第四章 今来むと
第1話 仕合い
翌日、火曜は祝日だった。
高校は勿論、休みである。
時刻は、午前八時半。
佐竹はいま、再びあの山本師範の道場に向かっている。
実のところ、今日のそれには大きな目的があった。
このあと、師範の道場で、自分はかの科戸瀬慶吾の求めに応じる形で、彼との仕合いをすることになっているのだ。
科戸瀬は、剣道部もこの秋で引退の運びとなり、二年に主将の役目も譲って、今は受験勉強に邁進せねばならない身らしいが、今日は敢えて、このために時間を取るとのことだった。
そんな訳で、急遽、山本師範にご協力を仰ぐ形で、そちらで早速、科戸瀬の希望している剣道の仕合いを行なうことになったのだった。
電車を降りて駅から出ると、稽古着と竹刀の入った稽古袋を担いで、師範の道場への道をひたすらに黙って歩く。
佐竹は、内藤には敢えてこのことを話さなかった。
それは勿論、彼が次のテストのために勉強する時間が必要だからという、誰が見ても至極当然の理由があったからでもある。しかし、実のところを言えば、佐竹がただ個人的に、あの真綾のみならず、彼にもこの場に同席してもらいたくなかったからだった。
正直に言ってしまえば、それはとりもなおさず、仕合いの中で、自分の気持ちが乱れるのを恐れたからである。
それが、どんなに身勝手な理由かは分かっている。
また、どんなに自分の未熟さを露呈した理由かということもだ。
それでも、集中し、全身全霊でこの仕合いに当たるためには、これは必須のことだった。そうでなければ、それは慶吾への非礼にあたる。
単なる朝晩の稽古の場でさえも、今の自分はともすると、あの自分の意思では思うようにならない感情のために、集中力を欠いてしまうことがある。
その大元にあるものは、紛れもなくあの「友人」だ。
彼が仕合いの場で自分をじっと見ているなど、今の自分には、正直言って勘弁して貰いたい事態に他ならなかった。だから佐竹は、これを「いつもの稽古だ」とあの友人に言い、「一人でも試験勉強に邁進しておけ」と、ちょっと偉そうに命令さえして、一人、この道場に来ることにしたのである。
師範の道場の前まで来た時、ちょうど、あのもう見慣れた黒塗りの高級車から、かの科戸瀬慶吾が車を降りるところに行き会った。佐竹は足早にそちらに近づき、礼をする。
「おはようございます、科戸瀬さん」
「ああ、おはよう。佐竹君」
朝から相変わらずの爽やかな笑顔で、慶吾も礼をした。彼は今日も、あの制服の詰襟姿だ。
「今日は無理を言って申し訳ない。どうかよろしく頼む」
「こちらこそ」
言葉少なにそう言って一礼し、佐竹は先に道場の門をくぐった。
剣道場では、すでに山本師範が道着に着替えて二人を待ってくれていた。今日のこの仕合いを見届けるため、同席してくれることになっている。
「おはよう、
優しい瞳をした穏やかな中年のこの剣士は、父の大学の後輩にあたる人である。
父・宗之から、息子である煌之の指導を託されて以来、佐竹側の都合により三年ばかりのブランクはあったものの、ずっと佐竹の師であり続けてきた人である。佐竹よりは小柄だが、腰の据わった燻し銀のような剣筋の、佐竹にとっては心から尊敬すべき師であった。
「科戸瀬慶吾と申します。本日は、ご無理を申し上げて誠に申し訳ありません。どうかよろしくお願い致します」
慶吾が隙のない挨拶をして、山本師範に頭を下げた。
「いえ、こちらこそ。よくおいで頂きました。どうぞよろしく」
山本師範も、様々な剣道の大会において、彼のことは以前から知っていたようだった。簡単に自己紹介し、挨拶を済ませる。
佐竹と慶吾は早速道着に着替え、面や胴、
準備を終えて、道場の隅で少し蹲踞し、佐竹は少しの間、目を閉じて集中した。
息を吐き、頭の中から余計な思いを全て追い出す。
この場では、ともかくも、慶吾との立会いのことのみに集中するのだ。
それが、相手に対する最低限の礼である。
「双方、そろそろ、よろしいか」
静かな山本師範の声が掛かって、佐竹は目を開け、立ち上がった。
◇
その電話が掛かってきた時、内藤は家のベランダで洗濯物を干していた。
父の隆と洋介は、二人で部屋の掃除をしてくれている。
内藤は、母が使っていた、可愛いひよこのアップリケのついたピンク色のエプロンのポケットから、慌ててスマホを取り出した。
(……あ。)
