第2話 月影


 帰宅してすぐ、佐竹が胸ポケットから取り出したスマホが、手の中で突然ぶるぶると震えだした。電話だった。

「…………」

 発信者の名前を一瞥して、佐竹は沈黙する。

 まだ鳴り続けているその電話を、佐竹は黙って見つめていた。

 やがて、ぴたりとスマホの震えが止まる。

 佐竹はそのままそれをリビングのテーブルに置き、着替えるために自室に戻った。

 ざっとシャワーを浴びてから戻ってくると、今度はメールが一通入っていた。

 発信者は同じだ。

 佐竹は少し考えて、そのメールを開いてみた。


『 今日、一日ついたちだよ。

  えっと……どうする?

  父さん、今日は直帰でもう帰ってるから、

  俺、そっち行ってもいい?        』


(……そうか。)


 佐竹は、そのことすら失念していた自分を恥じた。

 今日は、十月の一日、つまり朔日さくじつだ。

 夜十時になれば、異世界の北の王、ナイトから交信が来る日ではないか。

 スマホの表示では、すでに八時になっている。

 あの異世界からの交信が、佐竹と内藤が離れた場所にいたらどうなるのかははっきりしない。しかし、やはり二人が一緒に居るに越したことはないのだろう。

 佐竹は少し逡巡したが、そのまま内藤の携帯に電話を掛けた。


 内藤は、恐らくスマホを握ったまま待っていたのだろう。電話が鳴るとすぐに出た。

『あ、佐竹……? どうする? 今日――』

 内藤の声は、少しほっとしたように聞こえたが、それでもどこか不安そうだった。佐竹はほとんど間髪いれず、彼の質問に答えを返した。

「この状態で、二人共に向こうの声が聞こえるのかどうかは分からんが。……少なくとも、お前にだけは聞こえるはずだ。もしもそうなるようなら、済まんが今日は、お前とナイト王で話をしてくれればいい」

『え……』

 内藤は、驚いたようにそう言って、あとは沈黙してしまった。


 あの世界に存在した、《鎧》と呼ばれる超文明の装置により、内藤はその《鎧の稀人まれびと》として、かの世界へと召喚された。内藤は《白き鎧》の《稀人》、つまりある種の生贄のようなものとして、その世界に利用されたのだった。

 従って、彼には《白き鎧》からの声は間違いなく聞こえるはずだ。

 逆に、《黒き鎧》の音声は、どちらかといえば自分のほうが聞き取りやすいことだろう。


『い、いや、でもっ……! せっかく佐竹、色々資料とか準備してたのに――』

 内藤は、どうやら佐竹が図書館そのほかで集めていた、エンジンその他の移送手段技術の資料のことを言いたいらしかった。

「それはまた、次の機会でも構うまい。むこうの時間差は、殆どないわけだしな」

 未来である「あちらの世界」から、こちらに連絡を入れるのに、北の王も南の王も、一度で何回分かの連絡をこなしているという話だった。つまり、こちらで二ヶ月が過ぎ去ったとしても、あちらではせいぜい、ほんの数十分差でしかないということだ。こちらからの情報を渡すのに、そう慌てる必要はない。


『……いや、駄目だよ』

 珍しく、内藤がきっぱり言った。

『やっぱり俺、そっちに行く。ちょっと渡したい物もあるし。すぐに準備して行くから、待っててくれよ』

「いや、それなら――」

 そんな事をしなくとも、他に家族がいる内藤より、実質一人暮らしで自由のきく自分が動いたほうがいいだろう。

 佐竹はそう言い掛けたのだが、内藤はもう、電話を切ってしまったらしかった。

 あの友達が、ここまで自分に対して有無を言わさずに行動するのは珍しい。

 それだけ、ここのところの自分の対応が身にこたえていたということなのだろうか。

「…………」

 通話の切れたスマホを見つめて、佐竹はやや、宙に視線を泳がせた。


(……来るのか。)


