第5話 抱擁

 なんとも形容のしようのない表情をしたまま黙り込んだ佐竹を見て、俺は暫く呆然としていた。

「…………」

「…………」

 二人とも、ただじっと黙っている。

 リビングの照明が、なんだか嘘っぽく思えるほど、なにか煌々と明るく見えた。

 やがて、佐竹が右手をすっと上げて、俺はびくりと体を竦ませた。


(………!)


 本能的に殴られるのかと思ったけど、そうじゃなかった。

 その手は、俺の顔の前で、ちょっと止まった。

 そしてそのまま、先ほどそれが殴った場所にそっとあてがわれた。

 俺はびっくりして、目をまん丸に見開いた。

 あんまり驚いて、出かかっていた涙もどこかへすっ飛んでいた。


(何……? 何が起こってんの……?)


 佐竹の黒い目が、じっと俺を見つめている。

 こんな風にこいつに見つめられたことって、向こうの世界でもあんまりなかった。


「……すまん。ろくに話も聞かずに――」

 佐竹がぽつりとそう言った。

「…………」

 そういえば、そうだな。佐竹がこういうことをするのって、珍しい。

 いつものこいつなら、どんなに腹が立ってたとしても、一応相手の話ぐらいは聞いて、なおかつ時間も使って客観的に考えて、それでもやっぱり「殴るべき」って考えて初めて、やっと手を上げるんじゃないだろうか。

 というか、なんのかの言っても、こいつは人に、そうそう手を上げたりもしない。

 こいつが本気で人を殴ったら、それこそちょっとやそっとの怪我じゃ済まないって、十分わかってるからだろう。そもそも、「本当に強い奴」は、簡単に人を殴ったりしない。

 ああ、でも、あっちの世界の、あのでかい竜騎長さんは別か。けどまああれは、いわゆる「愛情表現」ってやつだから、例外かもな。


(……どうしたんだろ。)


 なんだか、いつもの佐竹と違う。

 俺が何も言えずにいると、佐竹はすぐに俺の頬から手を離してこちらに背中を向け、床に置いてあった自分のスクールバッグを担ぎ直した。

 と見る間に、もうリビングを出て玄関に向かいかけている。

 そうして俺に、背中で訊いた。

「……向こうで、夕食は済ませて来たんだな?」

「え? あ、ああ、うん……」

「そうか。……ならいい」

 それで初めて、俺は気がついた。


(そうか……。こいつ、メシも食わないで俺たちを探してくれて――)


 そう思ったら、また更に申し訳なくなって、俺は本気で胸がきりきりし始めた。

「ごっ……! ごめんっ! 佐竹……!」

 思わず、その背中を追いかけて、佐竹の制服のシャツを掴んでしまう。

 それは、雨のために少し湿っていた。


 その途端。

 佐竹は、剣の仕合いさながらの素早い体捌たいさばきで、振り向きざま、俺を両腕で抱きすくめた。

「………!」

 俺はただ、固まった。

 いったい何が起こってるんだか、まったく頭がついていかない。


 呆然としているうちに、佐竹はまた、すごい速さでぱっと体を離した。

「…………」

 思わず、その顔を見つめてしまう。

 佐竹の瞳にも、なにか驚愕の色が浮かんでいるようだった。

 それでも無言で、ただ眉間にぎゅっと皺を寄せると、佐竹は素早く踵を返して、あっというまに玄関から出て行った。

「あ、さた――」

 俺がやっと声を出したときには、もうあいつは扉の外、いや門扉の外へと歩いて行ってしまってた。

「…………」

 小走りに扉の外に出て少し追いかけたけど、もう佐竹の姿はどこにも見えなくなっていた。

 俺はそのまま、誰も歩いていない夜の住宅街の路上を、しばらくぼんやりと見つめていた。

 ただ心臓の鼓動だけが、うるさいぐらいにばくばく言い続けていた。



                 ◇



 翌日。

 佐竹は、学校に来なかった。

「佐竹君は……ああ、体調不良でお休みだったわね」

 朝一番で、担任の女性教諭はまったく通常どおりの声でそう言って、とっとと出欠確認を終わらせた。


 俺は窓際の、前から三番目の席。

 あいつはその列の一番後ろの席だけど、その日はなんだか、朝からずっと背中のあたりがすーすーしていた。

 休み時間、いつもどおりに俺の机に尻を乗せてけらけら笑っている翔平の話に適当に相槌をうちながら、俺はスマホをいじってた。


『 昨日は、ごめん。

  体調悪いって、ほんと?

  大丈夫?

