第7話 翳(かげ)り
「あ! このカップなに? どうしたの?」
昼過ぎ、一緒に帰宅した洋介が、キッチンの食器かご中を見て、早速そう尋ねた。
「ああ、これ、佐竹のだよ」
内藤は素直に答える。
「今日、買ったんだ。うちに置いとくんだって。使っちゃ駄目だぞ?」
午前中、佐竹と別れて帰宅したあとすぐ、綺麗に洗って乾かしておいたのだ。
「さたけさんの? へ〜……」
洋介はまだランドセルを担いだまま、面白そうに、その黒いカップをじっと見ていた。
授業が午前中で終了し、給食を食べたらすぐに帰ってくる洋介を、内藤は今日は早めに学童に迎えに行ったのだ。いつもならこんなことは出来ないけれども、たまには早く帰らせて、ゆっくり遊んでやったり、休ませてやりたいと思ったからだ。
自分にとってはもう七年も前のことだとはいえ、この洋介と、父、隆にとっては、母が亡くなったのはつい半年前のことなのだ。
洋介は、自分にできる手伝いは積極的にしてくれているし、難しいわがままを言って困らせたりなども一度もしない。小さいなりに、急に家事で大変になった兄の自分のことを色々と気遣ってくれているのだろう。
さすがにあれから、夜に怖い夢を見て
兄である自分が、もっとしっかりして支えてやらなくてはならないのに、内藤はむしろ、自分のほうが、いつもこの小さな弟に励まされているような気がしてならない。
「さ、早く手ぇ洗ってうがいしよう。先に宿題、終わらせような?」
後ろからランドセルを下ろしてやりながら、「ほい、ほい」などと掛け声を掛けながら、一緒に洗面所へ向かう。
「うん!」
洋介は、にこにこ笑って嬉しそうだ。
宿題が終わったら、おやつの時間。
それは母が、洋介が小学校に上がったときに決めたルールだ。
洋介の学校のスクールカウンセラーの先生も、「お母様が生きてらっしゃった間にしていた日常生活のことや習慣などは、なるべく以前と同じようにしてあげてください」と言っていた。
だから内藤も、できるだけ前と変わらないようにしてやりたいと思っている。
内藤の腕では、母のような手作りのおやつを毎日のように準備してやることはまだ出来ないけれども、佐竹がそのうち、簡単なカップケーキの作り方は伝授してくれることになっている。ホットケーキとプリンはもう教えてもらったので、時間のある時には内藤も、時たま作ってやることもある。
でも、自分も宿題やら家事やらでいっぱいいっぱいだったりするので、それはもう、本当に時たまだ。
つくづく、世のお母さんがたって偉いなと思う。
勿論、佐竹の母である馨子さんのように、外でばりばり働いて飛びまわってるお母さんたちだって偉い。
「えーと、今日は連絡帳は? 洋介」
「これ〜!」
洋介がランドセルから出した連絡帳の内容を確認して、サインを書き入れる。
あとは、渡されたプリントの確認だ。
それにしても、学校から来るプリントって、なんでこう多いのだろう。その上、やたらと「いついつまでに提出」っていう、プリントの一部を切り取っては返事の必要なものが多かったりする。
(……あ。今度、遠足かあ。弁当だなあ、どうしよう……。)
秋には、芋ほり遠足だ。
内藤も、「そんなのあったな」なんて思い出す。
そうでなくても二学期は、運動会や音楽会など、とにかく行事がてんこ盛りだ。
国語は毎日、教科書の音読をする宿題があるので、それを聞いてやってから、画用紙に貼り付けた音読用のプリントにもサイン。サイン欄の隅に、毎日少しずつぱらぱらマンガのように動いていくように、小さな絵を描いてやる。洋介はそれを、毎日楽しみにしているのだ。
