第3話 夕闇
ふわふわと、仄暗い空間を漂っている。
そんな感覚があって、内藤はふと、目を開けた。
(なに……? これ――。)
頭や胸や、腰や足に、きらきらと温かい光の粒が纏わりつくようにして取り巻いている。それらはさらさらと音を立てて、何か内藤の体を労わってくれているような感じがした。
(ここ、どこ……?)
周囲を見回しても、ただ暗いばかりだった。
唯一、自分を取り巻いている光の粒だけが明るく見える。
(俺……、どうしたんだっけ。)
なんだか、気を失う前のことがぼんやりとして思い出せない。
何かとても、辛い気持ちだったような気がする。
何かを焦って、「早く行かなくちゃ」と思っていたような。
ただ、この場所には何となく、覚えがあるような気もした。
でも、何かが違うような気も。
前にここに来た時は、
なにか、もっと……ずっと、
体じゅうが悲鳴を上げていたような気がするのだが。
(えっと……、それって……なんだっけ。)
ああ、わからない。
頭の中が何もかもあやふやだ。
内藤は仕方なく、ひとつひとつ、思い出してみることにした。
父の顔。
母の顔。
弟の、洋介の顔。
それから――
(…………。)
急に、胸に痛みが走ったような気がして、内藤は思い出すのをやめた。
その「友達」の顔は、何故か、思い出すのが辛かった。
どうしてなのかは、わからない。
その「友達」のことを考えた途端、視界の隅に、なにかの光源を捉えて、内藤は目を動かした。
それはちらちらと、暗い空間に浮かんでたゆたっていた。
(なに……? あれ。)
無意識にそちらに手を伸ばす。
それはどうやら、その「友達」と関係のある「何か」であるらしかった。
内藤は、もうすこし頑張って手を伸ばした。
(もう……少し。)
すると、あちらの光源の方からも、なにかするすると光の帯が伸びてきて、静かに内藤の手に巻きついてきた。
そこから、「何か」が流れ込んでくる。
(え……?)
ちらちらと、目の奥に何かの映像が展開され始めて、内藤は驚いた。
それは、不思議な映像だった。
そこは、自分のよく知っている、あの高校の中庭だった。
しかし、奇妙なことに、そこに据えてあるベンチにいるのは、他でもない自分だった。「自分」は自分を、どうやら物陰から覗いて見ているらしかった。
周囲は五月の少し熱い日差しに照らされて、庭木の緑や、植え込みの花々がいろんな色を見せびらかしているかのようだった。そんな中、自分はベンチにぽつんと一人で座って、焼きそばパンを手に持ち、ただぼうっとしているようだった。
ゆらゆらと、映像全体が陽炎のように揺らめいている。
ふと気付くと、視界の中に見える自分が、黙ってぼろぼろと涙を零し始めた。
それを見ている「自分」が、明らかに後悔したらしいのが分かった。
そして「自分」が踵を返して、校舎の中に戻って行くのがわかる。
校舎の中には、入ってすぐの所に大きな姿見が設置されている。
「自分」は何の気なしにそちらに視線を動かして、自分の姿をそこに見た。
(…………!)
内藤は、息を呑んだ。
長身で精悍な顔だちの、目つきの鋭い高校生が映っている。
(そう……か。これ……。)
そこで、初めて気がついた。
「これ」が、誰の記憶であるのかを。
「彼」の名が自分の意識に上ってくる。
しかし。
内藤はその前に、ふわふわとまた、
真っ暗闇の中に落ち込んでゆく自分を認識した。
◇
『内藤……』
遠くで、彼の声がする。
(ああ……、また夢だな。)
そんな風に思いながら、内藤は意識を浮上させた。
自分の頭を大きな手が支えるようにして、頭の下のタオルを替えてくれたようだった。
そうして、その手がそのまま、額の上に置かれる感じがあった。
今日の「彼」は、どんな返事をするのだろう。
いつも自分がこの夢の中で、何度も言ったその言葉に。
内藤はそうっと、額の上にあるその手に、自分の手を重ねてみた。
相手はちょっと驚いたように、その手を引こうとしたようだったが、内藤はその手を掴んで引き止めた。
「さた、け……」
きゅっと、その手を握り締める。
夢なんだから、いい。
せめて夢でぐらい、言いたいことを言わせてもらうんだ。
絶対に、絶対に、本当の「彼」には言ってはいけない言葉でも。
「好き、だよ……。佐竹……」
「だい、すき……」
言った途端に、またいつものように転がり落ちた雫が、
枕に落ちて染みを作った。
「…………」
さて。
今日の「夢の彼」はどちらの反応なのかな。
思って、そうっと目を開けた。
「…………」
長い沈黙。
(……あれ?)