画面に表示されている、その意外な発信者の名前を見て、一瞬躊躇する。しかし、ちょっと逡巡したものの、内藤はすぐに出た。
「は、はい――」
『あ……の。突然申し訳ございません。……真綾です』
相手のほうでも、何故かちょっとびっくりしたような声だった。というか、何かを戸惑っているとでもいうのか。
「はい、内藤です。……どうかしました? 真綾さん」
彼女と内藤が話すのは、先日、彼女が文化祭で佐竹から酷く冷たいあしらいをされ、凍りついた顔のまま帰って行った、あれ以来である。それでも一応、佐竹に謝罪したいという彼女の希望は叶ったわけなので、もう自分に連絡してくることなどないだろうと思っていたのだったが。
一体自分に、これ以上なんの用があるというのだろう。
『あ、あのう……。メッセージだけ、お入れしようと思ったのですけれど。……今日は、佐竹様とご一緒ではないのでしょうか?』
「……は?」
突然、何を聞いているのだろう。
確かに佐竹とは仲のいい「友達」ではあるけれど、何も四六時中一緒にいるわけではない。今日は佐竹は剣道の稽古で山本師範の道場にいくと言っていたし、自分も家事が終われば次のテストのための勉強を始めなければならなかった。
というか、「自分が行くまでにある程度は勉強しておけ」という、あの友人からのきついお達しが来ているのだ。これでさぼったりしていたら、またどんな殺しそうな目で睨まれるやら、分かったものではない。
それもこれも、別に嫌がらせなどではなくて、本気で自分のことを心配してのことだとは分かっているが、何かもう、佐竹は時に実の親以上に厳しくて、内藤としても時々、少々困ってしまうほどだった。
「いや、あの……。今日は剣道の稽古だって言ってたので。俺は家にいますけど」
『え? ……あ、ああ……、そうですの……』
真綾は、さらに意外そうな声になった。そして、少しの沈黙があった。
(……なんだ?)
真綾のこの電話の意図が、よくわからない。
内藤はなんとなく、嫌な予感がしてスマホを持ち直した。
「えっと、あの……。どうしたんですか? 佐竹に、なにか?」
『あ、いえ……。そういう訳ではないんですけれど――』
真綾はなにか、非常に言いづらそうにしている。
長い沈黙が続いて、とうとう内藤はこちらから言った。
「あのっ……。何があるんですか? 良かったら、教えて欲しいんですけど――」
『いえっ、あの……いいえ』
真綾は心底、困った声になった。
『佐竹様が何もおっしゃらなかったのでしたら、わたくしからは――』
(なんだよっ、それ……!)
内藤は、がらにもなくかっとした。
佐竹が、自分に言わなかったことがあるって?
そりゃあ、そんなの、別にあったっていいけれど。
どうせ、ただの「友達」だ。
そんなこと、山のようにあったっておかしくない。
(でも……どうして。)
どうしてそれを、この真綾は知っている……?
「真綾さんっ……!」
思わず、声が大きくなってしまったのに気付いて、内藤は慌ててそのトーンを落とした。あまり、隆や洋介には聞かれたくなかった。
「あの……ごめん。良かったら教えて貰えませんか?」
『…………』
「俺、べつに……誰にも言わないし」
『…………』
真綾はもう、本当に困ったように沈黙し続けている。
「真綾さん……!」
内藤は焦れて、ついまた大きな声を出しそうになる。
『ご、ごめんなさい……、わたくし……』
それでも、やっと返ってきたのは、真綾の困りきった謝罪の言葉だった。
『内藤様は、てっきりご一緒に行かれるものだとばかり思っていて――』
狼狽して、そんなことを呟いている。
「行く……? って、ああ、剣道場ですか?」
内藤はぴんと来た。
真綾と、剣道場と、佐竹とくれば。
「あの、もしかして……、こないだ文化祭で言ってた、剣道の仕合いのこと……?」
『…………』
真綾の沈黙はもう、それを肯定したも同然だった。
あとはもう、真綾は観念して、すべてを教えてくれた。
今日、佐竹と慶吾が山本師範の道場で仕合いをする約束をしていることを。
そして最後に、何度も内藤に謝りながらこう言った。
『わたくしはもう、見に来るなとはっきり佐竹様から言われてしまいましたので仕方がないのですけれど……。でも、もし内藤様がごらんになられるのでしたら、どんな風だったか……いえ、せめて結果だけでも、教えて頂きたかったものですから――』
(……なんだ。)
内藤は電話を切ってから、スマホをまたエプロンのポケットに戻して、洗濯物干しを再開した。
