カーテンコール(番外編)

開演のベルが鳴る――入江駿(中学二年)

 暗闇の中、ひとりの少女が真っ直ぐに立っている。


 頭上からの明かりが柱のように暗闇を引き裂いて少女を閉じ込めている。少女はややうつむきがちなせいで表情が見えない。


 ぶつぶつと聞き取れない言葉を発しながら、ゆっくり頭が上がっていく。

 それに伴って声も大きさを増し、ところどころ言葉が聞き取れるようになる。それは親友に向けられる思いやりの言葉。普段は笑顔で親しく接している彼女に訪れた不運。

 それに同情しているのかと思いきや、いまだ闇に塗られた口元からくつくつと笑い声が漏れてくる。

 やがて言葉は悪意あるものへと変化し、親友の不幸をおいしそうに味わう。徐々に声は高まり、口調が早まる。顔も上を向いていく。


 やがて真上を向くと、高笑いをした。


 そこで初めて表情が見える。


 醜い笑みを貼り付けた少女の顔が。





 腰のあたりから首筋にかけて大量の虫が這い上がるような不快感が襲う。

 再び闇に包まれると、首筋の虫たちはぱあっと頭蓋に広がって頬や口元まで痺れが覆い尽くす。

 その痺れがゆっくり空気中に溶け出すと、俺の口から声が漏れた。


「――すごい」


 隣の座席で姉ちゃんがふっと笑ったのがわかった。まんまとしてやられた。


 けれどもそんなことが気にならないくらい、今の光景が脳裏に焼き付いていた。




   *




「入江って、あの入江もえの弟か!」


 入学当初、各教科の最初の授業で必ず投げかけられた言葉。


 初めて会う先生はみんな俺を“あの”入江萌の付属物としか見ていなかった。それは“あの”入江萌と同じように出来がいいのだろうとか、“あの”入江萌には適わないだろうとか、姉ちゃんと比較されることで俺が存在していた。

 先生がたびたびそんな風に声をかけてくるせいで、同級生たちも俺に興味を持ち始めた。どんなにすごいやつなんだろうと。


 だけど俺は凡人だ。そんなことわかっている。いじけているわけじゃない。


 世の中の――その言い方が大袈裟なら「クラスの中の」と言い換えてもいい――ほとんどのやつは凡人だ。ほとんどのやつと同じことを凡人というのだから当たり前だ。

 なのに、俺が凡人だとわかると、やつらは揃ってがっかりする。勝手になにかを期待して、勝手に失望する。

 俺は凡人だから、失望されるほどに出来が悪いわけでもないんだけど。


 なんにせよ、出来がいい姉を持つといいことがない。


 なのに他人は「“あの”入江萌が姉ちゃんだなんていいよな~」なんて言う。俺は「そうかぁ?」と笑って答えるしかない。

 どうしたって俺は「“あの”入江萌の弟」から逃げだせないのだから。



 中二になって、ようやくそんなことも言われなくなってきたのに、図書委員の当番でカウンターに座っていたらいきなり指を差された。


「入江って、あの入江萌の弟か!」


 今日の当番を一緒に担当するはずだったやつが早退したとかで、律儀にもその伝言を伝えに来てくれたのだが。


「うっわ、すっげー。全然似てないのな」


 似てない……だろうか。顔はよく似ていると言われるんだけど。


「つくりが同じなのに、幸薄そうな顔してんね~」


 それって男子に言う言葉だろうか。つーか、普通初対面のやつに言わないだろ。


「図書室では静かにしてください」

「だって、誰もいないじゃん」

「……そうだけど」

「大丈夫、誰か来たらちゃんと小さい声でしゃべるから」


 ってか、しゃべること前提かよ。それよりまだ居座る気か? 用事は済んだはずだが?


