第5話 秋の夜長に
その声が聞こえてくるまで、内藤は少し、眠ってしまっていたのかも知れなかった。
《聞こえるか? ユウヤ、アキユキ》
いつもの低い、青年王の声だった。
内藤は、はっとしてベッドの上に起き上がった。
机の上のデジタル時計は、ちょうど二十二時を指している。
「あ、陛下……」
掠れた声で返事をしたら、サーティークはすぐに、その声の異変に気づいたようだった。
《ユウヤか。どうした? なにかあったか》
「…………」
内藤が沈黙した間、少しの間があった。
《……なんだ。貴様ら、別々の場所にいるのか》
サーティークはどうやら、佐竹とも会話をしているらしい。ということは、内藤と佐竹がこのぐらい離れていても、会話そのものは別々に出来るということなのか。
そしてまた、少しの沈黙。
《……ふむ。分かった。二日前に戻って、ユウヤの足取りを追うとしよう》
(あ、なんだ……。)
なんのことはない、結局は佐竹が大切なことは話してしまっているようだ。
内藤はちょっとまた、溜め息をついた。
《……まあ、それはそれとしてだ――》
と、どうやらにやりと笑ったらしいサーティークの声が、耳元でしたかと思うと。
部屋の中に、もはや聞きなれた、あのばちばちというプラズマの音がし始めて、内藤は度肝を抜かれた。
「え……!?」
自分の部屋の壁際に、例の《鎧》による真っ黒な《門》が開かれつつあった。
それは部屋の中の空間を切り取るようにしてまん丸の形になって現れたかと思うと、あっという間に直径二メートルほどのものになる。
そして、ひょい、と本当に無造作な様子で、あの青年王が現れた。
ベッドの上でパジャマ姿のまま、掛け布団を胸に引き寄せて、内藤は呆然とその一連の出来事を見つめていた。
「おお、ユウヤ。久しいな」
土足のままなのはちょっと気になるが、ともかくも、王はとん、と部屋の中に降り立つと、ベッドの傍に近寄った。佐竹とそっくりの風貌でにこにこしながら、内藤の顔を覗き込む。
「体調の悪いところを済まんな、ユウヤ。アキユキ殿に、お前から書類を受け取ってくれと頼まれた」
内藤は驚きのあまり、声も出ないで彼の顔を見つめている。サーティークは、そんな内藤の様子にはまったく頓着しない風で部屋の中を見回すと、すぐに求めるものを見つけたようだった。
例の紙袋を持ち上げてにこっと笑い、「これだな」と内藤の方を見る。
(…………!)
内藤は、目を見開いた。
佐竹と同じ顔の男が、こちらを見て親しげに笑っている。
それを見た途端、内藤の中で、何かが弾けたようになった。
「へ……、へい、か……」
あっという間に、涙が溢れて視界が霞んだ。
あとはもう、無我夢中でベッドから下りて、彼のほうへ駆け寄っていた。
いきなり自分の胸の辺りに飛び込んできた内藤に、さすがのサーティークもちょっと度肝を抜かれたような顔をしていた。
「ユウヤ? ……どうした」
しかし、そのまま号泣し始めた内藤の頭を、いつものようにぽすぽす叩いて、子供をあやすようにしてくれる。
「ああ、泣くな。そんな子供ではあるまいし――」
紙袋の持ち手を肘に掛け、両腕で力強く抱きしめてくる。やっぱりこの王、そのあたりに躊躇はないらしい。
「『兄上殿』と、なにかあったな?」
「…………」
青年王の胸の中で、まだ嗚咽を堪えきれずに泣いている内藤には、何も答えることができなかった。ただぶんぶんと、首を横に振るばかりだ。
もしかすると佐竹も、大事な書類をこちらへ託したのは、こうしてこの青年王をこちらへ来させることが目的の一つだったのかも知れない。
サーティークは、そのままの体勢で少し何か考える風にしていたが、やがて遠くへ話しかける声でこう言った。
「ヴァイハルト。ちょっと頼まれてくれんか」
《……何をだ》
すぐに張りのある男の声で返事がある。
サーティークはまたにやりと笑うと、その内容を手短かに、自分の側近である若き将軍に向かって説明した。
◇
その《門》が、いきなり自分の部屋の中であの音ときな臭い匂いを発し始めたのに気付いて、佐竹は素早く椅子から立ち上がった。壁際に掛かっていた「氷壺」を手にして抜刀し、一応、その場で身構える。
相手が、なにもサーティークであるとは限らないからだ。
しかし、幸いそれは杞憂に終わった。
《門》から現れた、自分にそっくりの容姿をした黒の青年王は、寝間着姿の内藤を小脇に抱えるようにして、いきなりそこから現れた。
ぽい、とまるで荷物でも投げるようにして内藤の体を佐竹の方に放り出す。
「う……わ!」
内藤が思わず悲鳴を上げた。その場で
「……サーティーク公。これは一体――」
剣呑極まりない声で佐竹が問うのにも、サーティークは涼しい顔で、ちょっとにやりとして見せただけだった。
「何があったかは存じ上げんが。問題は、当人同士で解決しろ」
「…………」
佐竹が沈黙して、眉間に皺を寄せた。
「ごっ、ごめん……!」
内藤はどぎまぎしながら、慌てて佐竹の体から離れている。
佐竹はぱちりと鍔鳴りをさせて、即座に「氷壺」を鞘に戻した。
「生憎と、俺もそれほど暇ではない。今から、ユウヤを救いにゆかねばならんしな」
意味ありげな笑みを口の
つまり今からサーティークは、ヴァイハルトとも協力しつつ、二日前のあの時点へ、内藤の危機を救いにゆくのだ。
《門》そのものも、ほんの数瞬で嘘のように空間から消え去って、あとにはただ、佐竹と内藤だけが残された。
「…………」
しばらくはひたすらに、沈黙だけが流れ続けた。
「あっ、え、えええっと……!」
内藤は、いきなり二メートルばかり佐竹から跳び退って、頭を下げた。
「ごご、ごめんっ……! なんか陛下、色々勘違いしちゃったみたいでっ……!」
真っ赤になっている友達の顔を見つめながら、佐竹は考えている。
(勘違い……?)
