第4話 焦燥

 部活が終わると、外は少し暗くなりかけていた。

「本日も、有難うございました! 佐竹さん!」

 三年生で剣道部主将でもある林田泰造はやしだたいぞうが、佐竹に向かってびしっと頭を下げると、他の部員たちも次々に挨拶をしながら礼をしてきた。

 佐竹がどんなに言っても、彼らがこれをやめてくれる気配はない。

 あの夏の大会で、図らずも彼らを優勝へと導いてしまったことが原因なのは分かっているが、それにしても、佐竹は心底、勘弁してもらいたい気持ちで一杯だった。

 他の部員たちはまだしも、林田に頭を下げられるいわれは一ミリもない。

 相手は年上、しかも主将だ。


 どんな理由があったにせよ、自分は一度は、剣の道から逃げた人間だ。そしてそのまま、「あの事件」がなかったなら、「あの世界」へゆかなかったなら、二度とこの手に剣を持つこともなかったかもしれない身なのだ。

 剣を捨ててからの自分は、丸三年も、この腕を錆び付かせるままにしていた、単なる不届き者でしかない。

 林田のように、与えられたこの場に踏みとどまり、弱いなりにも部員たちをまとめ、励まして、剣の道を守り続けてきた先輩から、なんで自分が頭を下げられる資格があろうか。

 だが、林田は折れてはくれない。

 こんなにこやかな顔をしながら、実は相当な頑固者でもあるようだ。


 それはもしかしたら、自分への罰なのかも知れぬとさえ、佐竹は思う。


(……そうだと、いうなら。)


 もしもこれが罰だというなら、それは甘んじて受けるべきなのかもしれない。

「……いえ。こちらこそ、有難うございました」

 そんな苦い思いを噛み締めながら、静かに礼を言って頭を下げ、佐竹は剣道場を後にした。



 制服に着替えて鞄を担ぎ、足早に校舎の外に出る。

 今日はいつもよりも、少し時間が遅くなってしまったようだ。

 生憎と、しとしとと雨も降っていた。

 佐竹は薄ぼんやりと明るい夕刻の雨雲をちょっと見上げて、持っていた折り畳み傘を広げた。胸ポケットからスマホを取り出してみるが、特になんの連絡もない。

 今日は、部活後に内藤の家に行くか否かの連絡をきちんとしていなかったので、てっきりむこうからいつものように「今日、どうする?」というメールでも入っていると思っていたのだが。

「…………」

 佐竹は少し考えてから、内藤の携帯に電話を掛けた。

 内藤は出ず、留守番電話サービスの女性のアナウンスが聞こえる。

 自宅の方へ掛けてみても、それは同じだった。


(……どういうことだ。)


 この時間なら、内藤はもうとっくに弟の洋介を学童から引き取って、自宅に戻って夕飯の準備に掛かっているはずだ。まだ小学一年生の洋介は、なるべく早く寝かせなくてはならないため、夕食や入浴の時間は早い。この時間帯なら、内藤は大慌てでそれらの準備をしているはずなのだが。

 どちらの電話にも出ないというのは、少し不自然に思われる。佐竹は「これを見たら連絡しろ」という、ごく簡潔なメールを内藤の携帯に送り、やや足を早めて帰路に就いた。


 まっすぐに自宅に帰る経路からすると、少し遠回りにはなるのだが、佐竹は一応、洋介がいつも預けられている学童保育の建物に寄ってみた。

「あらっ? 洋介くんの――」

 学童の職員である中年女性は後片付けの真っ最中で、佐竹の姿を見ると驚いたようだった。洋介を引き取るのは内藤かその父親でなくてはならないため、佐竹自身が引き取りに来ることはないが、最近では内藤と同行することが多いため、すっかり顔を覚えられてしまっている。

「洋介くんなら、お兄さんといっしょに、いつもの時間に帰ったわよ?」

 不思議そうな目で見つめられてそう言われ、佐竹は軽く一礼してそこを辞した。

 再び、内藤の携帯と自宅へ電話を入れてみる。やはり出ない。

 やむを得ず、まだ仕事中である可能性はあったが、内藤の父、隆たかしの携帯に電話を入れてみた。

 内藤家の母親は、今年の五月に不幸な事故で亡くなっているのだ。


『ああ、佐竹くん――』

 隆は、幸いすぐに出てくれた。しかし、今日は仕事の付き合いで飲み会が入っており、帰りが遅くなるのだと言う。内藤からは、特に連絡等はないそうだった。

 佐竹は、一応ここまでの経緯を隆に説明し、もう少し探してみて、三十分後にまた電話する旨を伝え、一旦電話を切った。

 そうこうするうち、内藤一家の住む一戸建ての住宅前に着く。


 内藤の家は、近隣の界隈の中で特に大きすぎるわけでも小さすぎるわけでもない、ごく普通の一軒家だ。両開きの門扉の脇にインターホンがあり、家の周囲を小ぶりの庭が取り巻いている。母親が存命中には手入れを怠らなかったのであろうその庭は、いまではあるじを亡くし、ぱらぱらと散り落ちる雨に打たれて、気のせいかやや寂しげに見えた。