 あいつが、この家に。

 しかも、こんな時間帯に。


 知らず、眉間に皺が寄る。


(いや……駄目だ。)


 まだ駄目だ。

 まだ自分は、そこまでの覚悟を決められていない。


 佐竹はそう思い定めると、再度身支度をととのえて部屋を出た。勿論、準備していた資料のファイルも手にする。

 せめて、マンション入り口あたりまで彼を迎えに行くつもりだった。

 どの道、お互い携帯は持っているのだ。連絡を取り合って、外で落ち合ってもいいはずである。

 ともかく、この家の中で二人きりになるのは避けたい。そんな事をするぐらいなら、内藤の家へ戻ったほうがまだましというものだ。その旨を改めて伝えるべく、こちらから電話を掛け直してもみたが、案の定、内藤は出なかった。意図的なのかそうでないのかは分からないが、ともあれ、出ないものは仕方がない。


 佐竹はエレベーターで一階まで下りると、マンションのエントランスから外へ出た。

 内藤の家からここまでは、徒歩で十五分ほどのものだろうか。途中、駅の周辺に少しある商業施設や居酒屋、ファミリーレストラン等々の区画を抜ければ、あとはすぐにこちらの住宅街へと続く道になる。

 佐竹は内藤とすれ違いにならない程度まで道を歩き、見晴らしの良い地点まで来て足を止めた。道の向こうに、内藤の姿はまだ見えなかった。そのまま、彼が来るはずの方向へ目をやり、その場で少し、彼を待った。


 五分ばかり経った頃だろうか。

 突然、耳の中で声がした。


《……サタケ。サタケ、聞こえているだろうか?》


(……!)


 佐竹は驚いて耳を澄ませた。

 それは、あの異世界の北の王、ナイトの声だった。思わず手にしていたスマホを確認するが、時間はまだ、八時半にもなっていなかった。

「……はい。聞こえておりますが」

 佐竹は無意識に片方の耳に手を当てて、低い声で返事をした。


 何かがおかしい。

 何故今日に限って、こんな時間にナイトが連絡してくるのだろう。

 ナイトの声は、やや不安げで、切羽詰まっているようにも聞こえた。


《……ああ、よかった。あの、サタケ。急いでもらいたいのだが――》

「どうなさいましたか」

 嫌な予感がする。

《本当は、過去の人々であるそなたらに対して、あまりこういうことはすべきでないと、あのサーティーク公からも注意を受けているのだが――》

 ナイトは少し躊躇ったようだったが、思い切ったようにこう言った。

《サタケ、急いでナイトウ殿を迎えに行って差し上げて欲しい》


(……!)


 佐竹の嫌な予感は、どうやら的中したらしかった。

 すぐに駅の方角に向かって大股に歩き出しながら、佐竹はナイトに詳細を尋ねる。

「……なにがありましたか」

《…………》

 ナイトは、思わず言い掛けた言葉を、必死に飲み込んだようだった。

《……いや、私から詳しくは話せない。ともかく、『エキ』とやらの近くまで行って欲しい。できれば事前に、ナイトウ殿にお会いして貰いたいのだ》

 ナイトは、その内藤にそっくりの声音を、非常な焦慮に歪ませているようだった。


(……『事前に』、か。)


 佐竹はその単語を聞いて、厳しく眉根を寄せ、唇を噛んだ。


 要するに、未来の人であるナイトがこちらの十時の時点へ連絡をした際には、すでにその「事」が起こった後だったということなのだろう。そしてそれは、それまでに内藤の身に何か良くない事が起こった、ということであるのに違いない。

「申し訳ありません、陛下。場所やその他の情報を、もう少し頂くわけには参りませんでしょうか」

 佐竹がこの内藤によく似た青年王を「陛下」と呼ぶのは、あちらの世界にいた間、自分が彼の臣下として働いていたからである。佐竹は向こうで、「上級三等文官サタケ」として、かの王宮内にある書庫、つまり図書室のようなところに配属されていたのだ。