そうなのだろうか。
佐竹には、どうもそうは思えなかった。
事実、内藤の顔には隠しようもない、泣いた跡が山盛りである。
「…………」
佐竹は少し沈黙したが、まずは「氷壺」を壁際の刀台に戻すと、クローゼットの扉を開けた。そこから、少し厚手のニットのカーディガンを取り出して内藤に渡す。
「これでも着ておけ」
完全にパジャマ姿で、しかも裸足の内藤は、今はじめて、自分の格好を思い出したようだった。
「あっ! あ、……ごめん、ありがと……」
カーディガンを受け取って、もう真っ赤になっている。
「あ……の、俺、すぐ帰るから! ごめんな、ほんと――」
が、佐竹はその申し出には乗らなかった。
「そんな格好でか。もうこんな時間だぞ。とりあえず、親父さんに電話してみろ」
言って、即座にスマホで内藤の父、隆の番号に電話を掛けた。
隆はすぐに出て、佐竹からことの顛末を聞き、非常に驚いた様子だった。無理もない話だった。この夏の《鎧》に関する一連の出来事に、いまだに順応しきれていない内藤の父親にとっては、こんなことは驚天動地以外の何ものでもないだろう。
「……はい。こちらは泊まって頂いても構いませんが。明日は代休ですし……はい」
そこまで話してから、佐竹はスマホを内藤に渡した。
「替わってくれ、だそうだ」
内藤はスマホを受け取って、隆と話した。
先日危ない目に遭ったばかりでもあるし、今から夜道を帰ってくるより、今夜はそちらで泊まらせてもらえというのが、隆の結論のようだった。内藤の受け答えを聞く限りだと、「家の鍵はいつもの場所に隠しておくから」という話になっているらしい。多少無用心だが、この際仕方がないだろう。
「わ、……わかった。ごめんね、父さん――」
内藤は最後にまた謝ってから、電話を切った。
彼がスマホを佐竹に返すと、また部屋の中がしんとした。
佐竹は少し、いかにも居たたまれないといった様子で立ち尽くしている内藤を見つめていたが、やがて部屋の扉を開けた。
「向こうへ行こう。何か飲み物でも作る」
ここは自分の部屋だ。なにかあまり、寝巻き姿の人間と、ベッドのある部屋で話をしたくなかった。
「あ、う……うん……」
内藤も素直にそういうと、渡されたカーディガンに袖を通して羽織り、佐竹のあとについてきた。彼の体躯には少し大きめだったのか、その袖からは、指の先しか出ていなかった。
◇
リビングに移動して、内藤は前と同じ場所、つまりソファに座った。
佐竹はキッチンに入って、飲み物の準備をしながら、ふと訊ねた。
「体の方はどうもないのか」
「え? あ……うん」
内藤は、ちょっと視線を落とした。佐竹は更に訊ねる。
「食事は」
「あ、……えっと」
内藤は口ごもる。よく考えると、夕方に翔平が持ってきてくれた佐竹の手によるクレープを少し齧っただけで眠ってしまったため、きちんと夕食をとっていない。父も、どうやら眠っている内藤を気遣って起こさずにいてくれたようだ。
そんなことをもごもご説明したら、佐竹はすぐに頷いた。
「わかった。何か作る」
「え! ……や、いいよ、そんな」
内藤は慌てて固辞した。正直いって、あまり食欲などない。ましてや、佐竹を目の前にして、そんなものはどこかに飛んでいっている。
佐竹はそんな内藤を見つめて、少し考える風にしていたが、やがて納得してくれたようだった。
「……そうか」
そして、自分にはコーヒー、内藤にはマグカップにココアを入れて持ってきてくれた。
「どうぞ」
「あ、ご、ごめん……。頂きます……」
佐竹はあまりそういうものは飲まなさそうなので、多分これは、あの佐竹の母、馨子の好みなのだろう。厚手のマグカップに入ったココアは、温かくて、口をつけるとほっとするようだった。
佐竹は、前と同じ場所に座って、そんな内藤を少し見ていたが、やがて静かな声でこう訊ねた。
「……何か、俺に言いたいことがあるのか?」
「え……」
驚いて目を上げる。
(言いたいこと、か……。)
やっぱり静かな佐竹の目を見返しながら、内藤はぼんやり思った。