こんなに長い間、なんの反応もないのって、珍しい。
いつもはすぐに結果が出て、「彼」はあの笑顔で笑ってくれるか、または冷たく沈黙してこちらに背を向け、視界全体が真っ暗になるか。
……それなのに。
内藤は視線をめぐらせて、暗い部屋の中をちょっと見回した。
いつもの、自分の部屋である。窓の外の明るさの感じだと、もう夕方ぐらいだろうか。ややオレンジ色の光がカーテンを透かして仄見えている。
と、額にあった「彼」の手がそっとこめかみの方へと下りてきて、そのまま涙を拭ってくれた。内藤はその手を握ったままでいる。
「…………」
沈黙したままの「彼」の黒い瞳が、じっと内藤を見つめていた。
その瞳は、決して笑ってはいない。
だけれども、決して「拒絶」の色を浮かべてもいなかった。
不思議な気持ちになって、内藤はしばらくその瞳を見つめ返していた。
頬にあたっている、「彼」の手が温かい。
そのことに気がついて、次第しだいに、内藤は目を見開いた。
(え……。まさか。)
これは、まさか。もしかして。
(ゆ……、ゆゆ、夢じゃ、ない……??)
ざああっと、全身の血が引くような感じがした。
「あ……の。えっとっ……!」
と、言いかけた自分の声が、余りにも掠れていて驚いた。
まるで何日も声を出していなかったような、ひどい雑音まみれの声だった。
「さた……、おれっ……」
おろおろして、半身を起こそうとしたが、体全体がひどく重くて、なぜか動くことが出来なかった。
と、佐竹が素早く腕を回して、内藤の体を抱き起こしてくれた。
そしてそのまま、息も止まるぐらいに抱きしめられた。
「え……」
何が起こっているのかよくわからずに、内藤はもうわたわたしている。
「な、なに……」
「……俺もだ」
と、耳元でそう言われて、ふと黙る。
「……え?」
体を抱きしめている腕に、さらにぎゅうっと力が入った。
「俺もだ、内藤」
そして、耳を疑うような台詞が聞こえた。
「……お前が、好きだ」
「…………」
内藤は呆然として、しばらくものも言えなかった。
(え? なに……? 聞き間違い、とか――?)
何度か、言われたことを頭の中で反芻してみるが、やっぱりどう再生しても、「好きだ」と言われたようにしか聞こえなかった。
やっと体を離されて、佐竹の顔を見返すと、その黒い瞳はやっぱり真っ直ぐで、真摯な色を湛えていた。
やがて、佐竹がまた内藤の頬を撫でた。
そして、ひと言、ぽつりといった。
「一生、後悔するところだった」
「…………」
内藤は、彼の言わんとするところがよくわからず、ただただ、彼の瞳を見つめて固まっていた。
頭の中が滅茶苦茶で、一体なにがどうなっているのか、皆目わからない。
でもやっぱり、先ほどの佐竹の言葉をそのまま受け取っていいものかどうか、相当迷った。
「え、あの……、ほんと……?」
恐る恐る、訊いてみる。
佐竹は黙ったまま、静かに頷いた。
「え? いや、その……」
自分の言ったのは、単に「友達として好き」とかいう意味ではないのだけれど。
しかしそんなことを、どうやって彼に説明したらいいのかも分からずに、内藤はただ俯いてもじもじした。
「え、えーと……」
かあっと、また顔に血が上ってくる。
佐竹は黙って、そんな内藤を少しの間見ていたが、また腕を伸ばして、その体を抱きしめた。
「……『ただの友達』が、再々こんなことはするまい」
ぽすぽすと内藤の頭を軽く叩きながら、耳元で低い声が言う。
「…………」
内藤も、恐る恐る佐竹の背中に腕を回してみた。
「……ほんと……? ほんとに……?」
まだ信じられない気持ちで一杯ながらも、その肩口に顔を
(夢じゃない……? 本当に……??)