「にいちゃん、これなに? 今日は、さかながへびになったの?」
「そーそー。明日はなんになるかな〜?」
洋介がまた、嬉しそうにけたけた笑って、大事そうにそれをランドセルに戻す。
そんなことをやっているうちに、佐竹が家にやってきた。
「洋介も帰ってたのか。丁度良かった」
そう言って、佐竹は駅前で買ったらしいケーキ屋の袋をテーブルに置く。箱ではないので、きっと焼き菓子だ。洋介の目がそれを見て、きらきら輝いた。
内藤は、そんな弟に笑いかけ、ぽすぽす頭をたたいてやった。
「算数のドリルが終わったら頂こうな。もうちょっとだぞ、がんばれ」
「うん……!」
そう言って、俄然、洋介が頑張りだした。
「……代わろう」
佐竹がひと言そう言ってテーブルにつき、洋介の前に座った。いつものように、内藤の代わりに洋介の勉強を見ていてくれるということだ。
「あ、ありがと……」
内藤は立ち上がってコーヒーメーカーでコーヒーを淹れる準備をする。そのまま、ついでに他の家事にも取り掛かった。
洗濯物を取り込んだりして戻ってみると、もう洋介の宿題は終わったらしかった。今は佐竹と一緒に、明日の持ち物を確認しながらランドセルの中へ教科書などを入れなおしている。
「終わった? じゃ、おやつにしような」
「わーい!」
ばんざいしている洋介には、冷蔵庫からオレンジジュースを出してついでやり、内藤は佐竹の黒いカップにコーヒーを入れて持っていった。
「いただきまーす!」
早速、大喜びで焼き菓子を頬ばっている洋介を見ながら、ちらりと佐竹を見ると、精悍な横顔の友達は、やっぱり静かな顔でそんな弟を眺めていた。
(『友達』……か。)
ふと、胸の中をそんな思いがよぎってゆく。
内藤は、自分のマグカップの中に目線を落とした。
「友達」。
これからもずっと、そう呼ばれる関係のまま傍にいて欲しいと、自分は昨夜ゆうべ、この友達にそう言った。
そして彼も、特に何の不満を言うこともなく、黙ってそれを了承してくれた。
(つまり、……それって。)
そうやって、自分は多分、「線」を引いたのだと思う。
佐竹と自分の間にも、自分の心の中にもだ。
もうそれ以上、「こちら」へ踏み込んで来ないでくれと。
自分も、「そちら」へは踏み込まないからと。
「ずっと『友達』でいような」っていうのは、要するに、そういうことだ。
多分佐竹も、あの言葉を、そういう意味として受け取ったのに違いない。
ずっとこのまま、今のままで、これから洋介が大きくなっても、お互い彼女ができたりだとか、結婚して家族が増えたりだとかしたりしても――
ずうっと、「友達」として付き合い続ける。
何年も、何年も……きっと、どちらかが死ぬまでだ。
きっとそれだって、悪くない。
とても仲のいい老夫婦なんか、きっとそんな関係じゃないかと思うし。
一番そばにいて、分かり合ってて、ちょうど、とてもいい「友達」みたいな。
(『トモダチ』……か。)
今更、なに考えてるんだ、俺。
コーヒーも、せっかくの焼き菓子も、みんな砂を噛むみたいだ。
なんで俺、こんな、変な気持ちになってんの……?
自分で勝手にそれを選んで、
別に訊かれもしないのに、佐竹にその「距離」を求めた。
佐竹がそれを、拒否するはずがないのをわかってて。
(でも……。)
内藤は、マグカップに口をつける振りをしながら、佐竹の横顔をそっと見た。
どうなんだろう。
どう思ってる……?
(ほんとは、佐竹……、どうしたいと思ってるの……?)