「で、あんた誰だよ?」

「だからぁ、伝言を~」

「じゃなくって、あんた自身のこと」

「あ! 興味ある?」

「ねーよ! けど気になるじゃん」

「ふ~ん。気になるんだぁ~」

「か、勘違いすんなよっ、女子としてじゃなく……」

「あーあ。まだ女子に見えるか……」


 がっくし、って言葉が聞こえそうなほど大袈裟にうなだれる。なんだこいつ。面倒なやつだな。


「……言葉遣いは男子みたいだけど、女子の制服着てりゃあ女子に見えるに決まってるだろ」

「あっ! そうか! 鋭いね、入江くん!」


 いや、あんたが鈍いんだと思うよ。


「で? なんでそんな男言葉なわけ? いつもそうなの?」

「まさか。役作りだよ」


 ピンときた。


「……演劇部か」

「ピンポン、ピンポーン!」


 古臭いリアクションだな……。


「演劇部二年、宇梶美香うかじみかですっ!」


 敬礼とかすんなっ! ウィンクしながら舌出して首かしげて――てへっ。じゃないっ!

 こういうのをイタイやつって言うんだろうな。


「あー、もうやめやめ!」


 宇梶は急に高い声になって、カウンターの内側に回ってきた。


「図書委員以外入っちゃいけないんだぞ」

「そう硬いこと言わないの」

「あんたがゆるゆるなんだろうがっ」


 思わずキツイ言葉を吐いてしまって、まずいと思ったけど、宇梶はちっとも堪えた様子もなく、にへらっと笑って隣の椅子に座りやがった。


「入江くんさぁ~」


 カウンターに頬杖をついて俺の顔を覗き込む。垂れ目の二重が眠たそうに見える。こうやってまじまじ見るとなかなかにかわいらしい顔をしている。鼻にかかった声で語尾を伸ばしてしゃべる口調も悪くない。


「あなた、友達いないでしょ~?」


 前言撤回ッ!


「な、なんでわかる?!」

「あはは~。認めちゃったね」


 ……あ。思わず。


「図書当番っていったって、友達がいればその日は一緒に図書室に来てくれるんじゃないの?」


 たしかに、ほかの図書委員の当番の時はクラスの友達らしき人たちが来ている。カウンター近くの席で本を読んだり、たまに近寄って話してみたり。自分が利用者の立場だとうっとうしく思っていたけど、そうか、友達がいるってそういうことなんだな。


「あ、あんたはどうなんだよ? こんなところで時間潰しているってことは、あんたこそ友達いないんじゃねーの?」

「うん。いないよ」


 仕返ししたつもりが図星かよ……。しかも。


「……あっさり答えるんだな」

「だっていないもんはしかたないじゃん――でしょ?」

「――だな」


 窓の外からわーわーきゃあきゃあと賑やかな声が流れこんでくる。廊下をバタバタと走る音。誰かを呼ぶ声。笑い声。


 みんな、いったいなにが――。


「なにがそんなに楽しいんだろうね」


 思わず考えていることが口から零れたのかと思った。けれどもその声は甘くやわらかな声だった。


「なに、宇梶って楽しくないの?」

「うん。楽しくないね~」

「演劇ってつまらない?」

「ううん。楽しいよ」

「だったら」

「キャストになれたら、きっと楽しいよ」


 なれたら……?


「さっき役作りしていたじゃん」

「ん~。あれはサブキャスト」

「キャストにサブとかメインとかあんの?」

「あるよ。サブは補欠。……あー、そっか。知らないよね。萌先輩は一年の時からメインキャストだもんね」


 そうなのだ。姉ちゃんは演技がうまい(らしい)。勉強もできる(らしい)。生徒会もやっている(これは知っている)。おまけにかわいい(らしい。弟としては承服しかねるが)。はっきり言って姉ちゃんはすごい。それは認める。


 でも、だからいやなんだ。「あの入江萌の弟か?」って言われるのが。俺は普通なのに、姉ちゃんと比べられた途端に普通以下になる。


「ねぇ……死にたい、って思ったことある?」


 いきなり重いな! そんなこと考えたことはない。ない、けど。宇梶がそう問いかけてきたってことは……。この場合、どう答えるのが正解なんだろう。

 迷っているうちに宇梶が自分で話し始めた。


「あたしはねぇ、死にたいって思ったこと――」


 自分の鼻息が荒くなってなんだかすごく恥ずかしくなる。小さくなっていく宇梶の声を俺の鼻息の音で掻き消さないように息を止める。窒息する前に言っちゃってくれ。慰めの言葉はその後で考えるから。