 佐竹はちょっとその様子に目をやってから、インターホンの呼び鈴を押した。反応はない。見たところ、自動的に点灯する玄関ポーチの電灯以外、家屋のどの窓にも明かりは見えなかった。

 スマホの時計では、そろそろ八時になる。未成年の兄が七歳の弟を連れ歩くにしては、どう考えても遅すぎる時間帯だった。


(……まずいな。)


 佐竹は眉間に皺を刻んで、今後の行動についてしばし考えた。


 あの内藤が、小さな弟を連れて歩き回れる範囲など、たかが知れている。車やバイクなどにはまだ乗れないわけだし、わざわざ何かの交通機関を使って遠出をするなら、事前に自分や父親に連絡のひとつも入れるはずだ。あのちょっと暢気のんきなところのある友人でも、いくらなんでもそのぐらいの頭はあるだろう。

 しかし。


「…………」

 佐竹は、ひとつの嫌な予測に思い当たって、ぎゅっと焦眉の表情になった。

 そして踵を返すと、「あの場所」に向かって急ぎ足に歩き出した。


 周囲はすっかり暗くなっている。

 雨粒を振りまいている頭上の雲は、街の明かりを反射してぼんやりと薄明るかった。

 佐竹はものの数分で、この夏、内藤を飲み込んだあの真っ黒な《門》の開いた、その街角へとやってきた。人通りはない。街灯が少し寂しげな色で辺りを照らして、その光に細かい雨粒が時々ちらちらと光っているだけだ。

 何も無い、濡れ光ったアスファルトの路面をじっと見つめる。特に、周囲に変わったところはない。

 傘を手に持ったまま、佐竹は少し、安堵の息をついた。


(そうだ……。あいつが、ここへ来るはずがない。)


 勿論ここへ至るまでも、何度もそう思ったのだが。それでもどうしても、この焦慮は消えてくれなかったのだ。

 内藤はあれ以来、この場所をあまり通りたがらない。

 なんと言ってもここは、彼がそこから掠め取られて異世界へと連れ去られ、脳内に自分の意識を閉じ込められるようにして七年間を過ごさざるを得なくなった、あの理不尽な、辛い記憶の温床のような場所なのだ。

 内藤みずから、ここへ来るはずがない。ましてや、あの小さな弟をつれてなど。

 佐竹はもう一度周囲を見回してから、その場所を後にした。


(だとすれば……どこだ。)


 とはいえあの《門》は、なにもこの場所にだけ開くと決まったものでもない。

 あれはなによりも、まずその「特定した人物」の傍に、いきなり現れるものだからだ。


(もしも――。)


 冷たい恐れが、佐竹の背筋を通りぬけて行った。


 もしも彼が、再びあの《鎧》によって掠め取られたのだとしたら。

 そしてもし、自分の父・宗之のように、

 二度とその世界から戻れなくなったのだとしたら――。


 あの時も、そうだった。

 自分と母は、三年前、行方不明になった父を必死になって探し続けた。

 それでもどこにも、何一つ、父の消息を辿れるものは存在しなかった。


 佐竹は、知らず、力任せに自分の拳を握り締めていた。

 父は、向こうの世界でその命を使い果たした。

 内藤だとて、自分がたまたま傍にいて、すぐに追いかけていなかったら、今頃どうなっていたか知れたものではない。いや、恐らくは内藤も、父と同様、自分の意思とは関係なく、あちらの世界でその命を終えさせられていたのではないのだろうか。


 まさか今更、あのサーティークやナイト王が、そんな真似をするとは思わない。

 しかし、この世のどこかに、また別の《鎧》が存在していたら――?

 そうして、また別の愚かな誰かが、彼を連れ去ろうと画策したら――?


(いや……、やめろ。)


 佐竹はそこで、自分の埒もない憶測を中断させた。

 こんな思考に、意味はない。

 それは自分の、ただの「恐れ」だ。

 己の心の弱さが見せる、単なる悪夢のようなもの、つまりは精神こころの枯れ尾花とでもいうべきものだ。


「…………」

 佐竹は黙って、そこから引き返した。唇を引き結び、もと来た道とは違うルートを辿って、再び内藤の家へと戻って行く。

 九月下旬の雨は生ぬるく、体じゅうに湿気を纏わりつかせるようで不愉快だった。

 そろそろ、彼の父親と約束した三十分が経とうとしている。隆に連絡したあとは、いよいよ警察の世話にならねばならないかも知れない。

 佐竹は腹の底で、最悪の事態になった場合のための覚悟を、一応決めた。


 と、もうすぐ内藤の家の前に着こうかというとき、黒塗りの大きな高級車が、静かにその近くに停まったのが見えた。

「………!」

 その後部座席の扉が開いて、降りてきた人物を見て、佐竹は目を見開いた。

 すっかり眠りこけているらしい、くたっとした洋介の小さな体を抱き上げて車から降りてきたのは、間違いなく内藤だった。そのそばで、見覚えのある少女が甘い色目の傘を広げて、内藤と洋介の上に差しかけている。

