第五場 城東学院の文化祭

 土曜日。


 城東学院の校門は紙の花やキラキラしたモールでとても華やかだ。さすが私立高校というべきか、生徒たちもちょっとばかり上品に見える。呼び込みのチラシや看板も手が込んでいるのが伝わってくる。二、三年生はともかく、入学したての一年生がよくぞ文化祭まで辿り着いたものだと、ただただ感心する。


 来場者は在校生の親らしき人たちや他校の高校生のグループばかりで、ひとりでふらりと訪れている人など誰もいない。

 校門を入るのをためらっていると、実行委員の腕章を付けた女子がニコニコと寄ってきた。


「どうぞ」


 パンフレットの束から一部を手渡される。


 ――あれ? この人、どこかで……?


 微かな既視感に襲われたが、彼女は次の来場者のところへ歩いていく。上級生のようだし、城東学院に行った先輩は知らないから、きっと思い過ごしだろう。


 パンフレットを開き、ステージ部門のページを探す。タイムテーブルが載っている。今は軽音部が終わろうとしているころだ。


 ちょうどその時、体育館から歓声や、指笛の音が聞こえてきた。


 次は吹奏楽部、その次が……演劇部。その三文字が目に飛び込んできた瞬間、心臓がドクンッと跳ねた。一瞬、息が止まるかと思うほどの衝撃があって、すぐに規則正しい鼓動に戻る。

 演劇部――その字面を見つめているだけで、胸の奥がキュンとなる。

 気を取り直して、演目を見る。


「ロミジュリ?」


 思わず叫び、慌てて周りを見渡すが、誰もこちらを気にしていないようで、ひとまずホッとする。


 ――演目『ロミオとジュリエット』


 演劇の「え」の字も知らない人でも知っているウィリアム・シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』。こんなのをやる高校があるの? 高校演劇ってこういう感じなわけ?


 もちろん、中学演劇に夢中になってきた私は『ロミジュリ』の脚本だって読んだことがある。有名過ぎて、シェイクスピアの四大悲劇の一つだと思われがちだが、実は『ハムレット』、『マクベス』、『オセロ』、『リア王』がそれで、その中に『ロミオとジュリエット』は入っていない。――とか、それくらいなら知っている。

 たぶん、演劇に興味のない中高生だと四大悲劇に真っ先に『ロミオとジュリエット』を挙げてしまうだろう。それくらい有名な作品だ。それだけに、学校演劇で演じるなんて聞いたことがない。いや、私が知らないだけという可能性は充分にあるのだけれど。――しかし。


「ロミジュリねぇ……」


 ベタ過ぎやしないか? さすがに同級生や親に観られたら、ちょっと恥ずかしいのでは? と余計な心配をしてしまう。だって、ラブストーリーだよ? ベタ甘の。


「あなた、演劇やっているの?」


 突然の声にパンフレットから顔を上げると、さっきこのパンフレットをくれた人が相変わらずニコニコとしながら目の前に立っていた。


「え? あ、はい。……あ、いえ、やっていました。今はやっていないんですけど」

「ああ、やっぱり経験者なのね」

「やっぱり?」


 なぜバレる? 私、そんなに声大きかったっけ? さっきは誰もこっち見ていなかったけど?


「だって、ほら、『ロミジュリ』って」


 言った……けど?


「演劇やっていなきゃ、そんな略し方しないわよ」


 ……確かに。


「私、ジュリエットやるの。よかったら観に来て」


 え? この人、ここの演劇部なの? 


「じゃあ、私、準備に行くから。楽しんでいってね」


 細く長い指をひらひらと振って去っていく。


 華がある。舞台に立っていなくても、大きな声を出さなくても、あの人は目立つ。きっと上手い。そんな気がする。あの人の舞台を、演技を見てみたい。


 パンフレットに書かれた開始時間は一時間を切っていた。


 校舎には向かわず、まっすぐ体育館を目指す。文化祭そのものには興味はない。私はあの人の演技を見てみたいだけだ。

 体育館の内側のドアは音を立てないようにだろう、既に人ひとり分の幅に開いていて、暗幕が閉められている。光が射しこまないように素早く中に入る。


 吹奏楽部の演奏が始まっていた。体育館の前半分ほどにパイプ椅子が並べられている。いくつかの空席があるが、七割は埋まっているように見える。その観客数が文化祭として多いのか少ないのか私にはわからない。


 一番後ろの中央付近の席に座る。この席が一番好きだ。大会などを観る時も私はこのあたりの席を選ぶ。みんなは少しでも前の方で観たがるけど、私はひとりで後ろの席に座っていた。


 演劇は全体のバランスが大事だと思っている。だから舞台全体が見渡せる後ろの席がベストポジションだ。発声や滑舌の良し悪しもわかりやすいし。

 独りよがりの演技をしていた自分を思うと穴を掘ってでも入りたくなるが、自分のことは棚に上げるくらいでないと、他の人の演劇なんて二度と観られなくなってしまう。と、自分に言い聞かせる。


 吹奏楽部は大きな拍手を受けている。


 ふいに県大会でのカーテンコールが甦る。役の皮を脱ぎ捨てて自分に戻る瞬間。私が内側から拡散してどこまでも広がっていくような解放感。きっとそれを達成感と呼ぶのだと思う。その感覚を味わった瞬間から、次の同じ感覚を求め始める。何度でも何度でも味わいたくなる。


