第6話 距離
目的の階に着くまでのあいだ、エレベーター内はずっと静まりかえっていた。
いきなりこういう状況になって、内藤も佐竹になんと喋りかけたらいいのか分からない。
(っていうか、今まで俺、こいつと普段、どんなこと喋ってたんだっけ――。)
そんなことを考える間にも、あっという間にエレベーターは止まってしまい、廊下を抜けて佐竹の家の扉の前についてしまう。
佐竹は玄関扉を開け、内藤を招き入れた。
「どうぞ」
「あ、お邪魔します……」
一般的なマンションよりは相当広い玄関スペースだが、靴は佐竹がいま履いているもの以外、一足もない。
殺風景というのではないが、よく整って落ち着いた雰囲気はいつも通りだ。内藤は、そのまま廊下を通って広いリビングへ歩いてゆく、佐竹の背中の後ろについてゆく。
内藤は、ここへは以前に一度来た事があるだけだが、前回と同様、「やっぱりあまり生活感の感じられない家だなあ」と、改めて思ったりした。
「適当に座ってくれ。コーヒーでいいか」
そのままアイランド型のキッチンの向こうに入った佐竹が、静かな声で訊いてくる。
「え? ああ、うん……」
佐竹の家のリビングは、アースカラーを基調とした、やっぱり落ち着いた設しつらえだ。いかにも派手好みそうな馨子のためというよりは、この家に居る時間の長い家族のために選ばれたテイストであるように思われる。すなわち、佐竹と宗之だ。
もっともそのうちの一人は、もはや永遠にこの場所に戻ってくることはないのだろうけれども。
内藤はこげ茶色の革張りのソファに小さくなって座り込んだ。
なんだか、自分のような庶民の高校生がスクールバッグを置いて座るような場所ではないような気がして、自然と身が縮んでしまう。
「あ、あのさ、佐竹……」
とりあえず、話のきっかけを掴まねば。
そう思って、まずは話しかけてみる。
佐竹は常に変わらぬ静かな目線でこちらを見返した。
「あ、えっと……、体調、どうなの? それともやっぱり、ずる休みとか……?」
へらっと笑って、そう聞いた。
「なんか、なんだかんだでそういう事はしなかったのにな? 今まで」
本当は、佐竹が自分のこういう顔をあまり好きでないことは知っている。けれども今は、他にどんな顔のしようもなかった。
「…………」
佐竹は無言で、すぐにその質問に答えようとはしなかった。
やがて、黙ってコーヒーをマグカップに注ぐと、それをテーブルに持ってきた。ことりと、内藤の前におく。
「どうぞ」
「あ、はい。いただきます……」
友達同士にしては、なんだかひどく水臭いやりとりだ。内藤はなんとなく、胸の奥がちくりと痛んだ。
佐竹は確かに、様子がおかしい。
なにか、どこかが、いつもよりもずっと他人行儀のような気がする。
それはやっぱり、
佐竹は内藤の斜め向かいの一人用ソファに座って、自分もマグカップを手にしたまま、やっぱりしばらく黙っていた。
が、やがて、低い声でぼそっと言った。
「ずる休み……か。確かに性には合わないが。……少し、考えたくなったもんでな」
「え……」
内藤は顔を上げた。
(考える……?)