それは、とてもとても沢山あるような気がした。
しかし、いざ言葉にしようとすると、あっという間に空中に霧散して消えてしまうような、ひどく儚い気持ちになる。
「…………」
内藤は沈黙して、手にしたマグカップの中に視線を落とした。
もう、自分の気持ちには気付いてしまったけれども、だからといって今ここで、佐竹にそれを言うなんてとても出来なかった。
彼の反応が怖いのは勿論だ。
けれども、それ以上に、そのあとのことが怖かった。
このことを言ってしまって、そのあと、同じクラスにいるこの友達と、いったいどんな顔をして付き合っていけばいいというのか。
(……無理だよ、俺。絶対、無理……。)
そんな事をぐるぐる考えているうちに、内藤はまた、泣き出しそうな顔になってしまっていたようだった。
「……そんな顔をするな」
佐竹の声も、なにかどこかに、つらそうな響きを帯びているような気がした。
「言いたいことがあるなら、言ってくれればいい。俺も、できるだけのことはする」
「…………」
内藤は、佐竹の言葉の意味を計りかねて、彼の顔を見返した。佐竹はいつになく、何かを思い悩む風な顔で、両肘を膝につき、組み合わせた手を口許に当てている。
「どうすればお前がそんな顔をせずに済むのか、どうか教えて貰いたい」
その声は静かだったが、真摯で、誠意に溢れていた。
(……でも。)
内藤は、胸の痛みを覚えながら、やはり何も言えないでいた。
そういう真っ直ぐな佐竹だから、余計に言えなくなることもある。
真正面から正直に、思う言葉をぶつけてしまったら、この友達は心底悩むのに違いないのだ。彼に、そんな思いはさせたくない。
しかし、ここまで正面切って訊かれてしまったら、もう、何がしかのことは答えなければ、佐竹も納得してくれないだろう。内藤は必死に、次に紡ぐ言葉を考えた。
「え……と。あのさ……」
やっと口を開くと、佐竹が目を上げた。
「俺たちって、友達……だよね?」
何故かそこから、少しの間があった。
「……そうだな」
内藤は、ちょっと奇妙な感覚に襲われたが、気を取り直して言葉を続けた。
「じゃあ……さ、別にさ。どっちかに彼女ができたから、とか、出来そうだからって、離れること……ないよな? あ、別に真綾さんのことは関係ないんだけど――」
ここでもまた、少しの間。
「……それは、そうだろうな」
佐竹の瞳は、次第に「何が言いたい」という色に変わりつつある。
「えっと、だから……つまり――」
どうしてだろう。
いざとなると、言いたいことの半分も言えない。
口の中がからからになって、喋るのさえ難しい。
もっともっと、上手く言葉が選べたらいいのに。
「ずっと、その……佐竹が、友達でいてくれたら、いいな、って――」
(ああ、違う。)
そんな事が言いたいんじゃない。
でも、それ以外に思いつくどんな言葉も、いま、佐竹に向かって言う訳にはいかないものばかりだった。
「…………」
佐竹は、しばらく沈黙していたが。
やがてひと言、こう言った。
「……勿論だ」
内藤は、ちょっと笑ってみせた。
「……そか」
以前、この鋭い観察眼の持ち主から「その笑い方はやめろ」と言われた、へらへらした笑顔にならないように、これでも必死に笑って見せた。
うまく騙しおおせたかどうかは分からなかったが、佐竹は何も言わなかった。
そして、「寝室の準備をしてくる」と言い、立ち上がってリビングから出て行った。
内藤はその背中を見送って、また手許のココアの液面に視線を戻した。
「ごめんな……佐竹」
ぽつりと、その液面に話しかける。
「友達」っていう言葉は、卑怯だ。
その一言で、いったいどれだけのことを誤魔化してしまえるだろう。
言いたいことを、隠しおおせてしまうだろう。
別に、名称なんてなんでもいい。
ただ、傍に居てもらいたいだけだ。
佐竹に、そばに居てほしいだけ。
……だから。
「ほんとに……ごめん」
俺、すっごい、卑怯者だよ――。
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