第2話 既視感

 夢を見る。

 よく考えてみれば、確かにそれは悪夢だけれど。

 ……でも、とても甘美な夢だ。


 言ってはいけない言葉を、言ってはいけない人に言う。

 日によって、それが受け入れられることもあれば、勿論、拒絶されることもある。


『…………だよ、佐竹』


 そう言ってしまってから、何度、夜中に飛び起きたか。

 そして決まって、びっしょり汗をかいている。

 もう秋も深まって、寝汗をかくような時期でもないのに。


 思わず周囲を見回して、彼がそこに居ないことを確認する。

 もちろん、いつもの自分の、ベッドの上だ。

 そして、それが夢だったのだと気がついて、心から安堵する。


 ……そして、少し、がっかりする。


 受け入れてくれたときの佐竹の顔は、いつも決まってあの顔だ。


 あの世界から連れ戻してくれて、はじめてきちんとお礼を言ったとき、

 自分に向かって初めて見せてくれた、あの笑顔。


「さたけ……」


 ただの暗い空間に、言葉だけが消えてゆく。

 誰も聞いてくれないその言葉は、闇に散ったあとはどこへ行くのか。


 そうして、決まってそこからは眠れなくなる。

 まんじりともせずに、また朝がやってきてしまう。

 それを、何度もこの部屋で迎えてしまった。


 「秋の夜長」、とは言うけれど。


 そんな夜は、ただただ、長い。

 もう、耐えられなくなるほどに――。



                ◇



 翌日、水曜。

 高校は、二日目の代休となっていた。

 間に祝日を挟んだわけなので、今日は三連休の三日目だ。


 なんだか寝不足のまま、まだ少し暗いうちに起き出して、内藤は洗濯機を動かし、朝食の準備をした。

 父が起き出して来る時間までに、ある程度朝食のセッティングは終わらせてしまう。いつもは父も一緒にやってくれるのだが、今日は内藤のほうが早すぎた。毎日の仕事で疲れている父は、少しでも寝かせておいてあげたい。

 と、いつも通り、トーストのための皿やマーマレードなどをテーブルに並べていたら、なにか頭がくらりとした。


(……あれ?)


 少し違和感はあったけれども、ふるふると少し頭を振って、内藤はそのまま洋介と父を起こしに行く。

「さあさあ、顔、洗おうな〜?」

 意識的に明るい声をだして、まだねぼけまなこの洋介を布団から引っ張り出し、朝の支度を手伝う。

「いってらっしゃい。気をつけてな、洋介〜!」

 二人が朝食をとって出かけるのを見送ったあと、後片付けをし、洗濯物を干して掃除を始めた。


(学校がないと、なんかまるっきり、主婦だよなあ、俺……。)


 ふと、そんなことを思いつつ、それでも佐竹があれこれと教えてくれた家事の「スゴ技」というのか「手抜き技」というのか、ともかくそんな技の数々を駆使しながら、朝の一連の用事を済ませたら、もう十時になっていた。

 作業をしながらも、喉の奥になにかぼわんとした熱を感じ始めて、内藤は「やばいな」と思う。

 これはどうやら、まずいようだ。

 これまでの経験上、こう言う時には――。


 そう思ってリビングの引き出しから体温計を出す。

 計ってみると案の定、熱が出始めていた。まだ三十七度台だったけれども、こういう感じがする時は、すぐに上がってくる可能性が高い。早めに対処するにくはなし、だろう。


(え〜っと、風邪薬……、どこだっけ――。)


 そう思ううちにも、ふと気付けば肩や背中がぎしぎしと痛いのに気付く。「節々が痛い」というあれだ。それに、なにかぞくぞくと背筋も寒い。


(だめだ……、やばいかも。)


 すでに、頭がふらつき始めている。内藤は救急箱を探して、市販薬を見つけだした。

 その見慣れた薬の箱を見て、はっとする。


(あ、これ……。)


 それは、母が多分、「あの日」に飲んでいった市販薬だった。


「…………」

 内藤はしばらく、その箱を眺めていたが、やがてそれを、そのままそっと救急箱に戻してしまった。

 勿論、「消費期限」みたいなこともあるけれど、やっぱり、その薬だけは飲みたくなかった。



                ◇



「父さん、ごめん。俺、熱でてきちゃったみたいで。……うん。うん……」

 ベッドの中で、酷い悪寒に苛まれながら、ともかくスマホで父に連絡を取った。

 そんなに症状が酷くなければ、洋介を学童まで引き取りにいくぐらいはしようと思っていたのだけれど、どうやらこれは、かなり厳しい。

 とにかく寒くて、普段の布団の上から毛布を何枚もかけても、まだ足りない気がした。がちがち震えて、歯の根も合わない。


(どうしよう……。)