考えるって、何をだろう。
不安に思いながら、おずおずと佐竹の顔を窺ってみるが、いつも通り、佐竹の表情からは何も窺い知ることはできなかった。
仕方なく、内藤はマグカップを手に持ったまま、その琥珀色の液面を見つめて黙ってしまう。
「それより、昨日のことなんだが」
「……!」
急に話が変わって、内藤はびくっとした。
「昨日のこと」と言われて連想されるいろんなことが、頭の中でぐるぐる回った。
思わず、顔が熱くなるのを自覚する。
佐竹は相変わらずの静かな視線で、そんな内藤を観察するようにして見ていたが、やがてカップを置くと、居住まいを正して内藤に頭を下げた。
「済まなかった」
内藤はびっくりして目を白黒させる。
「え!? どど、どうして――」
「何故ああいう事態になったのか、お前の話をきちんと聞きもせずにさっさと帰った。……
「い、いや……そんな」
謝らねばならないのは、むしろ完全にこちらの方だろう。内藤は心底慌てる。
「こっちこそ、ごめん……! お前に余計な心配かけちゃって……!」
必死にこちらも頭を下げた。
佐竹は頭を上げると、改めて内藤を見つめて言った。
「……良ければ、何があったのか、今、聞かせてもらいたいんだが」
「あ、ああ、うん……」
そして内藤は、順を追って、昨日の顛末を佐竹に話して聞かせた。
佐竹は何も言わず、時々相槌を打つぐらいで、静かな表情で聞いていた。
内藤もそうやって話をするうち、落ち着いた佐竹の眼の色を見ているうちに、波立っていた気持ちが次第におさまってきた。
「……なるほど」
佐竹は話の最後に、こんなアドバイスをひとつした。
「今後の対応としては、お前が俺と親父さんの番号を暗記する、乃至ないしは生徒手帳か何かに書き付けて常に携帯しておく、というのが妥当なところか」
それから、ぐっと真っ直ぐに、その黒い瞳で内藤を見据えて言った。
「だが、殴ったことは謝らない。あれが間違っていたとは、俺は今でも思っていない」
「あ、う、……うん」
それは内藤も納得している。
「ほんと、ごめん……」
そう言って項垂れた内藤を、佐竹はやっぱり、静かな視線で見つめていた。
「あ……の、それとさ――」
内藤は、ふと、大事なことをまだ佐竹に伝えていなかったことを思い出した。
「なんだ」
ちょっと反応が怖かったが、思い切って口に出す。
「あの、真綾さんのことなんだけど――」
ぴくっと佐竹の眉がかすかに動いて、「あっ、やば」とは思ったが、言い出した以上は仕方がない。内藤はそのまま言葉を続けた。
「えーっと、その……。別に、お兄さんと佐竹の試合のことで、何か言いに来たんじゃないよ? あの子」
佐竹は無言だ。表情は大して変わらないのに、内藤にはなにか、一気に話に興味がなくなったらしいのが分かる。
(話しづらいな〜、もう……。)
内藤はちょっと肩を落としたが、それでも言い募った。
「えっと、えっと……。だから、ちょっと佐竹と話がしてみたかった……ってことなだけみたいだよ?」
「…………」
「要するに、兄貴とお前の試合があんまり凄かったから、お前がどんな奴なのか気になっちゃったらしくって――」
「…………」
「今回のことは、全部俺が悪いんだし。あの子は別に、何も悪くないんだから――」
「…………」
(ああ……駄目だ。)
もはや、取り付く島などどこにもない。
佐竹はもう完全に半眼になり、「それがどうした」と言わんばかりの顔である。
さすがの内藤も、とうとうそこで諦めた。
「いや……、うん。いいよ。とにかくそーゆーことだから。俺も洋介も世話になったんだし、あんまり、あの子のこと悪く思ってあげないで欲しいかなって……。それだけ」
最後はもう、溜め息混じりだ。
「了解した」
(……おいって。)
なんなんだ、その「超」事務的な返事。
ほんっとーにどうでもいいんだな、こいつ。
興味がないとなったら、もうとことん、容赦ねえ。
ああ、真綾さん、ごめんね。
俺ではやっぱり、力不足でした……。
遂に話が途切れてしまったのを見計らってか、佐竹がついと立ち上がった。
「そろそろ昼の時間だな。お前も食べていくだろう」
「え? あ、えっと……」
「とは言え、ありあわせのものしかないがな」
「いやいや、俺は――」
本当は、佐竹を見舞いに来たつもりだったのだが。本人がこんなに元気なら、さっさと帰ってもよかったか。
見舞われた本人が、食事を作って客のもてなしをするって、なんだか変だ。
内藤がそうやってまごまごしているうちに、佐竹はどうやら、その意図を少々誤解したように見えた。
「まあ無論、俺の作った飯など食えんという事なら、何も無理強いするつもりはないが――」
「いやいやいや! そんな事は言ってないです――!」
そういう言い方は、ずるい。
それはもう、答えを完全に誘導している。
「なら、大人しく喰っていけ」
「は……、はい……」
でもやっぱり、内藤はその誘導に、綺麗に嵌まってしまうだけなのだった。
◇
翌日から、佐竹は普通に登校してきた。
内藤も勿論、登校している。
だからもう、何もかも元通りなのかと言うと。