「――ないよ~」


 ぶはっと息を吐く。


「ないのかよっ!」

「あるわけないでしょ? なんで? あった方がよかった?」

「そうじゃないけど、だったらなんで聞くんだよ?」

「台詞の練習だよぉ~」

「会話の途中からいきなり台詞の練習始めるなよ!」

「そんなのあたしの勝手でしょ?」

「勝手じゃねーよ。それにどうせサブキャストなんだろ?」

「まぁね。どうせサブキャストなんだけどね」


 そう言ってまたにへら~と笑う。どうも調子狂うわ、こいつ。


「んじゃ、そういうことで」


 二本指で敬礼をして去っていく。途端に静寂が深まる。


「……そういうことって、どういうことだよ」


 小さな声で毒づいたつもりが、誰もいない図書室に案外大きく響いた。




     *




「もう、あんたも自分が使った食器くらい流しに運びなさいよね」


 姉ちゃんが夕食後のテーブルを拭きながら、ソファーで文庫本を広げている俺を睨む。


「ん。明日からやるよ」

「あんた、昨日もそう言ってたでしょ」


 ばれたか。


 台所でお母さんが洗い物をしている。お父さんはまだ帰ってきていない。姉ちゃんは使い終わったふきんを台所に置いて、二階に上がろうと俺の横を通り過ぎようとしていた。


「なぁ、姉ちゃん」

「わっ。びっくりした」

「なんだよ、驚くことないだろ」

「だって、駿しゅんから話しかけてくることなんてないから」


 そうだっただろうか。


 小さい頃はどこへ行くにも姉ちゃんにくっついて行った。

 姉ちゃんは俺のヒーローだった。ヒロインじゃなくてヒーロー。引っ込み思案な子を仲間に入れてあげたり、年下の子の面倒をみたり、喧嘩を見つければそれが上級生の男子たちでも仲裁に入った。昔から姉ちゃんは完璧だった。

 自慢の姉ちゃんだった。いつか自分も姉ちゃんみたいになるんだって思っていた。


 それがいつからだろう。俺は姉ちゃんとは違うって自覚したのは。眩しくって直接見ることも近づくこともできないってわかったのは。

 だからといって、俺が日陰やまして闇が似合うほどの個性がないこともわかっていた。


 中途半端。


 それが俺の立場。


 なにをやっても可も不可もなく、いてもいなくてもわからない。


 ――死にたいと思ったことある?


 宇梶の言葉が甦る。


 そんなこと、思ったことがない方がいいに決まっている。だけど、そこまで苦しんだり悩んだりするって、やっぱり生きているってことなんじゃないかとも思う。俺はすごく辛い思いをしたことがない代わりに、すごく楽しい思いもしたことがない。


 宇梶もそうなんだろうと思った。あの時は。

 でも。


 ――あたしはねぇ、死にたいって思ったことないよ~。

 ――台詞の練習だよぉ~


 うそつきめ。サブキャストなのは男役じゃなかったのかよ。「あたし」ってなんだよ。ややこしいじゃんか。


「姉ちゃんさ、演劇部に宇梶っている?」

「宇梶?……ああ、美香のこと?」

「宇梶、美香……ああ、うん、そうかな」

「美香がどうかした?」

「あいつって大丈夫?」

「大丈夫ってなにが?」


 姉ちゃんは食卓の椅子を引き出して腰かけた。本格的に俺の話を聞いてくれるつもりらしい。こういうところなんだよな、姉ちゃんがかっこいいのは。ちゃんと大切な話だと察してくれる。


 俺は今日初めて宇梶に会ったこと、ぶっとんだ女子だと思ったけれど、後からよくよく考えてみるとかなり無理している感じがしたことなどを話した。

 俺は、普段、家でも学校でも誰かと話すことなんかほとんどないものだから、話し方というものをすっかり忘れていて、自分でもなにが言いたいのかわからなくなったりした。

 けれど、そのたびに姉ちゃんが「なんでそうなったの?」とか「その時の美香の様子は?」とか聞いてくれたから、どうにか今日あったことは伝えられたと思う。


「う~ん。なるほどね~」


 俺、なんでちょっと話しただけの女子のことを姉ちゃんに相談しているんだろう。いや、女子っていうのはこの際関係ないな。なんか話しやすかったんだ。あまりちゃんとした会話になっていなかったけれど、なんだか楽しかったんだ。だから、そいつがなにかに潰されそうになっているのを見ていられない。