(……そんなことかよ――。)
だから、何だって言うんだ。
俺はテスト勉強があるんだし、別に剣道やってる人間でもないんだしさ。
佐竹が俺に、何も言わずに慶吾さんと仕合いしたからって、なんなんだよ。
どうでもいいじゃん、そんな事。
大体、真綾さんだって「来るな」って言われてるんだし。
それだけ、仕合いに余計な邪魔が入って欲しくないってことだろ。
(佐竹が俺に来て欲しくなかったとしたって、普通だろ。)
「……あ」
そんな事をぐるぐる考えていたら、洗濯ばさみを取り落とした。
からんからん、と軽い音を立てて、二階のベランダからそれが庭まで落ちてゆく。
内藤はそれをぼんやり見つめて、それからまた、何事もなかったかのように、洗濯物を干し始めた。
(俺、もしかして、また……。)
いや、そんなはずはない。
佐竹は、自分に「そんな顔をして欲しくない」んだと、はっきり言った。
だからずっと、「友達」でいてくれるのだと。
だからきっと、そんなはずはないのだ。
佐竹がまた、こちらに分からないように、
微妙に自分と距離を置き始めているなんていうことは――。
◇
「有難うございました」
山本師範の道場の前で、慶吾に向かって一礼すると、姿のいい先輩剣士は、ちょっと苦笑するようにして佐竹を見返した。
「こちらこそ。調子の良くないところ、無理を言って済まなかった」
「……お恥ずかしい限りです」
言って、佐竹はまた頭を下げた。
既に、門の前にはいつもの黒い高級車が停まっている。
結論から言えば、仕合いは慶吾の勝利となった。
彼我の力の差は殆どなく、全体にはほぼ互角といってもよい立会いとなったが、先日の仕合いとは比べるべくもなく、佐竹の剣先は、何故かどうにも思うようには伸びてゆかなかったのだ。そして終始、慶吾の鋭い突きに翻弄されることになった。
立会いをしてくれた山元師範も、やや不思議そうな目で佐竹を見ていたが、最後まで、特に何も言わなかった。
「次はあまり、心に迷いの無いときに立ち合わせていただきたいものだよ」
慶吾はごく軽い調子でそう言って、にこりと笑った。
本来であれば「なぜ全身全霊で来なかったか」と激昂されても仕方のない場面であるのに、この青年は一言の不満も言わなかった。さすが、
「誠に、申し訳ありませんでした」
低く頭を下げる佐竹に向かって、慶吾は少し視線を巡らすようにしてから、静かに言った。
「……いや。実のところ、自分にも覚えのあることだから」
「…………」
意外な言葉が来て目を上げると、青年剣士の爽やかな瞳と目が合った。慶吾は、ごく優しい顔で微笑んでいた。
「そういう気持ちは、ともかくも、ままならないものだからね――」
「…………」
佐竹は、ちょっとその言葉に驚きを禁じえなかったが、もはや何も言わず、ただ彼に向かって一礼した。そしてそのまま踵を返し、もと来た道を戻って行った。
背中に慶吾の視線を感じたが、敢えてもう、それには気づかぬふりをした。
やがて背後で車のドアの閉じる音がして、車の去っていく気配がした。
(……『迷い』、か。)
その正体が何であるかはわかっている。
それが今日、この場に敢えて呼ばなかった人物に関わっているのだということも。
その人物があの場にいなくてさえこうだったのだから、もし同席などしていたら、どんな無様な仕合いになっていたことか。
「…………」
駅までの道を行きながら、佐竹は考えている。
彼とは「友達でいる」と言ってしまった。
そうである以上、これからずっと、相当の長い期間、自分は彼の傍にいることになるのだろう。
「彼女ができても、結婚しても」とまで、彼は言った。
本当に、自分の感情がただの「友達」に対してのそれだったのなら、それはどうということもない約束に過ぎなかっただろう。しかし。
今の自分には、それが相当の「呪縛」に思える。
いや、もはや「
彼とどう距離を取っていれば、この「迷い」は消えるのだろう。
いっそ離れてしまえれば、気持ちに決着をつけるのは、遥かに早くすむことだろうに。
佐竹はふと立ち止まり、少しだけ目を閉じた。
そしてまた、空を見上げた。
秋晴れの、ひどく穏やかな空だった。
その無窮の秋空に、どこかを飛び去ってゆく、飛行機の音が響いていた。
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