第4話 誤解

 翌日から、佐竹と内藤の生活は、ほぼ元の姿を取り戻した。


 教室で簡単なメールのやりとりをし、当日の予定を相談して、放課後はなるべく行動を共にする。部活がある日でも、佐竹はやむなく、一旦、内藤と共に学童へ回って二人を自宅へ送り届け、再び学校へ戻るという生活を始めた。

 勿論、クラスメートである今井翔平が内藤と一緒に帰れる場合は別で、途中まででも彼が同行することが分かっている場合だけは、佐竹もそのまま部活に行った。


 いずれにしても、佐竹の生活が以前よりも更に忙しくなったのは明らかだった。

 内藤はそれが申し訳なくて仕方がなかったが、内藤が何をどう言っても、佐竹はそれをやめることを頑としてうけがわなかった。

 佐竹は時々、内藤に武術の基本的な体捌きや護身術などについて、内藤家の庭で少しずつ指南してくれるようにもなっている。彼はもはや、勉強とそちらの両道において、完全に内藤の師さながらだった。

 洋介もそれを面白がって、時々一緒に稽古する。


 そういえば近頃の洋介は、佐竹の剣道姿がひどく気に入ったからか、あの山本師範の道場に入門したがり始めている。一度佐竹の稽古を見学に行ったとき、山本師範の元に沢山の小学生らが通っているのを目にしたことも大きいのだろう。

 多少優しすぎて引っ込み思案なところのあるあの小さな弟が、そういう方面に興味を示すのは初めてのことだった。

 内藤は今、そのことを父である隆に相談中である。もしも洋介が、佐竹が世話になっている道場で剣の稽古を積むことになれば、それはなんだか内藤にとっても、とても嬉しいことのような気持ちがしたからだ。


 そうこうするうちにも、秋は日に日に深まってゆく。

 二学期は学校行事も目白押しで、まずは体育祭が行なわれ、すぐに中間考査も実施された。更にそれに続くようにして、早くも文化祭の準備が始められている。


 高校二年生の秋が、どんどん過ぎ去ってゆく。

 内藤はときどき、それを不思議な思いで眺めていた。


 こんな平和な日々を取り戻せるなどと、

 あの時、少しでも自分は思い描いていただろうか?

 あの、巨大な惑星が空を占領して、自分を嘲り見下ろすようにしていたあの世界で。


 そしてふとまた、思い出す。

 異世界の王宮、夜の廊下の、あの情景をだ。


 豪奢なオーロラのカーテンの下で、灯火を手にしてこちらを見たまま、

 驚いた顔をして立ち尽くしていた、あの精悍な友達の姿を。

 異国の服を纏っていても、彼の姿はすぐに分かった。

 長身で、潔くて、きりりとした立ち姿。

 自分が見間違えるはずがなかった。


 自分は、裸足で駆け寄って、彼の胸にむしゃぶりついた。

 泣き出した自分を抱きしめて、彼は名前を呼んでくれた。

 あの、いつもの静かな、低い声で。


 内藤は今でも、あの時のことを思い出すたび、訳もなく泣きそうになる。

 そして、ずっと分からずにいる。

 いったい何をどうすれば、彼にこの恩返しができるのかと。

 ずっと考えているけれど、それだけはどうしても分からない。


 佐竹は何も、求めない。

 あんなにまでして自分を救い出しに来てくれていながらも、やっぱり、何も求めない。普通の人間だったら、あれほどのことをして他人を救い出したなら、少しぐらいは「ああして欲しい」とか「こうして欲しい」とか、言ってきてもおかしくはない。


(それなのに。)


 ……いや、それどころか。

 一度など、自分はあの佐竹から、「礼も要らなければ、謝罪も要らん」とまで、言い渡されてしまったことさえあるぐらいだ。

 それも、殆ど脅迫ではないかと思うほどの、鋭い声音と眼差しで。


 内藤には、それがもどかしい。

 何か少しでも、彼が喜んでくれることはないのだろうか。

 自分が、してやれることはないのだろうか。

 そんな風に、いつも考えてしまうのだ。


(佐竹の望みって、なんだろう……?)