「美香もさすがに死にたいって思ったことはないだろうけど、全部やめちゃいたいって思ったのかもしれないね」

「なんかいやなこととかあるのかな」

「いやなことっていうか……キャストになれないこととか」

「それって大きなこと?」

「たぶん。二年生でまだキャストになったことがないのって美香だけなんだよね」

「そんなに下手なの?」

「そんなことはないけど……」

「じゃあなんで」

「三年生に嫌われているんじゃないかな」

「はあ?」


 まさに、はあ? だ。なんだそれ。キャストを決めるには毎回オーデションがあるはずだ。それを嫌われているからキャストになれない? いったいなんのためのオーデションだ。


「美香ってぶりっこだと思わない?」


 姉ちゃんがさらりと言う。


「へ?」

「たぶんあれがあの子の素だと思うんだけど、三年生たちは気に入らないみたい」

「なんだよ、そんなこと」

「そんなことが大事なんだよ、女子は。しかもその子が本当にかわいかったりしたらなおさらね」

「姉ちゃんは味方になってあげないのかよ」


 正義の味方だったんじゃないのかよ。という言葉は子供っぽいから飲み込む。


「出席率がよくないからね。キャストになったら劇全体に影響が出る」

「サボるようなやつじゃないだろう。あ、いや、よく知らないけど」

「うん、真面目だよ、美香は。だからどっちもやろうとして、どっちも中途半端になっちゃうんだと思う」

「どっちも?」

「知らないの? 美香、生徒会役員もやってるんだよ」


 知らなかった。生徒会ってものがあるのは知っているけど、選挙をやっているのも知っているけど、誰がやっているかなんて気にしたことない。


「なんだってまた……」

「わざわざいろんなことやるのかって?」


 うん、と頷く。だって、どっちかだけやっていればいいじゃないか。それともやらなきゃならない理由があるんだろうか。


「やりたいんだと思うよ。どっちも。だからしかたないのかもね」


 姉ちゃんにはわかるのか……。俺には……。


「……わからないよ」


 やりたいことってなんだよ。どうしてみんないくつもやりたいことが見つかるんだよ。


「駿だってやりたいことができなくなったらわかるよ」


 気楽に言うな。別に俺はやりたいことを我慢しているわけじゃない。やりたいことがないんだ。みんなどうやって探しているんだ。俺だってやりたくてもやれないって悩んでみたい。


 俺は、なににも心を動かされない。




      *




 あの日以来、宇梶と話すことはなかった。もともと接点がなにもないのだから当然なんだけれど。


 でもあいつはいつも忙しそうだった。部活やら生徒会やらでいろんなものを抱えて小走りに移動しているのをよく見かけた。

 傍から見れば雑用でしかない。こき使われているパシリにしか見えない。


 姉ちゃんが言うように本当にやりたくてやっているのだろうか。


 姉ちゃんだって県大会を控えて忙しそうだ。

 夜八時頃に帰ってきて、ご飯やお風呂のあとに勉強をして、なにやら夜中まで部屋でバタバタと音がしている。そして朝練。俺が起きた頃にはもう出掛けたあとだ。

 たまに見かけてもなんだかイライラしていて近づきたくない。

 あれのどこがやりたいことをやっている姿なんだろうと呆れる。




「駿、駿!」


 日曜だというのに、朝っぱらから姉ちゃんがうるさい。

 なに勝手に人の部屋に入って来てるんだよと文句を言いたいが、言い負かされるのが目に見えているから、黙ってタオルケットにくるまった。すると無情にもそのタオルケットが引き剥がされる。