 ナイト王は、また少し躊躇ったようだった。

 しかしやがて、思い切ったようにこう言った。

《……私には、意味はわからぬが――》


 ナイトの口から、聞き覚えのある近隣の商業施設の名前が出て、更に「その裏」「チュウシャジョウ」という単語を聞き取り、佐竹はある程度の場所の目星をつけた。

「了解しました。陛下、わざわざお知らせ頂き、感謝いたします」

《よろしく頼む。どうか、ナイトウ殿を――》

 それを最後に、通信はぷつりと切れた。



                 ◇



 佐竹への電話をほとんど一方的に切ったあと、内藤は急いで出かける準備をした。

 とは言っても、友達の家へ行くだけの話だ。既に帰宅していた父にその旨を告げ、そのままスマホをジーンズの尻ポケットに突っ込んで、内藤はスニーカーを履き、玄関から飛び出した。

「んじゃ、ちょっと行ってきまーす!」


 久しぶりに、ゆっくり佐竹に会える。

 今日はやっと、ちゃんと話ができそうだ。

 なんだかそう思うだけで、不思議と気持ちが浮き立った。

 どうやら佐竹から電話が掛かってきているらしく、尻のところでスマホがぶるぶるしていたが、内藤は敢えてそれを無視した。

 ここで水を差されたくなかった。

 うっかり電話に出てしまったら、今度は向こうから有無をいわさず、「自分はこれから出かけるところだから」とかなんとか理由をつけて、また会うことを拒絶されてしまうかもしれない。あの佐竹なら、十分言いそうな台詞だった。

 それに、もしこちらを待たずに出かけてしまわれていたとしても、マンション前で帰ってくるまで待っていればいいと思った。別に、まだ寒い季節でもない。夜遅くなったとしても、佐竹のマンション前に居るぶんには、父も許してくれると思った。


 内藤がその商業施設の近辺まで到達した時、時計は八時を少し回ったところだった。

 ナイトからの定期連絡が入るのは十時きっかりのはずなので、そんなに慌てる必要はない。それでも、内藤は急ぎ足にその区画を通り抜けようとしていた。

 ただその時、内藤は、久しぶりにゆっくり佐竹と話ができることに、ちょっと浮かれすぎていたかもしれない。注意力が散漫になっていたことは否めなかった。


 駅前の歩道を歩きながら、ビルの狭間に大きな月を見つけて、内藤はちょっと不思議な気持ちになった。

 あの「兄星」ほどの巨大な姿ではないけれど、いま天に昇ってきたばかりの月は、本当に大きく見えた。何かテレビで「スーパームーン」がどうのこうのと報道していたような気がする。

 そんな事を考えて、ほんの少しよそ見をした瞬間、誰かにどん、とぶつかって、内藤は反射的に相手に謝った。

「あっ、ごめんなさい――」

 言って目を上げてから、ぎょっとした。

 相手は、四、五人で連れ立って歩いていた男たちの一人だった。内藤より、十センチばかり上背がある。

「なんだあ? 兄ちゃん、気ィつけろ!」

 そう凄んで凄まじい目で威嚇してきたのは、太い二の腕に毒蛇らしき刺青タトゥーれた、鶏冠頭とさかあたまの男だった。年のころは、二十歳前後といったところか。

 一緒にいる他の男たちも、見たところご同輩という感じで、それぞれこめかみ辺りを派手に剃りこんでいたり、鼻ピアスをして坊主頭を金色に染め上げていたり、じゃらじゃらとメタル仕様のビスのついた革ジャンを着てサングラスを掛けていたりと、まさに「いかにも」といった風情である。

「痛ってえなあ! 骨がどーにかなっちまったかもよお? どーしてくれんの、お兄ちゃん?」


(し……しまった。)