 佐竹だって、人間である以上、望みのひとつやふたつ、あるはずだ。

 どんな小さなことでもいい。自分に、して欲しいと思うことはないのだろうか。

 それがたとえどんなことでも、自分はいつでも、何を措いても返したいと、心からそう思っているのに。


 ただ助けられて、いや、それこそ「命懸けで」助けられて、

 こうして普通の高校生活を送っているだけで、

 それで本当にいいのだろうか……?



                ◇



「……どしたの? 祐哉ユーヤ

 びっくりしたような翔平の声が隣で聞こえて、内藤ははっと我に返った。

「あ、……ごめん。ちょっとぼーっとしてた……」


 文化祭の準備のために、模擬店の看板を塗ったり店の櫓を組み立てたりで、教室内にはグレーのジャージ姿のクラスメートたちが忙しそうに動き回っている。

 今日、放課後のこの時間は、ダンボールを切ったり、模造紙に色を塗ってそこに貼り付けたりと、その準備も大詰めを迎えているところだった。

「…………」

 翔平の変な視線の理由がなんであるかに突然気付いて、内藤はちょっと慌てた。目の辺りが例によって、また危ないことになりかかっていた。

「ほ、埃っぽいな〜? やっぱり、教室でこういう事すると――」

 絵の具のついた大筆を手に持ったまま、肘でささっと目元を拭ってからにっこり笑って見せると、翔平は変な顔をして内藤を見返した。


「なんっかさあ。……変わったよなあ? ユーヤ」

「え? そ、そうかな……?」

 内藤は、内心どきりとする。

 翔平のほうではそうではなくても、自分からすればこの友達には、実質七年ほどの付き合いのブランクが存在するのだ。その間に起こった様々なことを考えれば、自分が七年前そのままの「内藤祐哉」であるはずがない。

 あの「ナイト王」の意識下にずっと囚われたまま過ごしたのだとはいえ、それでも七年は七年だ。精神年齢だけは一応、大人の男のそれになってしまっているのだから。

 もっとも、佐竹に言わせれば、せいぜい「それで丁度いいぐらいだ」ということになるらしかったが。相当失礼な言い草だが、内藤自身、あの友達に向かってだけは「そんなことはない」と胸を張って言い返せないのが辛いところだ。


(けど……。)


 内藤はつい、一番したくない想像に行き着いてしまう。


(『ちょっとおっさん臭い』とか……思われてたらイヤだなあ……。)


 そんな事をふと思いながら、それでも内藤は苦笑して見せた。

「なんで? 俺、そんな変……?」

 と、翔平の目が何故か、意味深で悪戯っぽい光に満たされた。

「アレだろ。夏休みの間に、なんかあったろ〜?」

「え……」

 言われて、ぎくりと心臓を掴まれたようになる。


(俺って、そんなにバレバレなのかな……?)


 たらたらと、冷や汗が背中を伝い落ちて行く。

 いや、知っている。そんな事はもう、十分すぎるほど。

 なにしろこれまでもあの友達から、「お前はちょっと顔に出すぎる」と散々言われて来ているのだ。それにしても。


(ま、……まずいよ……!)


 内藤はおろおろして、周囲に視線を走らせた。


 どうしよう。今、教室内に佐竹はいない。

 こういう困った場面になっても、彼なら難なく話題を逸らしたり誤魔化したりして、とうにこの窮地から、内藤を救い出してくれているだろうに。

 翔平は、そんな内藤の思いを知ってか知らずか、思わせぶりな笑顔を満面に湛えて、ぐいっと内藤の首に腕を回した。

「くっくっく……。分かってんよ。分かってますよ〜〜? 俺の目は誤魔化せねえっつーの!」

「…………」

 内藤の顔から、どんどん血の気が引いてゆく。


(ど、どどど、どうしよう……。)


「『カラダ』の方はまだみてえだけど、『ココロ』はもうとっくに、大人になっちゃったんでしょ〜? え? どーなのよ、そこんとこ〜??」

「………!!」

 翔平は、もう拳をぐりぐりと内藤のこめかみ辺りにねじりこみながら満面の笑みだ。

「言っちまいなって、ユーヤ! このこの〜!!」

 そして、ひゃっひゃっひゃ、と彼特有の、軽く楽しげな笑声をあげた。

(…………!)