 佐竹は大股に、そちらの方へ近づいた。



                ◇



 道の向こうから傘を差して現れた佐竹を見た時、俺は心底、ぞっとした。

 佐竹の目が、本当に、本気で怒っていたからだ。

「あ、ごめんっ……! 佐竹!」

 俺は洋介を立て抱きにしたまま、慌てて佐竹に謝った。

「スマホ、充電切れちゃって……、ごめんな、連絡しなくって……!」

 隣で俺たちに傘を差してくれていた真綾さんも、必死になって俺を弁護しようとしてくれる。

「も、申し訳ございません、佐竹様……! わたくしがいけなかったんですわ! つい楽しくて、お二人を我が家にお引き止めしてしまって――」

 が、彼女の言葉は何ひとつ、佐竹の耳には入っていなさそうだった。

「申し訳ございません。途中で、事故渋滞に巻き込まれてしまいまして――」

 運転手さんまで降りてきて、雨に濡れながら頭を下げ、言葉を挟んでくれている。

 でもやっぱり、佐竹は何も聞いてない。ほとんどむしりとるようにして、俺の腕から洋介を抱きとると、佐竹はただひと言、こう言った。

「鍵を開けろ」

「あ、う、うん……」

 俺が慌てて門扉を開き、家の扉の鍵を開けると、佐竹はもう後ろも見ないで俺の家に入っていった。

 後には呆然とした真綾さんと、気の毒な運転手さんが残される。

「あ、あの……。送ってもらって有難うございました。夕飯も、ご馳走さまでした。それじゃ俺、これで――」

 真綾さんはこれ以上小さくなれないぐらいに体を小さくして、酷く申し訳なさそうな顔で礼をした。

「は、はい……。それでは、ごめんくださいませ……」

「あ、はい。おやすみなさい。今日は、有難うございました」

 俺も一応、お礼だけ言って、自分の鞄と洋介のランドセルを担ぎ、慌てて家の中に入った。扉を閉めると、背後で車が出て行く音が聞こえてきた。


(あ〜あ、最悪……。)


 せっかく、真綾さんが佐竹とちゃんと話ができるチャンスだったのになあ。

 悪いことって、重なるもんだよ。


 俺は覚悟しながら、恐る恐るリビングに入った。

 佐竹はもう洋介を子供部屋に連れて行って寝かせてくれたらしく、そこで親父に電話をしていたようだった。

「はい……、はい。ご心配をお掛けしました。……それでは」

 佐竹がスマホの電話を切る。

 その途端、部屋中を恐ろしい沈黙が支配した。

 俺も、すぐに頭を下げてもう一回謝らなきゃいけないのは分かってるんだけど、あんまり佐竹の発してる怒気が怖くて、その場で動けなくなっていた。もう、声も出ない。

 そしたら。


 佐竹が大股にこっちに近づいて来たかと思うと、ぱん、と乾いた音がして、いきなり左の頬に衝撃が走った。

 「あ、殴られたんだな」って分かるのに、数秒かかった。

 「一応、平手にしてくれたんだ」って分かるのに、更に数秒。


 俺は、ちょっとぽかんとしてたかも知れない。

 佐竹が押し殺したような声でこう言うまでは、ほとんど頭も動いてなかったから。

「……お前は兄貴だ」

「…………」

 俺は呆然として、目の前の佐竹の顔を見つめていた。それからようやくじんじんと、左頬が痛み始めた。

「俺も、親父さんも居ないとき、洋介を守れるのはお前だけだ」

「…………」

 叩かれた頬に手を当てて、俺は俯いた。


 そうだ。そのとおりだ。

 佐竹の言う事は、間違ってない。

 やっぱり、どんな理由があっても、人に心配を掛けるのは間違ってる。

「だからあまり、軽はずみな真似はするな」

 佐竹の声は、低くて、静かで、最大限、感情を表に出さないようにしているのが分かった。

「うん……。ごめん……、ごめんなさい――」

 言いながら、俺は佐竹に頭を下げた。やっと搾り出した声は掠れきってて、佐竹の耳に届いたかどうかもよく分からなかった。


(……だめだ。)


 涙、でるな。

 今は、だめだ。

 俺は必死で歯を食いしばって、自分にそう念じてた。


 佐竹がちょっと沈黙して、また部屋の中が静かになった。

 俺はのろのろと顔を上げて、そっと佐竹の顔を窺った。


(………!)


 そして、息を呑んだ。


 佐竹は、なんていうか――

 なんて言ったらいいのかわからないけど、

 そう、多分、今まで俺が見た中で、一番つらそうな顔をしていた。

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