「駿、起きて」

「あんだよ、うるさいなぁ」

「行くよ」


 そう声をかけながら、勝手にクローゼットを開け、これまた勝手に服を放り投げてくる。


「早く着替えて」

「自分の着る物ぐらい選ばせろよ」

「あんたの私服なんてどれもTシャツとジーンズじゃない。どれだって同じよ」


 ごもっともで。


 逆らうと更に面倒なことになりそうなので、わけもわからず言いなりになる。


 そして1時間後、なぜか俺は県立文化センターのホールに立っている。



   <中学校演劇発表会 県大会>



 あれ? 姉ちゃんの県大会? いやいや、別に演劇とか興味ないし。


 俺が回れ右をして出口に向かおうとすると、私服姿の宇梶が入ってきた。なんとなくフリフリのワンピースとか着ちゃうようなイメージだったけど、実際はジャージ姿だった。うわっ、女子中学生の私服がジャージとかって、ダサッ。


「おはようございます」


 語尾を伸ばさない滑舌のいい挨拶。もちろんこれは俺にじゃない。演劇部の先輩である姉ちゃんにだ。


「おはよう。やっぱり観に来たね」

「はい。昨日はお疲れ様でした」


 姉ちゃんたちの発表は昨日だったらしい。じゃあ今日はなんで……? と思ったら、姉ちゃんが腕組みをして宇梶に向き直った。


「関東大会への出場校は今日決まるけど、たぶん一中は今年も県大会どまりだと思う」

「……はい」

「だから、私たち三年生は引退する」

「はい」

「美香、あなた、キャストだったら生徒会を休みやすくなる?」

「……!」


「スタッフという立場だから、なんとしても部活に出なくちゃって言いきれないんじゃない?」

「そう、です……。お前がいなくても平気なんだろって」

「それでそうやって生徒会優先になるから、もしキャストになっても部活に出れないんじゃないかと思われるのよ」

「はい……すみません」


「私たちが引退したら、軸になるキャストがいなくなるわ。だから、あなたに本気で演劇をやってもらう。基礎練習きそれんでのエチュード見て、あなたが舞台でどう見えるか興味を持ったの」

「萌先輩……」

「でもきっとあなたは生徒会の仕事にもやりがいを感じていて、また代用の効く部活がおろそかになる気がする。だから、見てもらいたい劇がある。私がずっと気になっていた学校。きっと今年もあの子たちが出る」


「あの子たち?」


「北中の木内きうちこずえ風間かざま瑞希みずき。このふたりの演技を観たらじっとしていられなくなるから」


「そんなにすごいんですか?」

「うまいかどうかって意味なら、よくわからない。でも、観てみて――駿も」


 青春ドラマを観ている感覚で眺めていたら、いきなりふたりの視線がこっちを向いた。


「え、え? 俺?」


 なんでまた俺が? 演劇なんて観たことないよ。


「よくわかんないけど、駿もなんか感じるものがあるんじゃないかと思って」


 なんだよ、それ。めんどくさいんだけど。正直、演劇とかうっとうしいし。まだブラバンとかの方がマシ。


 ブーーーッ。


「ほら、1ベルが鳴った。もうすぐ客電が落ちるわ。ふたりとも早く中へ」


 クッションのついた分厚い二重扉を開ける。ざわつく客席がステージに向かって傾斜している。えんじ色の緞帳に県立文化センターとの金の刺繍。

 一番後ろの座席に三人で並んで座る。

 女性の声のアナウンスが萩台北中学校の演目を伝える。


 ブーーーッ。


 再びブザーが鳴り、じわじわと暗くなっていく。客席のざわめきが静まっていく。息遣いまでが聞こえそうに空気が張り詰める。


 緞帳が重い腰を上げる老婆のようにもったいぶって上がっていく。わずかに開いた隙間から真っ直ぐに立つ二本の足が見えてくる。


 なにかが始まる――。


 当たり前のことなのに、それがもの凄いことのように思える。


 緞帳が上がり切ると、ステージの上の女子生徒が動き出した。あ、なにかしゃべるぞ。俺は息を止めてその子を見つめた。



 これから始まるなにかを見極めるために――。












『開演のベルが鳴る――入江駿(中学二年)』 

       ―― 幕 ――

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