『佐竹君に、連絡してみたらどうだろう?』

 案の定、隆はそう提案してきた。

「や……、でも、佐竹、今日は部活だって言ってたし――」

 そうなのだ。学校そのものは休みだったが、剣道部はまた近々大会があるとかで、今日は朝早くから稽古があるのだということだった。今日は佐竹もそちらの指導にあたるべく、早くから高校に出向いているはずだった。主将だった三年生の林田が引退したため、事実上、現部員を指導できるのが佐竹しかいなくなっているらしい。

『あ、そうなのか……』

 隆の声が、ちょっと困った色になる。

「うん、だから……さ」

 内藤も、少し言いよどんだ。

 もちろん、それは事実だったのだけれど、何となく、ここでまたあの友達を頼るのが、内藤はどうにも嫌だったのだ。何より、剣道のこととなれば、佐竹にとってはやはり、大切な用事であるのは間違いがない。そんな日に、朝からこんなことで煩わせるのは、やっぱりどうしても嫌だった。

 いや、どちらにしても、佐竹は夜までには内藤のテスト勉強の進捗状況を確認するために、また我が家にやってくるとは言っていた。そうでなくとも、自分自身の勉強やら鍛錬やら家のことをこなした上で、内藤の勉強と剣道部の指導のほか、かの異世界への技術協力のこと等々、一介の高校生が担うにしては多すぎる責任をすでに負っているというのに。

 一体彼は、一人で何人分の役割をこなしているというのか。


 隆は困った様子で、ちょっと考えてから言った。

『とにかく、少し早く帰れるかどうか会社の方に聞いてみるよ。スマホは枕元に置いておいてくれ』

「ん、わかった……」

 それだけ言って、電話を切る。

 そのまま大量の布団にくるまって、震えながら天井を見上げているうちに、体中を包む熱にうかされるようにして、内藤はいつのまにか意識を失ったようだった。


 どのぐらい、そうやって眠ってしまっていたものか。

 ふと目を覚ますと、少し気分が良くなっていたようだった。枕の下からスマホを取り出してみると、もう午後をだいぶ回っている。

 隆からメールが入っていたので、内藤はのろのろとそれを開いてみた。


『 体調はどうだ?

  すまないが、ちょっとトラブルがあって、

  今日はあまり早く帰れなさそうだ。

  一応、佐竹君には連絡した。

  学童へは父さんから連絡したから、

  佐竹君が迎えに行ってくれるそうだ。

  安心して寝ていなさい。          』


「え、そんな……」

 内藤は愕然とする。

 隆は結局、勝手にまた、佐竹の世話になることにしてしまったらしい。

 なんだかもう、それはいくらなんでも甘えすぎじゃないんだろうか。


 内藤は重い体を持ち上げてベッドから下りると、上着を探した。

 別に寝巻きを着て寝たわけではないので、汗をかいて気持ち悪かったけれども、そのまま出かけることにする。内藤はちょっとふらつきながらも玄関を出て、扉の鍵を閉め、外へ出た。

 このぐらいの時間なら、佐竹よりも先に学童に着けるだろう。どうせ、行き帰りで十五分ぐらいのことだ。あとはまた、ベッドに潜り込んでいればいい。

 熱のせいであまり頭が回っていなかったけれども、内藤はそんな風に考えながら、住宅街の道を歩いて行った。



                ◇



 佐竹が内藤隆、つまり内藤の父親から連絡を受けたのは、高校内の剣道場で稽古が始まってから二時間ばかり後のことだった。

 実際には、稽古中にスマホを見ることなどないため、昼の休憩時間になってはじめて連絡が入っていることに気付いて、こちらから電話を掛けた。

 隆はひどく困った様子で電話に出、ことの顛末を説明してくれた。


「はい。……はい。了解しました。ご心配なく」

 佐竹は端的にそう言って、先に隆の仕事先に回ることを提案した。内藤がもし深く眠ってしまっていた場合、家の鍵を開けさせることが難しくなる可能性がある。だから佐竹は、一時的に父親の方から、自宅の鍵を預ることを申し出たのだ。

『一応、洋介にも持たせているんだけどね。……でも、そうだな。万一のことがあると困るか――』


 そのような訳で、佐竹は剣道部の顧問に事情を説明して早めにそこを辞し、一旦、隆の仕事先へ回って家の鍵を預かった上で、そのまま取って返し、洋介のいる学童へ向かったのだった。