が、佐竹はまた内藤の体から離れると、その頭をまたぽんぽんと叩いて立ち上がった。
「ともかく、『薬湯』を持ってくる。ナイト王から飲ませるようにと言われている」
「え……? ナイトさん?」
意外な人の名前が出て、内藤は驚いた。佐竹はこちらを見返した。
「覚えていないか? お前、フロイタールの《白き鎧》の世話になったんだぞ」
「え……!?」
びっくりして目を剥いた内藤を置いて、佐竹は一旦部屋を出てゆき、すぐにマグカップに薬湯を作って持ってきた。
奇妙な、独特の香りがする。
あの異世界の王ナイトが、宰相ズールからよく飲まされていた、あの薬湯の香りだった。
内藤は、実はこの体を、あちらの王ナイトと交換したという事実がある。向こうで七年もの歳月を過ごしてしまった本来の内藤の体では、こちらの世界に戻ってからの支障が大きすぎるというので、あのナイトの計らいにより、十七歳程度で容姿も内藤にそっくりだったナイトの体と、お互いの意識を交換する形で体を入れ替えたのだ。
それもこれも、かの国フロイタールの擁する超古代文明の産物、《白き鎧》の力があってこそだった。
薬湯は、その時に《白き鎧》から内藤とともに返されてきた丸薬を、水や湯に溶かすことで作ることが出来る。こちらの世界に戻ってきた時、内藤はそれを一緒に持ち帰ってきていたのだ。
佐竹の手からマグカップを受け取って、そこから立ちのぼる少し変な匂いに顔を顰めながらも、内藤はそれを口に運んだ。佐竹はベッド脇に内藤の椅子を寄せて座り、じっとそれを見つめている。
やがて、静かに佐竹が口を開いた。
「陛下によれば、やはりその体はこちらの環境に慣れたものではないために、どうしてもあちらにはない病原体等には弱くなるそうだ」
「あ、……ああ、そうなんだ……」
「なるほど」、と内藤は納得する。
「薬湯は、それらの問題もある程度は解決できるらしい。今後は、こちらの薬を使う前に、まずはそちらを試してみるといいという話だった」
「へ〜。なるほど……」
そこまでで、また部屋の中に沈黙がおりる。
「あ……のさ、佐竹」
佐竹は無言のまま、内藤を見返した。
「あの時、いったい、何があったの……?」
「…………」
「なんか俺……、トラックにはねられた……? ような、気がするんだけど――」
それでもやはり、しばらく佐竹は黙ったままだった。
その瞳に、僅かながらもつらそうな光が宿ったのに気付いて、内藤は黙り込んだ。
どうしよう。
この友達が、辛いというなら聞かないほうがいいのだろうか。
(あ。……もう、違うのか……?)
今後はもう、彼について「友達」という言葉を使うことはないのだろうか。
……いや、しかし。
(だ、だからって――。)
それなら、今後は一体、なんと呼べば――??
なにか勝手に脳内でそんな事を考えていたら、また自分がひどく赤面しているのを自覚した。
佐竹はそんな内藤を、ちょっと不思議そうな目で見やったが、やがて訥々と、これまでの経緯を話し始めたのだった。
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