 フロアライトが点く。入口の暗幕が開け放され、観客がざわめきと共に吐き出されていく。席に残ったのは三割程度。入れ替えの時間は十五分しか取られていないから、ここから観客が大幅に増えるとは思えない。座席の半分も埋まれば上等だ。

 

 城東学院の演劇部ですら、この程度の注目度なのか。これが大会だったら立ち見が出てもおかしくないだろう。演劇そのものの認知度の低さを思い知らされる。


 幕の閉まったステージ上でドタドタと音がし始めた。演劇部の仕込みが始まったんだ。この音だけで、ワクワクしてくる。幕の内側を透視できたらいいのに、と閉まったままの幕を凝視する。幕は左右に動く引幕ではなく、上下に動く緞帳だ。こういうところが、さすが私立高校だ。


『ただいまより演劇部による『ロミオとジュリエット』を上演いたします』


 マイクによるアナウンスが入り、フロアライトが落ちていく。客席のざわめきが静まったところで、ブザーが鳴る。

 すごい! 学校の体育館なのに、ブザーがあるなんて!

 幕が降りたまま、あの有名な口上が朗々と謳われる。


「花の都のヴェローナに、威勢をきそう二名門……」


 その口上が終わりに近づくと、緞帳が焦らすように上がっていく。

 そこにはヴェローナの広場があった。思わず息を飲む。セットって、こんなに精巧に作れるの? 効果音で町のざわめきまで表現されている。冒頭で圧倒されていると、キャピュレット家のサムソンとグレゴリが歩いていくる。


 と、隣に人が座る気配がした。前の方にも席はたくさん空いているのにわざわざ後ろに座るのは、開演後だから遠慮しているのか、私みたいに舞台全体を眺めたい人なのか。少し興味が湧いて横目でチラリと見ると、なんと目が合った。


 ――入江?


 普段は無表情と言ってもいいほど変化のない入江の目が大きく見開かれる。

 いやいや、驚いたのはこっちだってば! あんた、演劇なんか興味あるわけ? しかもよその高校に来てまで演劇部の発表観るって!

 ――と、入江の向こう隣りに座っていたらしい女の子がスッと席を立って、体育館を出ていこうとしている。

 女連れで他校の演劇鑑賞? どういう神経よ? でもって、彼女はつまらないから出て行ったってとこ? しかも追いかけなくていいわけ?

 なんだかいろいろ突っ込みどころが満載で、暗い客席の中、正面切って入江を見てしまう。入江は半ば呆然としたまま、出口を指さして「追いかけて」と小声で言う。


(はあ?)

(早く!)


 あんたが行くべきでしょ、と当然思ったが、出て行った女の子が心配でもあった。喧嘩のシーンが始まった舞台をチラリと見て、エイッと立ち上がった。


 もうっ! こいつ、絶対に許さんっ!


 音を立てずに早足で体育館を出る。外の明るさによる眩暈が収まるのを待って、足を踏み出そうとすると。


「美香!」


 体育館の出口のすぐそばで美香がしゃがみこんでいた。

 演劇経験者の美香なら城東学院の演劇を観に来たのもわかる。それでもって、やっぱりこの二人は付き合っているのか。いろいろ納得できたような、更に納得できないような。

 いつものように、ハイテンションで「梢じゃーん」と言ってくるのを待ったが、美香はしゃがみ込んだまま動かない。動かないどころか、震えているように見える。


「美香? 大丈夫? 具合悪いの?」


 隣にしゃがんで肩に手をかけると、ようやくこちらに顔を向けた。


「……梢。なんで……?」


 なんでと言われても。あんたの彼氏に行けって言われたから。――って、そういうことじゃないよね。演劇やらないって言った私がどうしてここにいるのかってことだよね。でも、今は私のことより美香のこと。入江は出てくる気配ないし。なんなのよ、あいつは。


「……美香、少し休もうか」


 私は美香を体育館横の外階段に座らせた。


「ごめんね、梢。でも、体調が悪いわけじゃないから心配しないで」

「でも、顔色悪いよ。貧血じゃないの?」

「本当に大丈夫。原因はわかっているの」


 喧嘩でもしたのだろうか。だから入江は美香を追ってこなかったのだろうか。


「原因って……入江のこと?」

「え?」

「喧嘩でもした?」

「え……べつに」

「冷たくされたとか?」

「そんなことは……」

「あんなやつとよく付き合っているね」

「なんのこと?」

「隠さないで。私は入江のこといい印象ないけど、人の好みは否定しないから」


「……俺って、そんな印象悪いわけ?」

「悪い、悪い。そもそも第一印象が……って! 入江?」


 私は驚きすぎて、腰かけていた階段からずり落ちる。痛たたた……。


「なんか、お前、ものすごい勘違いしているんじゃねぇの?」

「勘違いってなによ?」

「俺と宇梶がなんかあると思っているだろ?」


 思っていますけど?


「その顔、完全に思い込んでいるな」


 入江が頭を抱えてしゃがみ込む。美香がはじけたように笑い出した。


「やだ。梢ったら、そんな風に思っていたの?」


 思っていましたけど?


「男女でも友達になれるんだよー」と美香。


 え? そうなの?


「お前、どんだけ古風なんだよ~。俺のばあちゃん並だな」と入江。


 そう……なの?


「なぁんだ」


 私は空を見上げて笑った。それを見て、美香と入江も笑った。


 体育館から大きな拍手が響いてきた。





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