 内藤はもう、蒼白だ。


(う、嘘だろ!? そんな事まで……?)


 が、翔平の次の台詞で、あっさりと肩透かしを食らわされた。

「あの子だろ〜? あの、すんげえ美少女お嬢サマだろっつーの! いや、無理ねえわ〜。あんっだけレベル高い子、そうそういねえもんなあ!」


(……ん?)


 内藤は、一瞬なにを言われているのか分からなかった。


(『お嬢様』……??)


 「誰のことだっけ」と少し考えて、「ああ」、とやっと合点が行く。

 「お嬢様」なんていう生き物は、今の自分の周囲には、たった一人しか棲息していない。


(なるほど……。)


 どうやらこの友達は、盛大に何かを勘違いしている。


(俺が、あの子のことを……って、そう思ってるわけか。そうか……)


 さすが高校生。

 いや、翔平。

 考えることが短絡的だ。


(でも……。なら、いいか……?)


 そう思ったら、突然、すとっと気分が落ち着いた。

 別に、自分が彼女のことを好きだと誤解されているぶんには、何も困ることはない。

 いや少なくとも、実は自分が、彼らよりも七つも精神年齢が上になってしまっているなどと知られてしまうよりは、はるかにましだ。

 なんといっても、彼女は他校の生徒だ。それも、別に近隣でもなんでもない、ごく遠方の女子高だ。普段、この学校の生徒たちとの接点もない。自分が彼女を好きだなどという、ありもしない噂が立ったところで、彼女に直接迷惑が掛かるということはまずないだろう。


(あ、でも……。)


 しかしそこで、内藤ははたと、ある事に思い至った。


(佐竹にはちゃんと説明しとかないと、まずいよな……?)


 自分が本当にあの少女のことを好きになったなどと、あの友達に誤解されるのだけは勘弁してもらいたい。

 なにしろ、この口の軽い翔平のことだ。今後はもう大喜びで、あっちやこっちでこのことを吹聴して回ってくれるかもしれない。いや、間違いなくそうするだろう。


 それは危ない。危なすぎる。

 それがもし、自分が説明する前に、あの佐竹の耳に入ったら――。

「…………!」

 内藤は知らず、背筋が寒くなった。


(だっ……、駄目だ……!)


 なぜ駄目なのかよくわからないが、とにかく駄目だ。そんな気がする。


(いや、困る――!)


 想像しただけで、視界がちょっとぐるぐる回りそうだった。


(ってゆーか……やだ!)


 そんな場面を思い描くだけでも、胃の辺りが重苦しくなった。

 そんな自分の反応そのものに自分でも驚きながら、しかし、内藤はそんな自分のことがやっぱりよく分からないでいた。


 大体、どうして佐竹に知られたらまずいのか。

 どうしてこんなに、嫌なのか。


(何だよ俺……。どうしたんだよ――?)