  帰り、そっち寄っていい? 』


「…………」

 しばらくそのメールの文面を見て考えこんだ挙げ句、俺はそれを消去した。

 なんか、空々しいよな。

 なにが「ごめん」だよ。あんな馬鹿な真似しでかしといて。

 あんなに、あいつに心配かけといてさ。



 昨日、校門で真綾さんが泣き出しちゃってから、俺は彼女とあの大きな車に乗った。雨をよけるのが目的だっただけなんだけど、「弟を学童まで迎えに行かなきゃなんないから」って、俺がつい口を滑らしたのがいけなかった。

 彼女は「それならお送りいたしますわ」って、車で学童まで送ってくれた。そこで出てきた洋介を見て、彼女の目がなぜかハートになってしまったのだ。

「まあ! 可愛い弟さんですわね」


(……ん? そうかな?)


 いや別に、普通の小学生だと思うんだけど。まあ俺は実の兄貴だから、もちろん可愛いとは思ってるけどさ。

 まあ、とにかく。

 それでなんだか真綾さんは、「よかったら、お二人でうちへいらっしゃいませんこと?」とか言い出して、「頂きものの、おいしいお菓子があるんですのよ!」なんて言うもんだから、今度は洋介の目が、盛大にハートになっちゃったんだよね。

 で、仕方なく「ほんの少しだけなら」って、そのお言葉に甘えちゃったのが運の尽き。

 俺たちは、なんかドラマに出てくるみたいなでかいお屋敷に連れて行かれて、お手伝いさんたちが次々運んでくるお茶やらお菓子やら、しまいには夕飯やらをご馳走になってたら、あっという間に夜になってた。ちなみに、お兄さんは帰りが遅くなったらしくて、昨日は会うことができなかった。

 慌ててスマホを取り出したら、例によってバッテリー切れ。俺は佐竹と違って脳内に親父や佐竹の連絡先を書き込んではいないから、「うわ、まずい」って、すぐに帰らせてもらうことにしたんだけど。

 運転手さんが言ってた通り、帰りの車道で事故渋滞が発生してて、行くのに三十分かかった道が、帰りは一時間半もかかってしまった。

 そのあとの事は、もう思い出したくもない。

 「後の祭り」って言えばそれまでだけど。

 ああ、「自業自得」とも言うな。



「はあ……」

 思わず、溜め息をつく。

 そして無意識に、自分の左頬を触っていたのに気がついた。


(……あったかかったな、あいつの手――)


 ふっと、そんな意識が浮上して、俺は自分に驚いた。

 そして瞬く間に、その後あいつにされたことまで思い出す。

「………!」


「ん? どしたの? 祐哉。顔、赤いぞ〜?」

「…………」

 軽い調子で翔平に指摘されて、ますます赤面したのが自分でも分かった。

「あ、う……。はは、何だろうな。熱でもあんのかも……」

 言いかけて、はっと思いつく。

「あ、そ、そーだ俺、保健室行ってくるわ……!」

 がたっと席を立って、顔を半分手で隠しながら、慌てて教室の外へ出る。

「え? おい、祐哉ぁ!?」

 驚いた翔平の声が追いかけてきたけど、聞こえない振りでそのまま廊下を大股に歩いた。


(何だよ、俺……。なんなんだよっ……!)


 そのあと俺は、保健医の先生を拝み倒して、腹痛のためだと言って、学校を早退することにした。



                ◇



 佐竹の家は、俺の家とは最寄りの駅を挟んでちょうど反対側の区画にある。

 つまり俺たちは二人とも、同じ駅を使って今の高校に電車通学をしているわけだ。中学時代の学区はその鉄道沿線で分かれていたので、母校の中学は別々である。


 そこは、全体にゆったりと敷地をとった、いかにも「高級マンションです」って感じの、品のいい建物だった。植え込みやエントランスなんかも、空間に余裕をもって造られている。さすが馨子さん、稼いでるよなあ。

 馨子さんっていうのは佐竹のお母さんで、なぜか自分のことを息子にも俺にもそう呼ばせている。

 国際弁護士っていう、海外でばりばり働く系のキャリアウーマンってやつで、普段はあまり日本には帰ってこない。

 あまり大きな声では言えないけど、旦那さんである佐竹のお父さん、宗之さんは、数年前に俺と同様、あっちの世界に連れ去られて行方不明になっている。だから事実上、佐竹家の家族は、馨子さんと佐竹の二人きりだ。


 俺はまだ日も高い午前中の街を、ちょっとおどおどしながら歩いて、佐竹のマンションに向かった。こんな時間帯に高校生が街をうろついてたら、速攻、補導員やらなんやらに声を掛けられてしまいそうでひやひやする。

 ほんとに病気ならいいんだけど、今日はそうじゃないから余計だ。


 そんな事を考えながらも、俺はやっとそのマンションの広い玄関ホールにたどり着いた。

 両開きの自動扉は、大きくて重厚な艶のある木目調で、ところどころ品のいい小窓のあしらわれた、和風かつスタイリッシュなデザインだ。それをくぐって、俺は入り口の小ホールにある、セキュリティロック兼インターホンの操作盤に、佐竹の家の番号を入れた。操作盤の設置されている台そのものも、なんか和風モダンっていう感じの、洒落たデザインになっててかっこいい。