 内藤は真っ青になったが、もうあとの祭りだった。

 彼は明らかに、内藤がよそ見をしたところに故意にぶつかって来たらしかった。 


 このあたりは、落ち着いた住宅街の近くということもあり、普段はあまりこういった連中がうろついているということはない。だから内藤は、たまたま運が悪かったのだとしか言いようが無かった。

 内藤がぶつかってしまった当の男は、いかにもわざとらしげに肩を抑えて「痛え、痛え」とひいひい言って見せた。

 後ろに居る男たちが、じろじろと嫌な視線で内藤をめつけてくる。

「まあ、リョータもこんなに痛がってんだしよ。医者に連れてってやりてえんだけど、ちょ〜っと俺ら、いま持ち合わせがなくってよ――?」

「…………」

 もはや、典型的なパターンだった。

 内藤は、自分の不注意を死ぬほど呪った。

 「よくこんなのに引っかかったな」と、あの世慣れたクラスメートの翔平だったら笑うだろう。

 まずいことに、出掛けに慌てていたせいで、内藤はスマホは持ってきていたものの、残念ながら財布は家において来てしまっている。今すぐに、何がしかの金銭でもって彼らに許して貰うという方法は、取ることができなかった。

 内藤が声も出せないでいるうちに、男たちは内藤を取り囲み、その首に腕を回してずるずると引きずっていった。



 近くの商業施設の裏手へ回ると、この界隈は急に静かになる。

 にぎやかなのは駅前の一部だけであって、あとはいたって静かな住宅街である。そこへ至る主要な歩道以外では、さほど人通りも多くはない。特に夜間はそうである。

 商業施設の裏手には、ざっと百平米ほどの駐車場があるが、手前の倉庫や看板などが邪魔をして、通行人の目からは中が少し見えにくくなっている。

 内藤は男たちに、その場所へと連れて行かれた。

 あのほとんど無敵に近い友達とは違って、腕に覚えなどまるで無い内藤には、なすすべなど殆どなかった。


「なんだあ? こいつ。ほんとに財布も持ってねえぞ!」

 男たちは内藤のポケットを勝手に探り、スマホしか持っていないことが分かると急に機嫌が悪くなった。ここに至るまでの機嫌の悪さは飽くまでも「演技」としてのそれだったらしいが、ここからは本気である。

「おう、ふざけんなよ、てめえ!」

「金がねえなら、取りに帰るか?」

「なんなら俺らが、お家までついてってやろうか? ああ?」


(……家?)


 内藤は真っ青になりながらも考える。

 いや、駄目だ。父は自分と同じでまったくこういうことに免疫がない上、家にはあの小さな洋介までいる。とてもこんな男たちに場所を知られるわけにはいかない。

 これはこの場で、自分で何とかしなくては。


(でも……どうやって?)


 絶望的な気持ちになりながら、内藤は考えている。


 考えてみれば、なんのかの言っても、「向こうの世界」で自分は王の立場にあった。そして周囲には、いつも臣下の頼もしい武官たちがついていた。だからこういった一般庶民の中にいる悪党どもからの危険に晒される確率は、相当に低かったのだ。

 つまりはその分、内藤は対処法を学べていない。

 勿論、王であるがゆえ、結果的に他ならぬ敵国の王に攫われるという大きな危険には見舞われてしまったわけなのだったが。


 と、呆然と考えるうちにも、一人の男が大きな拳で内藤の胸倉を掴みあげた。

「何とか言えや! おお――?」

 もう片方の拳が、顔の前で振り上げられた。

「……!」

 内藤は、もう殴られることを観念して、ぎゅっと目をつぶった。


 その時。


「……そこで何をやっている」


 男たちの背後から、静かな低い声がした。

 内藤は恐る恐る目を開けて、次の瞬間、我が目を疑った。


(な……なんで……?)


 全身から静かな冷気を立ち昇らせながら、佐竹がそこに立っていた。


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