 隆から事前に連絡を受けていた学童の職員は、佐竹の顔はすでによく知っていることもあり、「本当は規則違反なのだけれど」と言いながらも、笑って洋介を連れてきてくれた。

「あ! さたけさん……!」

 洋介は例によって、佐竹の顔を見るなり嬉しそうな顔になる。いつものようにランドセルをしょって、飛び跳ねるようにしてこちらへやってきた。

「兄貴は熱が出ているんだそうだ。今日は俺と一緒に帰ろう」

「えっ、そうなの……?」

 途端に洋介が心配そうな顔になる。

「ああ。だから、早く帰って看病してやらないとな」

「う、うん……!」

 そのまま洋介と手をつなぎ、学童の職員の女性に礼を言って、佐竹は歩き出した。

 洋介とは歩幅がまったく合わないので、相当ゆっくりと歩いてやらねばならない。


 よく利用しているいつものスーパーの近くまで来た時、不意に洋介が言った。

「あ、さたけさん。もものゼリー、かう?」

「ん?」

 何を言われたのか、すぐには理解できなかった。

「えっと、えっと……、ねつでたとき、もものゼリーおいしいから――」

 何か一生懸命、洋介が説明している。

「……ああ」

 佐竹は、すぐに理解した。

 確かに、発熱して食欲のないときには、そういったものがあったほうがいいのかもしれない。佐竹はそこで、他にも何か看病に必要そうなものを少し買っていくことにした。


 買い物を終えて再び道に戻り、内藤家に向かって歩き出す。

 そういえば、この先に、内藤たちの母親が事故に巻き込まれた交差点があるはずだ。

 四車線ある国道と二車線の一般道とが交わるその交差点で、内藤家の母親は半年前、トラック事故に巻き込まれて亡くなっている。

 あの《門》が開いた道といい、その交差点といい、この界隈には内藤たちにとって辛い思い出のある地点が多い。とはいえあの家に住んで、このスーパーを利用する以上、その交差点を渡らないわけにもいかないらしかった。

 それでもやはり、内藤自身はなるべく普段、そこを迂回して歩道橋を利用するなどしており、その交差点を通る事はしていないらしかったけれども。


 と、くだんの交差点の二十メートルばかり手前に来た時、佐竹は我が目を疑った。


(………?)


 まだ赤信号の灯っている、国道を渡るその交差点の向こう側に、少しぼんやりした風情の内藤が立っている。確かにまだ熱があるらしく、どうやら頭がふらふらしているようだった。


(内藤……? 一体――。)


 自分が洋介を迎えに行く事は、隆から連絡されているはずなのに。

 一体どうして、そんな体で、こんな所をふらふらしている……?


 と、考える間もなく、佐竹は息を呑んだ。

 少し国道を走る車が空いたように見えた瞬間、まだ信号が赤であるにも関わらず、信号を無視して歩き出した隣の若い男につられるようにして、内藤がふらふらと車道のほうへ歩き出したからだ。

「内藤……!」

 思わず声を上げたが、彼には聞こえていないようだった。

 無理もない。周囲は車や店など、その他の音がいっぱいで、人の声などそれにまぎれてしまうのだ。まして内藤は、熱でぼんやりしているらしい。

 佐竹と手をつないでいた洋介も、佐竹の声に驚いて目をやり、そこに兄がいるのに気づいたらしかった。

「あ、にいちゃ……」

 言いかけたときだった。

 佐竹から見て右手、国道の南側から、結構なスピードで走っているらしい、トラックとおぼしきエンジン音が聞こえてきた。クラクションを鳴らし、明らかにこちらに向かってくるようだ。

 内藤より先に歩き出した若い男は、それより早く、もう小走りに交差点を渡りきっている。

 しかし。

 意識のぼんやりとしているらしい内藤は、なんだかゆっくりと、ふらふらしながらまだ交差点の中ほどにしか到達していない。


「ここにいろ! 洋介!」

 佐竹がそう叫んで走り出したときには、もうトラックのエンジン音はすぐそばまで迫っていた。

「内藤っ……!」

 佐竹は走りながら叫んだ。


 内藤が、ふと顔を上げた。

 その目線が、一瞬、佐竹を捉えたように見えた。

 その真横に、もうトラックの車体が迫っていた。


「内藤――――!!」


 しかし、到底間に合うタイミングではなかった。


 激しいブレーキ音がして、周囲の通行人が驚き、声をなくした。


(…………!)



 内藤が跳ねられるその瞬間、

 佐竹は思わず、目をつぶった。

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