 ピンポン、と軽い電子音がしたが、返事はなかった。

 再度押しても、同じだった。ここで訪問先の誰かに内扉を開けてもらわないと、訪問者は中へは入れない。高級マンションなだけに、セキュリティは厳重だ。内扉の中には、ちゃんと管理人らしき人もいる。


 やっぱりあいつ、仮病なのかな。それとも、わざと出ないのか。

「ん〜〜……」

 困って、そこで考え込む。

 やっぱり、もう一回メールでもしてみるか。

 いや、さっきは送ってないんだけどね。


 スマホを取り出して、俺は再び、その文面のことで悩んだ。

 なんて書いたらいいんだよ。


『 昨日は、ほんとごめん。

  体、大丈夫?

  えっと俺、ちょっと家まで来てみてるんだけど。

  なんでいないの? 

  どこに居る?                 』


「…………」

 五分ぐらい、その文面とにらめっこをした挙げ句、俺はやっぱり、それを消去してしまった。

 どうしよう。

 あんまり長いことここにいたら、不審者だと思われそうだ。

 すでに、管理人のおじさんの視線が冷たい気がするぞ。

 このまま、大人しく帰るしかないかなあ……。


 と、その時。

 背後で玄関扉がすうっと開いて、長身の男が入ってきた。

「……何をやってる」

「……!」

 低い声にそう訊かれて、俺はびくっと飛び上がった。多分、五センチは飛んだと思う。

 もちろん、佐竹だった。

 静かな声は、いつも通りの落ち着いたものだ。

「……あ」

 よかった、と思う間もなくその姿を目にして、俺はちょっと驚いた。

「…………」

 私服の佐竹って、そう言えば初めて見る。

 いや、正確にはうちに泊まりに来る時のTシャツにスウェットパンツ姿、それに「あっちの世界」の装束以外で、だけど。

 夏休み中は、学校でなくても制服を着てることが多かったしな、こいつ。

 その時は、「なんでわざわざ?」と思ったけど、今はじめて、その理由が分かった気がした。


 佐竹はもう、絶対に高校生には見えなかった。

 ざっくりした生成りのサマーセーターに、スラックス。靴は学校で履いてるローファーのままだけど、いや、そんなことは問題じゃない。


(……なんなんだよ、こいつ。)


 俺は呆れた。

 どっからどー見ても、普通に大人の男だよ。

 上背はあるし、雰囲気は落ち着きまくってるし、姿勢はいいし、ってああ、これは関係ないか。

 一見して、ネットを使ってなにかの自宅勤務をしている業種の人か、はたまた、たまたま休暇で自宅に戻ってる自衛隊員か、ってな雰囲気だ。ああ、あとのほうがばっちりはまるかも。

 この無駄にきりっとした雰囲気、絶対それで間違いない。

 いや、「間違いない」って何だよ、俺。


 なんか、むかつくぞ。

 こいつは今日みたいに学校さぼって街に出てたって、「君、高校生だよね」なんて、まず人に呼び止められたりしないに決まってる。

 片手に小さなコンビニの袋を持ってるところを見ると、買い物にでも出ていたんだろうけど、これが仮病を使って学校をずる休みしている高校生だなんて、どこの誰が思うだろうか。


 そんな事を考えて無言のままだった俺を、佐竹はしばらく、怪訝な顔で見つめていた。

「……入るのか、入らないのか」

 ぼそっとそう訊かれて、初めて俺ははっとした。

「あ、……えっと」

 答えあぐねている間に、もう佐竹は自室の番号を操作盤に打ち込んで、内扉を開いてしまった。内扉も、やっぱり大きな両開きだ。そこに足を踏み入れて、佐竹がこちらを振り向いた。

「……まあ、上がって行け」

 それだけ言って、すたすた奥へ入っていってしまう。

 ちょっと呆然とそれを見送っていたら、すうっと扉が閉まってきて、俺は慌てて中へ入った。佐竹はもう、エレベーターホールでエレベーターを呼び、乗り込んで中で待っている。

 ホールの隅に管理人室らしい、でもやっぱり洗練されたつくりの部屋の窓があって、中から品のいい中年のおじさんがちらりとこっちを窺っていた。これが、くだんの管理人さんだ。


 おじさんの不審そうな目を見て、俺はふと考える。


(……俺らって、いったい何に見えるんだろ。)


 まあせいぜい、「成人して独立した兄貴のところへ、学校さぼった弟が遊びにきました」ぐらいな感じかなあ。どーせ、そんなもんだよな。

 あ〜あ、なんか不公平だ。


 俺はちょっと溜め息をついて足を早め、佐竹の待っているエレベーターの方へと歩いて行った。

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