 が、そんなこんなで混乱し、無言になってしまった内藤には全く気付かずに、翔平は相変わらず、嬉しそうに内藤の頭をうりうりと拳の先でつつきまわしていた。

「さあ! どーんとお兄さんに言っちゃってごらんなさ〜い?」

 冗談なのはわかっているが、結構その拳が痛い。

「あいったたた! ちょっとショーヘー、やめろって――」

「これでも結構、経験豊富よ〜? さすがに『お嬢様の落とし方』まではわかんねえけど、何でも相談乗るっつーの!」

「いやあの、頼むから! あとこれ、みんなに絶対言うなよっ……!?」

 かっかっか、と翔平が破顔した。

「わ〜かってるって〜! お兄さんに、まっかせなさ〜い?」

 本当にわかってるのか。

 翔平のことは嫌いじゃないが、この軽さだけはもう、まったくもって信用できない。


 と、内藤がそう思ったとき。

「……楽しそうなところ、悪いんだが」

 いきなり頭上から低い声がした。

「うっひゃああああッ!?」

 途端、心臓が異常な跳ね上がり方をして、内藤は肩に引っかかっていた翔平を振り飛ばし、変な声を上げて跳び退っていた。

 手にしていた大筆が、綺麗な弧を描いて教室の隅に飛んでいく。

「うっわ!? なんだよユーヤ、どしたのよ――?」

 翔平も、内藤のあまりの勢いに吹っ飛ばされて、びっくりして目を剥いていた。

「…………」

 内藤の心臓は、もうばくばく大変な音をたてている。その派手なことといったら、もはや翔平にも背後に立っていた「当の彼」にも、まる聞こえなのではないかと心配になるほどだった。

 もちろん、立っていたのは佐竹だった。彼はジャージには着替えておらず、いつもの制服姿のままだ。今はもう、冬服のブレザーに変わっている。


 佐竹は、内藤のおかしな態度に多少怪訝な顔はしていたが、常に変わらぬ静かな声で、目の前の二人にこう訊ねた。

「担任から、材料費のことで伝言を頼まれた。文化委員はどこにいる?」

「にゃっ? ああ、水沢? あいつなら、さっき足りない暗幕とりに行くとかって、女子と一緒に体育館にいったけど〜?」

 翔平がなんだか猫みたいな奇声をあげて、佐竹に向かって返事をした。この二人が会話をするのは、なかなか普段は見られない光景である。

「そうか。了解した。……邪魔したな」

 ごく素っ気無い調子でそれだけ言うと、佐竹は踵を返して、大股にそちらへ歩いて行ってしまった。

「…………」


 まだばくばく言っている心臓は、佐竹の姿が扉の向こうに消えてしばらくたっても、なかなか落ち着いてはくれなかった。 


(まさか……。聞かれた……?)


 喉の奥がひりひりする。


(今の、聞かれてた……??)


 内藤は、目の前が暗くなるような錯覚に襲われた。


 佐竹の表情はいつもと何も変わらなかった。だけどそれは、いつものことだ。

 あのあまり変わらない顔の下で、実は様々なことを考えている奴だということは、内藤が誰よりもよく知っている。


(まずい、……かも……。)


 いや多分、間違いなくまずいだろう。


(聞かれてませんように。……あいつに、聞かれていませんように――。)


 誰に向かってかも分からない祈りを、心の中で繰り返す。


「ユーヤぁ? なんっかまた、顔、あけぇぞ〜?」

 隣から翔平が、変な顔をして内藤を見た。


 その瞬間。

「………!」

 かあああっと、耳まで一気に熱くなった。

 内藤は、今度こそ本格的に、顔から火を吹いたのを自覚した。


 思わずぱっと片手で顔を覆うと、くるりと振り向き、ものも言わずに教室から駆け出す。そのまま、さっき佐竹が行ってしまった方角とは真反対の方へ走った。

「っておい!? ユーヤあぁ――!?」

 翔平の驚いた声が追いすがってきたが、内藤は全てを無視して走りぬけた。

 文化祭準備で大物のベニヤ板やらダンボールやらが林立し、あっちやこっちで生徒たちが作業に勤しんでいる廊下を抜けて、まっしぐらに駆けてゆく。


(……なんだよ、俺。どうしたんだよっ……!)


 一目散に、障害物の多い廊下を駆け抜けながら、内藤はひたすら、同じ台詞を心の中で繰り返していた。

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