(いや……ちがう。)
何か、
内藤はそう思っている。
そう、それは違っていた。
教室にいる間、佐竹からのメールが内藤のスマホに入ることはなくなった。
授業中は勿論なのだが、昼休みにも、放課後にも。
いっさい、佐竹からのメールは来ない。
だから自然と、放課後に一緒に帰ったり、図書館まで同行したり、学童まで洋介の迎えに行ったり、そのままスーパーで買い物したりすることもなくなった。
佐竹は放課後、部活に参加する日には校内の剣道場に行き、そうでない日は山本師範の道場で稽古して、そのまま一人で帰宅する。勿論、自宅であるマンションへだ。
当然、内藤の家には来ない。
内藤は仕方なく、一人で洋介を迎えにいって、そのまま弟と二人で帰宅する。
そうして洗濯物を取り込んだり、夕飯を作ったり、入浴して洋介を寝かしつけてから宿題をして、帰宅した父の食事の準備をしたりしてから就寝する。
そしてまた、朝が来る。
あとは、同じことの繰り返しだ。
佐竹は別に、何も言わない。
同じ教室にはいても、自分の読みたい本をただ、いつものように読んでいる。
何を考えているのか、その表情からは何も読み取れない。ただのいつもの強面で、涼しい顔をしているだけだ。特に、機嫌が悪いようにも見えない。
教室内では話しかけない、そこは以前と変わらないのだが、そのほかのことが全部、決定的に変わってしまった。
クラスメートたちからすれば、何が変わったのかなんて、皆目分かりはしなかっただろう。しかし、内藤にとってはそれは、まるで心を抉られるような、それほどのダメージを受けるような違いだった。
……何故なのかは、分からない。
それはある意味、「昔に戻った」ということなのかも知れなかった。
内藤が、まだ殆ど佐竹と話もしたことのなかった頃にだ。
同じクラスの中にいても、顔と名前を知ってはいても、自分はあの日、スーパーで彼から声を掛けられるまで、佐竹とほとんど何の接点もなかった。
つまり今は、その時点まで時が巻き戻ったような感じなのだ。
(なんか……信じられないな。)
佐竹とちゃんと話もしていなかった頃、自分はこんな生活を、本当に毎日していたのだろうか。内藤は、それを思い出そうとしても、どうしても思い出すことができないでいる。自分にとって、たかだか七年前のことだというのに。
それは勿論、その七年間に「あの世界」で起こったすべてのことが、内藤にとってあまりにも密度が濃かったからかもしれないけれども。
内藤は、何度か佐竹に自分からメールもしてみた。
『 今日、放課後どうする? 』と。
しかし、返事はごく簡潔だった。
『 部活に行く 』
『 道場に行く 』
『 野暮用がある 』――
いつも、ただそんな一文だ。
そして決して、一緒に行動するという返事は来ない。
そう、いっさい、来ないのだ。
今までが今までだっただけに、内藤はいま、酷い違和感に苛まれている。
そう思うなら自分から、「どうしてだよ」と本人に聞いてみればよさそうなものなのだが、どうもそうすることにも抵抗があった。
『 どうした? 最近。
もしかして、何か怒ってる?
俺、ひょっとして何かした……? 』
本当は、何度も何度も、そんなメールを送ろうとはしてみた。
しかしその都度、内藤はその文章を消去した。
どうしても、最後の「送信」ボタンが押せなかった。
大体、なにが「何かした?」だ。
とっくに、やらかしてしまっているではないか。
つい先日、佐竹から殴られてしまうほどのことを。
ただただ、胸が冷たく、空虚に思えた。
何が虚しいと思うのか、その理由もよくわからなかったのに。
(どうしたんだ……? 俺。)
わけが分からない。
もやもやする。
むしゃくしゃする。
そして、訳もなく叫びだしたくなるのだ。
(怖い……のか。)
もし今、勇気を振り絞ってメールを送ったとしたら。
佐竹が、それに対してどんな返事をしてきても、
何をどうやっても――
自分は今よりも、もっと、ずっと、
胸が痛くなってしまいそうな予感がしていた。
「は〜、今日もようやく、終わった終わった〜」
いつも暢気な翔平が、ぺたんこのスクールバッグを肩に引っ掛けて伸びをした。
「帰ろうぜ〜? 祐哉」
「あ、うん……」
と、ぼんやりと見つめていたスマホが、手の中で急にぶるぶる震えだして、内藤ははっとした。
(え、もしかして――。)
沸き立つ胸をおさえて、慌てて送信者の名前を見たが、それは生憎、内藤が期待していた人物からではなかった。
「…………」
内藤は、そのメールの文面をじっと見つめて、ちょっと溜め息をついた。
が、やがてそれに素早く返信をした。
さっきまで背後の席に座っていたはずの佐竹は、いつのまにかその場から消えている。
(何も、放課後にまで気配を消さなくってもよさそうなもんなのにな……。)
内藤は、恨みがましくそちらを見たが、やがてひとつ溜め息をつくと、教室入り口のところで内藤をせきたてている翔平のあとを追い、教室から出て行った。
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