?」

 真綾は、一番気になっていたことを聞いてみた。

 途端、内藤の顔がふっと曇って、真綾は「ああ、やっぱり」と思う。

「ん……、まあ、怒られたけど。当然だから、しょうがないよ。ははは……」

 困ったように笑いながら、内藤はまた頭を掻いている。

 と、アイスコーヒーが運ばれてきて、内藤はストローの封を切り、それを少しだけ飲んだ。からから、とグラスの中で、軽い氷の音がする。

「で、あの……。話って、なに……?」

 恐る恐るといった感じで、真綾のほうを窺っている。

 真綾は彼を安心させたくて、またにっこりと笑って見せた。

「はい。折り入って内藤様に、ご相談があるんですの……」

「…………」

 きょとんとしている内藤を前に、真綾は「さてどこから話をしようかしら」、と小さな頭の中でくるくると思考を巡らせていた。



                ◇



「本日も、有難うございました」

 山本師範に一礼して、佐竹は今日の稽古を終え、師範の道場を後にした。

 空はすでに、夕闇の迫る頃合となっている。気の早い星がもうちらほらと、茜色から紺色へと落ち込んでゆく絨毯のうえに光を落としていた。


 竹刀と道着の入った稽古袋を肩から提げて、大股に自宅への道を辿ってゆく。

 胸ポケットに入れたままのスマホは、最近あまり確認しない。

 これに連絡してくる人間は、あの馨子を除けばせいぜい一人しかいない。そしてその一人も、近頃ではあまり、積極的には連絡してこなくなっている。その理由は、多分に自分の方にあるのだが。


 あの、いくら呑気な内藤でも、さすがに今では気づいていることだろう。

 自分が明らかに、彼との距離を取っているということを。

 授業中、また休憩時間中、ちらちらと彼がこちらを窺っていることも知っている。本を読んでいて気づかないていを装ってはいるが、それに気づかぬ自分ではない。

 何より彼は、端で見ていて少し心配になるほどに、分かりやすすぎる奴なのだから。


 そして。

 内藤は、最近少し元気がない。

 恐らくは、自分がこういう手段に出たことを、彼自身に非があるからだと思い込んでいるのだろう。事実はそうではないのだが、今の自分は、わざわざそれを彼に説明してやるわけにもいかない。

 それを説明せんがため、敢えて距離を取っている当の相手と二人きりになるのでは、本末転倒もいいところだ。

 だから自分は何も言わず、ただ今は離れている。

 離れて、考える時間を取っている。


(……未熟者もいいところだな。)


 自嘲のうちに、そう思う。


 これが内藤に負担をかけてまで、本当にすべきことだったのかどうか。

 それでさえ、今の自分には判断がつかないままだ。


 どうするのか。

 どう考えるのか――。


 先日、彼の頬を張り飛ばした、自分の右手をふと眺める。


(……あれからだ。)


 あれから、「ただの友達としての距離」が、ひどくあやふやになってしまった。

 あの雨の夜、思わず彼に触れてしまったことで。


 どこまでが「そう」で、どこからが「そうでない」のか。

 それを一体、誰が教えてくれるというのか。

「…………」

 右手をぐっと握り締め、再び体の脇に戻す。


 ともかくまだ、自分には「向き合う」時間が足りていない。

 いや、たとえそれが十分には足りないのだとしても、せめて自分がいったい「どちら」なのかがわかってからでなければ、内藤と元のように付き合ってゆくわけには行かないと思う。

 「そう」であるというならば、事実は事実として受け止めよう。

 しかし、それならそれで、内藤を前にした時に、自分を律するための心構えが必要になるはずだ。


 先日のようなことは、もう二度とあってはならない。

 どうやらあの友人は、「かの世界」で起きたすべてのことから、この自分を「命の恩人」だなどと大袈裟に考えている節がある。

 だとすると、万が一にも、自分がまた先日のような行動に出た場合、あの友人は、きちんとそれを拒絶するすべを持っていると言えるだろうか――?


 ……いな

 それが、今の自分の答えだ。


 そんなことが、あってはならない。

 決して、あってはならないのだ。


 彼の人生を、自分の勝手でどうにかするつもりは毛頭ない。

 彼が自分を「いい友達だ」と思い続けるというのなら、それはそれで構わぬと思う。

 ただ自分は有難く、そういう自分であり続けるばかりのことだ。


 何かを求めるつもりはない。

 彼が幸せであるなら、それでいい。

 それが誰とであれ、どこでであれ、それは全て、彼の自由だ。


(……だから。)


 自分は何も、言うことはない。

 あとはこの覚悟が定まるまで、少しの時間を与えて貰いたいと思うばかりだ。


「内藤……」

 静かに呟いたその声が、

 思った以上に掠れたものに聞こえた気がした。


 もうすぐ満月を迎える大きな月が、ようやくゆるゆると、石と硝子に覆われたビルの陰から姿を見せ始めていた。

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