◇
おやつの後は、洋介が佐竹にせがんで、庭で竹刀を振る練習をしていたので、内藤はその間、リビングで実力テストの勉強に
(あ〜……、やっぱり、ほんと色々、忘れてんなあ……。)
英語の参考書を片手に、頭を抱えたくなる。数学のほうはもっとだが、とにかくこの、「一切勉強していなかった七年間」という
「……どうだ、ある程度は
洋介と庭から戻ってきた佐竹が、内藤の手元を少し覗き込むようにして訊ねた。
「あ〜、いや……。ちょっと駄目っぽいです、先生……」
苦笑して見上げると、佐竹の黒い瞳はいつもどおり、ごく静かなものだった。
「そうか。ちょっと見せてみろ」
言って、佐竹は内藤が詰まっている部分の英文をさらさらっと読んでみてから、簡潔にまとまった解説をしてくれる。
内藤はもう慣れてしまったが、母親が海外で働く人であるせいか、佐竹は英語の発音もびっくりするぐらいいい。どこからどう見ても、「ちょっと古風な日本男児」にしか見えない男の口から聞こえる英文とはとても思えないのが、なかなかに新鮮だ。
こういうのを「ギャップ萌え」とか言うのだと、確か翔平が言っていた。
洋介は自分の部屋に戻って、いまお気に入りのブロックの玩具で遊び始めたらしかった。
ひと通り、分からない部分の解説が終わってから、ふと佐竹が思い出したように訊ねた。
「そういえば、進路調査票が来ていたな。お前はどうするつもりなんだ?」
さらっと、まるで当然のように訊かれたが、内藤はぐっと言葉に詰まった。
「い、いや……。俺、今そんなこと訊かれても――」
目の前のテストで四苦八苦している人間が、そうそう先のことまで考えている余裕はない。
「そうは言っても、もう二年の秋だからな。あまりのんびりもしていられんと思うが――」
佐竹の口調には、事情が事情であるだけに責める調子は一切無かったが、やはり心配はしてくれているようだった。内藤はまた、言葉につまった。
「う……。そ、そうなんだけど――」
「身近な成績のことはともかくとして、この先どうしたいとか、何になりたいとか、そういうことは考えたりしないのか」
佐竹の訊き方は、もう殆ど保護者のそれのようだ。
いやむしろ、実の父である隆が聞くのよりも数段、父親らしかったりするから参る。
「ん〜と……。そうだなあ……」
シャーペンの尻のところで唇をつつきながら、内藤はちょっと考える。
「ほんとは、さ……。俺」
本当は、ちょっと思うところならある。佐竹は黙ってこちらを見つめ、内藤の言葉の先を待ってくれている。
内藤は思い切って、言ってみることにした。
「『あっち』で、算術の先生やってたじゃん? それで何か……、単純かも知れないんだけど、誰かに何か教えるの、結構好きかもって思ったりして――」
「……それで」
恐る恐る言ってみた言葉だったが、意外にも静かな声で先を促されて、内藤は少し勇気が湧いた。
「えっと、だから……。別に、学校の先生でなくてもいいんだけど。俺、別に勉強、得意なわけでもないし。でも、そういう奴だからこそ、逆に生徒のわかんないとこ、分かってあげられたりするんだって、『あっち』で分かったりしてさ――」
佐竹は黙って頷き、内藤の言葉に耳を傾けている。
「ほら、なんか家庭の事情とかでさ……、今は学校とか、塾とか行けない子が多いっていうじゃん? 勉強、したくっても出来ない子とかさ。仕事自体は他のことをするとしても、例えばそういう子たちに勉強教える、NPOとか……そういうの、手伝えたらいいかな、とかも思ったり――」
佐竹は、また軽く、頷いてくれた。
「……なるほどな」
内藤は、膝の上に落としていた視線をちょっと上げて、佐竹の顔を窺ってみた。
「あ……の。変、かな……?」
「……いや。お前らしいと思うぞ」
気のせいか、そう言った佐竹の顔は、少し嬉しそうにも見えた。
(あ……)
普段、ほとんど笑わない友達の顔に、ほんの少しの笑みが見えた気がして、内藤の心臓はまた、どきんと跳ねた。
(やっぱ、俺……。)
その次に心の中で続いた言葉が、
そのまま真っ直ぐ、胸の真ん中に刺さった気がした。
「…………」
言いたい。
……言えない。
でも……言いたい。
そんな思いが、またふつふつと湧いてきて、急にまた目許が危うくなり、内藤は慌てて立ち上がった。
「あ、ふ、風呂洗っとくの、忘れてた――! ちょっと行って来るな!」
ぱたぱたと、風呂場に向かって歩いていく。
こっそりとまた、目許を擦った。
内藤家のリビングに一人残された佐竹は、椅子に腰掛けたまま、内藤の出て行ったリビングの入り口をしばらくじっと見つめていた。
そして、やがてひとつ、溜め息をついた。
リビングの窓から見える庭にちょっと目をやり、しばし黙り込む。
「『友達』……か」
ほとんど息だけで零れたその言葉は、
その家の誰の耳にも、届かないままだった。
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